第36話 永田未央2
なかなかまとまらず、投下の時間がいつもより大分遅れました。申し訳ありません。
更に、分割したにもかかわらず、今回の第2部分も10000字を超えました。
もう一度分割するのもどうかと思ったので、このまま第36話として投下します。
更に第36話の前半部分は、未央の祖母の便失禁の話がありますので、食事中に読むことはお勧めできません。
何か色々と申し訳なく思います。
前回の35話の描写で、未央の祖母の入院時期を新型感染症の流行前と描写しましたが、時系列を間違えており修正しました。
36話の冒頭は修正したものになります。
では、どうぞ。
お正月明け。
お祖母ちゃんが体調を崩して熱を出した。
新型感染症の可能性もあるため、保健所に連絡してPCR検査を受けた。
検査結果は陰性。
保健所から掛かりつけの脳神経内科のある病院に連絡してもらい、診察してもらったところ軽度の肺炎と診断され、念のため1週間程度入院することになった。
入院中、お祖母ちゃんは自分がどこにいるのか理解できなくなり、夜も点滴の針を自分で抜いて病室から出て行ってしまうと病院から連絡があった。
肺炎自体は良くなっているので自宅に戻って療養してもらってかまいません、と担当の呼吸器科の先生から言われて、当初の予定より2日早くお祖母ちゃんは退院して自宅に戻ってきた。
家に戻ったお祖母ちゃんはホッとした様子だったが、入院中は自分で点滴を外して歩き回る以外の時間はベッドで寝ていたため、全体的に手足の動きが衰えて鈍くなっていた。
また、何となくだが言葉が少なくなって、私の話も聞きたがらなくなった。
私が学校や進学塾から帰って、お祖母ちゃんの部屋に話をしに行っても、ベッドで横になって眠っている。TVすら見ようとしない。
私は寝ているのなら起こすのもお祖母ちゃんに悪いかな、と思いそのまま部屋を出る、そんな日が増えていた。
退院後、お祖母ちゃんはまたデイサービスの利用を再開したので、また以前の様に戻ってくれるだろうとこの時は思っていた。
1か月程経ったある日。
その日私は進学塾がない日で、夕方4時過ぎに帰宅した。まだ父母は帰ってきていない。
私が帰宅すると家の中が何か臭う。
便の臭いだ。
考えたくなかったが、お祖母ちゃんが失敗してしまったのだろう。
正直言って、他人のウンチを片付けるなんてしたことがない。
でも、お祖母ちゃんが困ってるなら、手伝ってあげなきゃ。
お祖母ちゃん、着替えしたのかな。
そんなことを考えてお祖母ちゃんの部屋に行ってみた。
いない。
「お祖母ちゃーん、どこー?」
声を出して呼んでみる。
返事はないが、風呂場の方で何か物音がする。
風呂場を覗いてみると、脱衣所に便の着いた衣類が脱ぎ散らかされている。
パンツには便がこんもり着いている。
浴室内にお祖母ちゃんはいるようだ。
その割にシャワー音などはしていない。
浴室の扉を開けると、浴室の床にお祖母ちゃんがしゃがみこんでいた。
私が入ってきたことに気づき、驚いた表情をしている。
「お祖母ちゃん、どうしたの、大丈夫?」
そう声を掛けると、
「ああ、これの使い方がわかんねんだ」
とシャワーを指さす。
そうか、自分で便を洗い流そうとしていたんだ。
「お祖母ちゃん、ちょっと待っててね、着替えとタオル取って来るから」
私はお祖母ちゃんにそう伝えて、お祖母ちゃんの部屋に行って着替えとタオルを持って浴室に戻った。
お祖母ちゃんは、自分の手に着いた便を取ろうとしたのか、浴室の壁に手を擦りつけていた。
「お祖母ちゃん、ちょっとそれはやめて。今シャワーで流すから」
私はシャワーを出してお祖母ちゃんの手にかけた。
お祖母ちゃんはしばらく裸で浴室にいたようで体が冷えていたから、温めようとして気持ち熱めのお湯にした。
「あちっ!」
とお祖母ちゃんはシャワーのお湯がかかった手を振り払った。
お祖母ちゃんの手についた便が私の制服に飛んだ。
「ちょっと、お祖母ちゃん、それはないよ!」
私はつい声を荒げてお祖母ちゃんに抗議してしまった。
お祖母ちゃんは「何をー、お前が俺を殺す気だろ、そんな熱っちい湯かけて!」
と便が着いた手で私を突き飛ばす。
私は転びはしなかったが、更に制服が汚れたことでショックを受けたし、私には優しかったお祖母ちゃんの乱暴な口の利き方や態度にもショックを受けた。
「お祖母ちゃん、私のことがわかんないの?未央だよ、毎日話してたじゃない」
「おめえなんか知らねえ!勝手に人ん家入ってきて何してんだ!」
私のことがわかってなかったの?
あんなに毎日話してたのに・・・
あんなに私のことを可愛がってくれてたのに・・・
私のこと忘れちゃったんだ・・・
私は無性に悲しく、切なくなり、自然と涙がこぼれた。
お祖母ちゃんはなおも私に掴みかかろうとしてくる。
私はお祖母ちゃんの変わりぶりが怖くなり、その場から逃げた。
シャワーヘッドを放り投げてお祖母ちゃんの横を抜け、お祖母ちゃんを放ったらかしにして自分の部屋へ戻った。
そのままベッドに倒れ込んで気持ちを整理したかったが、便の着いた制服のままだとベッドまで汚れる。
そう思って制服を脱いだ。
何だか理不尽さに無性に腹が立って、制服を床に叩きつけようとしたが、それも便で汚れる、と思いこらえた。
部屋着に着替えて、制服を洗濯機に入れようと思いもう一度脱衣所に戻る。
出来たらお祖母ちゃんには会いたくなかったが、お祖母ちゃんはまだ浴室の中にいた。
お祖母ちゃんは、私が出しっぱなしにしていたシャワーの止め方がわからず、シャワーヘッドを両手でずっと持ってお湯を自分に掛けていたが、股間などの汚れを落とそうという気がないのか、気が付かないのか、ずっと同じ姿勢のまま自分の胸のあたりにお湯をかけ続けていた。
少し落ち着いた私は、制服を洗濯機に入れると、お祖母ちゃんに声をかけた。
「お祖母ちゃん、大丈夫?さっきはさっきはごめんね。」
また怒鳴り返されるのかとビクビクしたが、お祖母ちゃんの反応は違った。
「助かった。何とかしてくれや」
ついさっきのことを忘れている。
豹変ぶりが信じられなかった。
あれだけ私のことを罵ってたのに、突き飛ばしたりしたのに、心細くなったら誰でも頼るんだ。
何、それ。
都合よく回りを使えると思ってるの?どれだけ自己中なの?
そう心の中では思ったが、お祖母ちゃんが怒っていないならお祖母ちゃんの体を洗って壁や床の便の汚れも落としてしまった方がいい。
私はお祖母ちゃんからシャワーを受け取り、お祖母ちゃんの体を流し始めた。
お祖母ちゃんの体を洗い、服を着替えさせ、お祖母ちゃんの部屋へ連れて行き、汚れた浴室の清掃と汚れたお祖母ちゃんの衣類の処理が終わったら、私はぐったりしてしまった。
自分の部屋に戻りベッドに今度こそ横になって目を瞑る。
さっきのことがどうしても頭から離れない。
さっきの人は本当お祖母ちゃんだったのだろうか。
私のことが誰だかわかっていなかった。
あんなに毎日話をしていたのに。
お祖母ちゃんが自分じゃどうしようもないことをやってあげたのに。
感謝もせずに怒り出すなんて信じられない。
そんな考えがグルグルと頭の中をずっと巡った。
大好きだったお祖母ちゃんにそんなことを考える自分を抑えなきゃ、あれは認知症のせい、と冷静に考える自分も頭の片隅にいる。
でも、冷静な自分よりも感情的にショックを受けている自分が、私の心の真ん中の大部分を占めて遥かに大きかった。
感情的にショックを受けている自分はお祖母ちゃんの行動を認めることができず、ひたすらお祖母ちゃんを責め続けている。
夕方6時を過ぎて母が帰宅したら、私はすぐにさっきのことを母に話した。
母はケアマネジャーの事業所に相談してみる、と言ってくれた。
相談して何とかなることなんだろうか。
それから私は進学塾のない日もすぐには家に帰らないようにした。
学校の図書館や、ショッピングモールのフードコートなどで時間を潰してから帰宅していた。
あれから、お祖母ちゃんはデイサービスに行かない日、数日に1回は夕方誰かが帰宅する時に便を失敗している状態が続いている。
だいたい家に一番最初に帰る母が見つけて、母が着替えや後片付けをする。
ケアマネージャーが言うようリハビリパンツも履かせるようにした。
デイサービスに行ったときに浣腸して、家であまり便が出ないように調整してもらうように依頼もした。ケアマネージャーがケアプランを変更して、デイサービスの看護師さんにやって貰えるようにしたらしい。
訪問介護員に決まった時間に来てもらってトイレに連れて行ってもらう提案だけは、家に誰かを入れることに母が抵抗があるのと、お祖母ちゃんが受け入れるとは思えなかったので断っていた。
それでもお祖母ちゃんの便の失敗は続いている。
父は自分では便の失敗の後片付けを一度もやったことがないのに、お祖母ちゃんの便の失敗のことを母が話すたびにお祖母ちゃんを怒鳴りつけ、母に対しては苦言を言う。
怒鳴りつけられたお祖母ちゃんは当然反発する。
苦言を言われる母も、私が抱いたような複雑な思いをしてお祖母ちゃんの世話をしているのに、父がその気持ちを理解しようとしないことに静かな怒りを抱いているのがわかる。
家族が集まる夕食時は、ギスギスするようになった。
父に散々怒鳴りつけられたお祖母ちゃんは、今度は失敗した衣類を隠すようになった。
手に付いた便をそこらに塗りたくるようになった。
自分の手に便が付いていなければバレない、と思うらしい。普通の判断をする力がお祖母ちゃんからは失われてしまったのだ。
壁に塗りたくられた便を見て母は毎回絶望し、夕食の用意もできずに便の処理をし、帰宅した時に便の臭いがまだ残っていると、父は怒り狂ってお祖母ちゃんをどなりつける。
もう私は勉強どころではなかった。
お祖母ちゃんのあの状態、私が医者になったとして治せるようなもんじゃないよ。
認知症の周辺症状の現実に、私の夢見がちな決意は砕かれていた。
もう家に帰りたくない。
私は夕食の時間よりも遅れて家に帰るようになった。
お祖母ちゃんの面倒を全部母に押し付けてしまっている、といういう罪悪感は強く感じた。
自分でやってみてわかっている。
家族の生活スペースに付けられた便の片づけは気を遣うし、便は時間が経っているとなかなか落ちないものなのだ。
でも、またお祖母ちゃんに感情的に拒絶されるのには耐えられないと思った。
これ以上拒絶されたら大好きだったお祖母ちゃんを私は憎んでしまうかも知れない。
そんなある日、私は久しぶりに放課後女子サッカー部の練習場所に足を運んだ。
退部届は出している。
練習に参加するつもりはなく、ただ、まだ今みたいな日々になる前の、普通の日常を送っていた頃を確認したいという追憶みたいな感情で、練習の様子を遠くから眺めようと思ったのだ。
あの中に入って練習していた頃は良かった。
お祖母ちゃん。
同じ話を何度もするくらいで、まだしっかりしていた。
あの練習の輪の中で、余計なことは考えず、ただボールを上手くコントロールしたい、正確な所にボールを蹴りたい、それだけだった。
何でこうなっちゃったんだろう。
考えても無意味なのについ考えてしまう。
グラウンドの元仲間たちは対人パスを丁寧にやっている。
今の時期は大会はない。
というか、昨年は新型感染症の影響で、予定されていた大会は全て中止になっていた。
例年県女子サッカーリーグは4月に開幕する予定だが、今年は開催の方向とはいえ確定ではない。
グラウンドの元仲間たちは、そんな中でもモチベーションを保ち、プレーを楽しんでいるように見える。
今更あの中に入ろうなんて未練だ。
そう思って立ち去ろうとしたら、後ろに女子サッカー部の顧問の先生が立っていた。
びっくりして声が出ない私に顧問の先生は言った。
「永田、部活、たまには出てみないか。体を動かすのも大事だぞ」
「・・・もう私、退部しました」
「永田の退部届な、俺は机の整理が苦手だから引き出しの中で紛失しちゃったんだ。だからまだ永田の退部は正式に決まってないぞ」
「仲間に合わせる顔がありません」
「・・・永田も判ってると思うけど、今年は新型感染症のせいで5月まで集まって練習できなかったし、大会だって全部中止になった。
今、ああやって練習してるのは、純粋にサッカーが皆好きだから、理由なんてただそれだけだぞ。
永田が勉強に集中したいから部活に出られないってのは別にかまわないさ。
出られる時だけ出て、サッカーを楽しめる機会がある、それだけで十分だろ。
女子サッカー部は部員数が少ないんだから、一人でも多く参加してくれた方がミニゲームの人数も増えて実戦に近い感覚でできるんだから、他の皆だって喜ぶさ。
ちょっとだけ久しぶりにボールを蹴ってみないか」
いつもの意地っ張りな私なら、ここで無言で帰っていたはずだ。
でも、その時の私は、意地を張るのにも疲れていた。
お祖母ちゃんと父の、怒りのぶつけ合い、意地の張り合いを見ていて、意地を張りあっていても相手が折れない限り憎悪だけが積み重なって虚しいだけだと思ったのもある。
10か月も前に出した退部届を、素知らぬ顔で受理していないと言ってくれる先生。
その思いやりが恥ずかしいけれど嬉しかったのもある。
先生の言う通り、顔を出してみよう、もし元仲間に拒絶されたら、それはそれで私が悪い、そう受け止めよう。
もし受け入れてもらえたら・・・また無心でボールを追っかけよう。
「先生、私、自分勝手に勉強しようとして自分の思い込みで勝手に退部届まで出して・・・そんな自分が恥ずかしくて・・・でも、何で先生は私の退部届、受理しないでくれたんですか?」
「そりゃあ永田がサッカー好きだからだよ。女子がサッカーできるところ、なかなか無いだろう。サッカー続けるのも止めるのも永田が決めればいいことだけど、人間、迷うもんだろ?
一旦決めたことでも後になって後悔することなんていくらでもある。特に若いうちなんてそうさ。
でも若いうちは取返しがつかない、なんてことはないんだ。一応先達として、永田がサッカーしたくなった時にできる可能性は残しておきたかったんだよ。勉強と部活、どちらか一方に絞らなくたっていいのさ」
私は先生の言葉に張りつめていた気持ちが溶かされた。
目から涙が流れてしまい、慌てて拭った。
「・・・永田の家の事情、担任の先生から少し聞いてるよ。勉強しようとしたのは永田のお祖母ちゃんのためなんだろ?
永田はこうと思ったらそれに集中するからな、それがいいところでもあるけど、行き過ぎると周りが見えなくなって余裕が無くなる。お前のプレーによく出てるぞ。中の人数見ないでクロス入れたりしてたよな。
勉強も大事だけど、サッカーする余裕くらいは持った方が、永田にとってはいいと思うぞ」
先生の言葉に私は何度もうなずいた。
先生が私の背中を少しグラウンドの方に押してくれたので、私は先生と一緒にグラウンドへ向かった。
サッカー部の仲間は、私のことを歓迎してくれた。
少年団から一緒だったのぐちんは、
「みおちゃんはこうと決めたら人の言うこと聞かないからね。みおちゃんが決めたことなら黙って応援しようと思ってたんだ。またサッカー一緒にやろうって思ってくれて嬉しいよ」
と言ってくれた。
私はその日、部活のジャージなんて持ってなかったけれど、先生が特別にグラウンドの端っこで制服に革靴でショートパスだけならボールを蹴っていいと言ってくれた。
のぐちんがパスの相手をしてくれたけれど、久しぶりのボールの感触は懐かしかった。
それから私はまたサッカー部に顔を出すようになった。
進学塾も惰性で続けていた。
投げ出すのは嫌だったから。
進学塾のコマが短い日はサッカー部に顔を出して、またボールを蹴った。
強豪校ならこの時期は体力作りで走り込みやウエイトトレーニングばかりなんだろうけど、うちの高校はボールに触って楽しむ時間を長くしないと上達もしないという先生の方針で、ボールを使ったメニューばかりで楽しかった。
ボールを蹴っている時はお祖母ちゃんのことを忘れられた。
お祖母ちゃんが便失禁し、壁などに便を塗りたくることが出だしてから2週間が経ち、母が耐えきれなくなったのか、私に話があった。
お祖母ちゃんを施設に預けたい。
もう家で見るのは限界だ。
お祖母ちゃんに懐いていた私の気持ちを無視する様で悪いけど、もうお祖母ちゃんの世話に振り回されるのも疲れたし、父がお祖母ちゃんの世話の大変さも考えずにお祖母ちゃんを怒鳴りつけてばかりで、全部母に負担が来るのにも耐えられない、と絞り出すように言った。
お祖母ちゃんの世話から逃げた私に、母に何か言う資格なんてない。
私は母に、お祖母ちゃんのためにもそうした方がいい、と返事した。
ネットで調べたけど、比較的すぐに入れる施設は料金が高い。
うちの家計で入れそうな特別養護老人ホームは順番待ちがある。
結局ケアマネージャーに相談するしかない。
母は明日の午後、ケアマネージャーの定期訪問の時に施設入所の要望を話す、と言った。
次の日、部活に出た後、私は母とケアマネージャーの話が気になったので家に急いで帰ろうとした。
もう日が落ちて暗くなったいつもの通学路の堤防道路を、自転車を必死で漕いで家に急いでいた。
すると、北の空に、いつもは見えない明るい光が見えた。
自転車を止めてその光を見ていると、その光がどんどん大きくなる。
私は危機感を持たずにその光を眺めていたが、えっ、と思った瞬間に光が堤防に落ちた。
私は直後全身に衝撃を受け、意識を失った。
私は気がつくと地面に仰向けに横たわっていた。
目を開けると、青空が見える。
雲一つない澄んだ青空。
何だか空に落っこちてしまいそうに思う程の澄んだ空だ。
あれ、私なんで外で横になってるんだろう?
私何してたんだっけ?
自分の行動を思い出してみる。
そうだ、部活が終わって家に帰ろうとしていたんだった。
今日は母とケアマネージャーが話をする。
お祖母ちゃんを施設に入れたいって相談をするためだ。
私もその方がお祖母ちゃんのためだって母に言って、母の気持ちを後押ししていた。
その結果を聞きに家に帰ろうとしていたんだった。
あれ、確かもう暗くなっていたような?
何でこんな真昼間みたいなんだろう?
上半身を起こして辺りを見回してみる。
目の前に沢山の2階建ての観客席、その後ろにスコアボード、そして観客席にかかる銀の屋根。
左右を見渡しても同じく2階建ての観客席と屋根。
いや、左側の観客席の上には実況席のような囲われたブースがある。
私の真後ろを見てみると、後ろの観客先だけ1階建て。観客席の屋根の上には巨大なオーロラビジョン。
間違いない、
ここは高校の県大会決勝戦の時だけ使われる、普段は地元のJチームとなでしこリーグのチームがホームとして使っている市立スタジアムだ。
私はそのセンターサークルのど真ん中に横たわっているんだ。
降り注ぐ太陽の光が暖かい。
あれ?季節は冬だったはずなのに、冬服の制服だとほんのり暑いくらいの気温だ。
誰もいないスタジアムは音一つなくシーンと静まり返っている。
何でこんなところにいるんだろう?
河川敷で強い光を見上げていて、それがあっという間に地面に落下したと思ったら意識が途切れた。
その直後にこのスタジアム。
あ、普段このスタジアムは芝の育成のために立ち入り禁止になってるんじゃなかったっけ?
管理してる人に怒られてしまう
急いで出なければ。
そう思い急いで立ち上がる。
メインスタンドの下に選手入場口があったはずだ。
怒られても仕方ない、そこから出よう。
選手入場口へ向かおうとした時に
「大丈夫、誰にも怒られやしないから」
私の背後から誰かが話しかけた。
振り返ると、そこにいたのは地元なでしこリーグ所属チームの選手が4人。そして監督。
エース、ボランチ、キャプテン、スピードスター、そして監督だけなぜか私の高校の監督。
「永田未央さん、あなたは不幸な事故で命を落としました」
エースが言った。
私は河川敷に落ちた隕石の飛ばした土砂に巻き込まれ命を失ったらしい。
普通なら死んだら魂は全てを忘れ次の世界の新たな命として生まれ変わるそうだが、時々今の私の様に生前の記憶を残した魂と言う状態でその流れから外れる魂が出るらしい。
そうした魂にはまた元の魂の流れに戻るために3つ選択肢が与えられる。
1つ目は元の世界に戻る。
ただし死んだ直後の状態で戻るので、急いで元の世界で手当されれば助かる可能性がある、ということらしい。
2つ目は他の世界にこれまでの記憶を残した魂を持つものとして転生する。
その際にはその世界のリクルート担当者から、多少の便宜は図って貰えるという。
3つ目は、このままここで何もしないでいること。
私がここで飽きたな、と思うまで過ごし、もういいやと思ったら本来の魂の流れに還って、どこか別の世界の生命として全てを忘れて生まれ変われる。
私の前にいる5人は、それぞれ別の世界から来たリクルーターだそうだ。
今の話は全部リクルーターが説明してくれた内容だ。
それぞれどんな世界なのか説明してくれた。
エースの世界は完全なファンタジーの世界だそうだ。
色々な種族がいて、色々な武器がある中、結局強いのは魔法。その世界で一番の魔力量を持ち最強の魔法を最初から覚えた状態で身体能力もカンスト?した状態で生まれ変わらせてくれると言われた。
ボランチの世界は乙女ゲームの世界。
最近の流行りは主人公と言われる身分の低い女の子の敵役の悪役令嬢に生まれ変わって、主人公と王子を見返すパターンを選ぶ魂が多いと言われた。
キャプテンの世界は、広大な宇宙に人類が進出し、科学技術も発展した世界。
宇宙船の性能が全てを決めるのでその時点どころか数十年経っても最強の宇宙船として君臨できる性能の宇宙船を付けるし、転生当時の最高の技術を集めたヒューマノイド型のインターフェースもつける、と言われた。
スピードスターの世界は、過去の日本。
幕末の薩摩の高級武士の娘で、女だてらに剣の腕は日乃本1。弁舌も女性らしくさわやかに立ち、どんな男も虜にする魅力を付ける。そのまま薩摩で倒幕を目指すも良し、あえて新選組など幕府側に付くもよし、帝に輿入れを狙うもよし、と言われた。
先生の世界は、何だか先生は言いにくそうにしていた。
他の世界に比べるとショボいから、だそうだ。
一応地球の1700年台、近世ヨーロッパに似た世界で、ショボいながら魔法もある世界、と言っていた。
はっきり言ってどれもこれもピンと来ない。
エースやボランチが言うには、転生物に憧れる日本に住む地球人なら飛びつく条件だそうだ。
私はラノベは読まなかったし、マンガは最近自分で買ってたものは「さよな〇私のク〇マー」だからスポーツ物中心に読んでいた。ゲームも「つ〇つ〇」とか「パ〇ド〇」みたいなスマホゲー、しかも無課金でしかやったことがない。
仲の良かった友達たちも私と趣味が似ていたから、リクルーターたちの言う世界観には触れたことがなかった。
物語の数だけ世界がある、ということだから「さよな〇私のク〇マー」の世界からリクルートがあったら選んだかも知れないが、今聞いたどの世界も私にとってはそんなに生まれ変わりたいとは思わなかった。
正直にそう伝えると、リクルーターたちは「そっか、残念」と言って消えて行った。
自分の世界に戻ったのだろう。
彼らの世界に転生を希望する者は多いらしいし、特典を付けて無理にお願いしてまで私に来て貰う必要もないってことなんだろうな。
別に捨て台詞を吐かれたりもしなかった。淡々としたものだ。
先生だけは何故か残ってくれた。
「先生、何で残ってくれてるんですか」
「私はさっきも言ったけど、単なるリクルーター。この姿も君のイメージを借りてるだけだからね。私は私の世界では〇〇ッシュと呼ばれてる魂だよ。
ただ、リクルーターとしての特権で、君に関するすべての情報はわかるからさ。
君が元の世界に戻る選択をしない可能性が高いこともわかる。
大好きだったお祖母ちゃんが原因で家族の気持ちがバラバラ、ボロボロになって、自分ではそれをどうしようもないっていう深い無力感が心の奥底に刻まれてる訳だしね。
私がどうこう言えることじゃないけど、君はまだ若いし、そうは言ってももう一度元の世界に生きて戻ることを選ぶことができる。だったらその可能性は残しとかなきゃならないよ。
私も立ち去ったら、君はここで飽きるまで過ごす選択肢しか残らなくなるからね」
まるで本物の先生のようなことを言う。
私のことが全てわかるからだろうか。
「ああ、そう言えば君の先生も似たようなことを言ってたね。わざと同じようなことを言った訳じゃないよ。
どうも私をここに遣わした私の世界は、少しでも魂に来て欲しいらしい。彼らのように引く手あまたな世界じゃないようだね。だから最後のお願いみたいに粘らされているみたいだ。
それにね、たとえ元の魂の流れに戻るとしても、話相手はいた方がいいだろう?一人だとずっと同じことを考え続けてなかなか踏ん切りつかないかも知れないしね。
ここは時間が関係ない場所とはいえ、もしかしたら永久に考え続けちゃうかも知れないじゃん?それは君にとっても、この沢山の世界にとっても不幸なことだからさ」
目の前の先生の姿をした存在が、本当に私を気遣ってくれているのが雰囲気で伝わってくる。
元の世界に未練はけっこうある。
特に学校の、部活の仲間たち。
出来ることならずっと一緒にサッカーをしたい、過ごしたい。
お祖母ちゃんの認知症がひどくなる前に戻れるなら。
でもそれは他の世界のリクルーターの分限を超えているらしい。
私が死んだ時点の元の世界に戻ったら、生き返った後、私は大好きだったお祖母ちゃんを、多分このままだったら憎むようになる。私を、家族を苦しめる存在として。
大好きだったお祖母ちゃんの思い出をお祖母ちゃんによって壊される。
感情的な私は絶対にそう感じてしまう。
そしてそう思ってしまう自分を、理性的な私は絶対に許すことができない。
それは私にとって、私自身が2つに引き裂かれる、耐えがたいことだ。
「先生の世界に行きます」
私はそう答えた。
「・・・本当にいいのかい?
元の世界より不便で不自由なことも絶対沢山あるよ?
後悔するかもしれないよ?」
「・・・後悔するかも知れないけど、若いうちの後悔は取返しがつく、って先生は言ってたでしょ」
「私は先生じゃないんだけどなぁ。
あ、そうだ私は私のいる世界ではトリッシュと呼ばれてるよ。君が私のいる世界に来るのなら、いつか君が私に会いに来てくれて、私が君のことを思い出したら力になるよ。
ちなみに私は今、魂だけでここに来ていて、この姿は君のイメージを借りたものだから、私の世界の私は男か女かわからないよ?私に惚れたらダメだからね。もし私が女だったら、百合展開になったら困るから」
「何言ってるんですか。こんな短時間で人に恋愛感情持ったりしませんよ。人としての好意は持ちますけど」
「君は前の世界でも奥手だったみたいだね。私のいる世界に来たら前の世界で出来なかった色々なことをやって見るのもいいさ。
じゃあ、私のリクルーターとしての特権で、君への特典をつけるよ。
前世のような苦しみを味わうことのないよう、すぐに死なない身分保障、同じ種族の中で最も優れた身体能力、あと、君が憧れてたサワさんのような、ここ一番の決定力だね」
「何ですか、サッカーのある世界なんですか」
「サッカーはないけど、これから始めたっていいよ。私のいる世界は君が元居た世界に比べると発展途上なんだからね。ここ一番の決定力って抽象的だけど、勝負強さって捉えてくれればいいよ」
「よくわからないけど、行ってみればわかることですね。じゃあお願いします」
「うん、じゃあ目を瞑って、そのまま後ろに倒れるような感じをイメージしてね」
私は目を瞑り、少しためらったけれど、後ろに倒れた。
怖い。
地面に当たったら痛くないだろうか。
そんなことを思ったが、私の体は地面にぶつかることなく180°回転して下に落ちていった。
というわけで第36話でした。
第37話は明日投下する予定です。




