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第98話 帰還3

大分遅れましたが第98話です。

では、どうぞ。




 トリッシュが居なくなったスタジアムの小会議室に俺は残された。


 窒素の体は空気中の窒素を集めればある程度大きさが自由になるし、ぬいぐるみの中の空気を窒素にすれば中に宿れるとトリッシュが教えてくれた。


 試しにやってみよう。


 今の俺が感じている俺の体はジョアンと同じ6歳程度の大きさだが、元の俺の体くらいの大きさにはなるのだろうか。

 元の大きさ身長175cmで、肩幅はこれくらいで、腹回りは……そこは死ぬ直前と同じじゃなくていいだろう。

 自分の体をそう認識すると、確かに空気中から窒素だけ抽出され、俺の宿る体を形作ってる気がする。

 といっても見える訳ではないし物を動かせる訳でもない。ただ俺の体がそうなったという認識と、自分の体として動かせる部分が増えたという感覚だ。

 窒素の体ということは変わらないので物に触れることは出来るが、物を掴んだり動かしたりは相変わらず出来ない。漫画版ゲ〇ゲの〇太郎のビンタのように物に何度もビンタする感じで手を素早く動かし続けると、窒素の手=空気が動くので対象物も風に煽られたように動くが、細かいコントロールは出来ないので物をどこかに乗せたりすることはできない。

 誰かを驚かすくらいのことしかできないか。

 

 次にぬいぐるみに宿れるかを試してみる。


 今ホワイトボードのペン受けの上に乗せられているぬいぐるみ、ライオンをモチーフにしたマスコットのレーオくんは高さ15㎝程しかない。特徴的な前髪がアクセントになっていて、柿の種が頭に付いているように見える。立ち姿ではなく、どこかに置いた時に安定する長座位の形で作られている。

 こんな小さいものに宿れるのだろうか?

 どうすればいいものか……トリッシュはぬいぐるみの中の空気を窒素にすればと言っていた。

 俺の両手でレーオくんをゆっくりと包んで見る。

 ゆっくり、じんわりとレーオくんを包んでいくと、徐々に両手がレーオくんのフェルト生地を通して中に染みこんでいく感覚になる。

 やがてぬいぐるみのレーオくんの中で俺の手が握手できる感覚になった。もうこれで多分レーオくんの中の空気は窒素が殆どだと思うが……

 どうやってレーオくんの中に入ったらいいのか……少し思案し、俺はレーオくんに手を突っ込んだまま頭に被る感覚でゆっくりと頭をレーオくんに入れてみる。

 音がする筈もないが何となくぐむむむむ、もりもりって感じでレーオくんの中に入っていってる気がする。するとある瞬間にパスッと頭がレーオくんの中に入り込んだように感じた。

 俺の頭の部分がレーオくんぬいぐるみになった感覚と言ったら良いだろうか。

 体はレーオくんの中には入っておらず、膝立ちの姿勢だ。

 試しに前に出てみようと思い膝立ちから立ち上がると、スポッと頭がレーオくんから抜け、俺の下っ腹の辺り、人間の体なら大腸の辺りにレーオくんが来た感覚になる。

 何か俺自身レーオくんと一体になった感じがしないな。

 さっきの頭がレーオくんになった感覚の方がしっくりくる。

 そう思って膝立ちに戻ってみるとまたスポッとレーオくんが俺の頭になった。

 なるほど。

 これで無理やりレーオくんの中に手足をねじ込む感覚で動いてみれば……

 俺は大きな着ぐるみを頭に被った状態で中に無理やり入り込むつもりでモゴモゴ動くと、すっぽり体全体がレーオくんに入り込んだ感覚になった。

 レーオくんぬいぐるみの姿勢の長座位になって、ホワイトボードのペン受けの上に乗っている。

 今の俺はレーオくんそのもの、と言う感じだ。

 俺の視点はレーオくんの目の位置にあるだろう。ピョインと突き出たオレンジ色の柿の種のような前髪が常に視界の上に入っている。

 俺は表情を変化させられるかやってみた。

 レーオくんの中の窒素を膨らませて頬をプクッと膨らませ、可愛く拗ねた表情。両方の口の端を僅かに膨らませて、レーオくんの元気な笑顔を少し真顔に。

 できる。

 レーオくんの手足も僅かになら空気を膨らませたりしぼませたりで動かせそうだ。

 でもそれをやってホワイトボードのペン受けから落ちてしまったら、元の位置に俺は戻せないので止めておこう。


 何とかなるもんだな。

 俺はホッとした。

 

 あとはこの部屋にクラブ関係者かスタジアム管理関係者が来てくれることを祈るのみ。

 この小会議室のドアのすりガラスの窓の外は非常誘導灯の緑の光が見えているが、段々とその緑の光の周囲が明るくなってきていて、夜が明けつつあるようだ。

 昼間なら誰か来るのではないだろうか。





 だが結局あれから2昼夜経ったが、誰も来なかった。


 思えば俺が死んだのは2月。

 サッカークラブは新シーズンの始動はしているのだろうが、活動場所はこのスタジアムではなく専用のクラブハウスと練習場で行っている時期なのだろうし、もしかしたら温暖な地方へ行ってキャンプを行っているのかも知れない。選手たちの活動以外の営業などもクラブハウス内の事務室で行っているだろうから、スタジアムにクラブ関係者が来ることは滅多にないのだろう。

 そしてスタジアム管理者もしっかりとスタジアム出入り口とスタジアム内の各ブロックに格子シャッターが下りているので、俺の窒素の体のように気体が入ることはあっても防犯の面では心配ないようなので、そんなに頻繁に一部屋一部屋まで見て回らないようだ。


 誤算もいいとこだ。


 そして気になっていたことがある。

 トリッシュはこの世界は魂が留まれるのは7日間と言っていたが、何となく俺は俺がこの世界に戻ってから7日間の猶予があると思っていた。

 だが、「死んでから7日間」と言っていた。

 この「死んで」はどの状態を指して「死んで」いることになるのか。

 現代日本では人が「死んだ」ことになるのは、医師によって死亡が確認された時だ。

 だから病院などで闘病の末死んだりする場合は肉体の死と行政上の死は殆どタイムラグはない。

 病院で医師によって死が確認されたら、遺族は葬儀屋に連絡しその日の夜には通夜を執り行う。医師が書いた死亡診断書も葬儀屋が市町村に死亡届と一緒に提出し、葬儀、火葬の許可を速やかに執り行う。


 だが、俺の場合はどうか?


 肉体の死は隕石が直撃した瞬間で間違いない。

 しかし行政上の手続きはどうなった?

 警察、消防が堤防を捜索し、俺の死体を一つ一つ拾い集め、それを医師が確認し死亡診断書、或いは死体検案書を作成でき、行政上の死を届けたのは肉体の死を迎えた後何日後だったのか?

 行政上の死を迎えないと葬儀に至る一連の流れは執り行えないのだ。俺の通夜は俺が死んでから数日経ってようやく行えたのではないか?


 多分、この世界に留まれる7日間は、肉体の死から7日間だろう。

 世界にとって行政という人間の営みは関係ないだろうから。


 つまり、俺は通夜から7日間この世界に留まれると勘違いしていたが、実際は俺の通夜が俺の肉体の死後何日目に行われたのかによっては、もう明日にでも俺はこの世界から離脱しなければいけないのかも知れないということだ。


 この世界から離脱したら、ジョアンの体に基本は戻れるだろうが、その前にジョアンの肉体が死を迎えてしまえばその保証はない、とトリッシュは言った。


 この小会議室で誰か来るのを待っている2日の間に、俺は3回程ジョアンの体に戻っていた。

 

 戻るたびに誰かが世話してくれているようだったが、高熱は一向に下がっていないようで目は視界一杯の白いチカチカしか見えず、耳も甲高い音以外は聞こえない状態。鼻の中も乾燥しきっていて匂いもわからず、口の中も乾燥がひどい。脈動する頭痛が頭を割るようにのたうつし、体の関節と言う関節、それこそ背骨の可動部分一つ一つに至るまで鈍痛があり自力で体を動かすなんてとても出来ない。

 ただただ空気を求めて浅く早く呼吸するのみで、下顎呼吸なんじゃないかと思える程だった。

 ジョアンの体は熱による発汗と排泄、嘔吐で水分が大分不足しており、誰かが氷を舐めさせてくれてはいるようだが失われる水分量には足りていないようだった。

 実際に丸3日間あの高熱が下がっていないのであれば、回復しても体には相当のダメージ、脳機能に障害が残ったり、生殖機能が損なわれたりするのではないかと思われた。


 こうしてレーオくんに戻っているから冷静にジョアンの肉体の状態を考えることができるが、ジョアンの肉体に戻っている間は一切物を考えられない。高熱で思考が全く働かなくなるのだ。

 あの世界には抗生物質もないし、というかウィルス性の病気であれば根治させる治療法はない。

 対症療法にしても失われる水分を補うための点滴もない。そもそも注射針もない。酸素マスクもない。


 かなり生存は難しい状況だろう。


 ただ希望的観測としては、ジョアンの体はまだ病気に抗ってはいる。もうすぐに死を迎える状態になっていたら痛みも苦しさも、それを感知する体の神経が機能を止めて感じなくなっている筈だからだ。

 今まで介護関係の様々な仕事をしてきて何度も数えきれない回数看取り等で死の瞬間に立ち会ってきたからそれはわかる。最後の瞬間はその時間の長さに違いはあれども痛み苦しみからは解放されるのだ。

 人間をそう作ってくれた何かに、そこだけは感謝したいと常々感じていた。

 

 もしかしたら俺が今ここでこうしているのはジョアンが痛みや苦しみを感じなくなっているため、という可能性も当然ながらある。


 だからこのままこの世界を離脱することになったら、元の魂の流れに乗って全てを忘れて次の生命に宿ることになるんだろうな、と俺は半ば覚悟した。

 まあそれも悪いことではない。


 だが、何もしないで全てを忘れてしまうのは……せっかく二度と会えない筈の妻にもう一度会える機会が巡ってきたのに、このままただ時間切れを待つというのは……それは嫌だ!


 最後に妻に会って、妻の笑顔を心に焼き付けてから心置きなく消えたい。

 最後に俺が見た妻の姿が涙を流しながらタバコをくゆらせる姿というのは……悲しすぎる。


 何か、何かないか。

 ここから出て、スタジアムも出て、とにかく遮二無二俺の家に戻る方面の車に何とか潜り込むか?

 そもそも少しの風でも流されてしまう俺の体は、車に上手く乗り込むことも難しいだろう。上手く車内の空調に繋がる吸気口に入り込めるかどうか。間違って燃焼系の吸気口に入り込みでもしたら、エンストさせてしまうだろう。窒素だから。

 それにはっきり言ってそこまで都合のいい車が見つかる確率は低い。何台かを乗り継がないといけないだろうが、乗り継ぐ間に風に飛ばされればまた戻されたところから始めなければならない。


 それよりも、せっかくトリッシュがお膳立てしてくれたのだ。

 ここに誰かを呼びよせることさえできれば妻に電話してもらえるだろう。誰かを呼び寄せるその手段は?

 廊下を誰かが通りかかった時に、窒素の手で紙やタオルなどを煽り動かし、ポルタ―ガイストのような異変を起こして何かあると知らせるか?

 それもアリだが、結局誰かがこの近くに来るかどうかが不確定すぎる。

 

 俺にとって残された時間はそれほどないと考えた方が良い。

 となると、多少穏便でない手段でも仕方ない。


 火災感知装置がこの部屋には付いている。

 熱感知タイプか煙感知タイプかはわからないが、ここで火災が起きたと誤作動させれば必ず誰かがこの部屋の中の確認に来るだろう。

 こういった公共の大型施設の場合、火災感知装置が作動すると最寄りの消防署に直接通報が行くようになっているから、消防車が出動することになるかも知れない。

 

 すまん、消防署の署員の皆様、ご迷惑をおかけします。

 誤作動ということでひとつご勘弁を。


 小会議室内の壁に掛けられた時計を見ると12時過ぎだ。

 外は明るい。丁度昼時だ。

 俺の葬儀は終わっているかも知れないが、葬儀後も妻は忌引で休みを取って遺品整理や諸々の手続きを行っているだろうから、妻の携帯に誰かが連絡しても仕事中ですぐ出れないということはない筈だ。


 やるしかない。


 俺はレーオくんから抜け出し、また窒素の体を形成し宿る。

 

 火災感知器は熱感知タイプにせよ煙感知タイプにせよ、感知器内部に入り込んだ空気をセンサーで感知して警報を鳴らす。

 

 トリッシュと転生前にあの謎空間で話していた時に、俺は「恨みを持った幽霊が確実に相手を殺す方法」として、毒ガスを体内に取り込んで相手に吸わす、という方法を取れるんじゃないかと言ったことがある。

 その時トリッシュはその方法自体を否定はせず、ただそれを実行する前にタイムリミットになるんじゃないかと言って否定していた。

 実際この窒素の体になってそれは実感している。空気の流れがないところでないと一定の場所に留まれないのだから、毒ガスを体に含んだとて、復讐対象のところまでの移動が難しい。


 だが、トリッシュは、空気の体に他の成分を含ませることについて否定していない。

 だから窒素の体に他の成分を含ませることは出来る筈だ。

 そして、俺は自分が宿っていると認識している体の内部なら、何となく俺の意思で操れる。レーオくんに宿っている時にレーオくん内部の窒素を膨らませたり縮ませたり出来たのだから。


 俺は忘れ物を入れた段ボールの前まで行き、物凄い勢いで両手を鬼〇郎ビンタのように振った。

 ホーム最終戦から2か月経った忘れ物からは結構な量の埃が舞い上がった。

 俺は舞い上がった埃を俺の体の腕から掌の部分に取り込む。

 俺の腕から掌の中で埃が渦を巻いて動いている。

 

 よし、いけたぞ。


 俺はふんわりと空中に舞い上がり、天井に設置されている火災感知装置に右手をかざし、火災感知装置を握り込む。俺の手の中で渦巻いている埃も俺の掌と一緒に火災感知装置の中に入り込んでゆく。


 さて、この入り込んだ窒素と埃を激しく動かさないと。

 煙感知タイプなら光学的に中の光線が煙で乱反射することで作動する。

 熱感知タイプなら、中の窒素と埃を激しく動かして摩擦で熱を感知する温度まで上昇させないと作動しない。

 煙感知タイプの方が作動は早いだろうが、熱感知タイプだろうと俺にとってはどちらでもいい。

 体の内部を動かすことで疲労を感じることはない。


 俺は火災感知装置を握り込んだ右手の中を激しく回転させる。


 NARUT〇の螺旋丸のイメージだ。


 やってやるってばよ!


 螺旋丸よろしく俺の右手の内部の空気が火災感知装置の中で激しく回転している。

 実際螺旋丸を撃てたらこんな苦労はしてないが。

 徐々に埃の摩擦で火災感知装置の内部の温度が上がっていくのがわかる。

 どうも煙感知タイプではなく熱感知タイプのようだ。

 どこまでもやり続けてやるってばよ!


 どれくらいそうしていたのか、ついに小会議室の外、通路に取り付けられた火災報知器のベルが激しく鳴り響いた。


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ……


 やってやったぜ! これで様子を誰か見に来てくれる。

 後は「何となく雰囲気で考えを伝える力」でレーオくんを家に戻して欲しいって伝えることができれば……


 と思うや否や、部屋に設置された排煙装置が作動し、小会議室内の空気を物凄い勢いで吸い出し始めた。


 やばい、また吸い出され、スタジアムの外に排出されてしまったら、今度こそどうしようもなくなる!

 

 俺は必死でレーオくんに戻ろうとしたが、排煙装置は俺の家の換気扇なんかとは比べ物にならない勢いで会議室内の空気を吸い込んでいく。排煙装置という絶望が俺の体と共に室内の空気を飲み込んでいく!


 嫌だ! こんな、こんな下らない終わり方なんて!

 

 何とか吸い込まれないよう、室内の空気でわずかに窒素が多くなった部分を作りながら俺は必死に排煙装置に抵抗する。

 分子数個分の僅かな窒素の塊を瞬時に作り続け、そこに意識を移しながら必死に俺はレーオくんにじりじりと近づいていく……


 諦められるか!

 2度目の人生も含めてこれまで何度も何度も諦めざるを得ないことに直面してきた。諦めることが悪い事ばかりってわけじゃない。むしろ諦めて、結果的に良かったことだってある……


 でも、これは、この想いだけは諦められない!

 何でか解らないが巡ってきた、この妻にもう一度会えるチャンス、こればかりは諦める訳にはいかないんだ!

 俺が心底愛して、そして俺が死んだら心底悲しんでいるあの女性に、何も伝えないでこの世界を去れるかよっ!


 俺のほんの僅かな窒素分子数個の体にレーオくんのフェルトが触れた。

 レーオくんの中の空気は、俺が一度宿っていた時に殆ど窒素になっている。


 俺の意識はレーオくんの中に戻ることが出来た。


 体を動かして疲れる筈もないのだが、俺は安堵したらドッと精神的な疲労が襲ってきた。


 まったく、火災報知システムを作動させたら排煙装置が働くことくらい最初に考慮しとけよな、俺。

 鳴り響く警報を心地よく聞きながら自分の迂闊さを自嘲する。

 こうして自嘲できるのも、無事レーオくんに戻れたからこそだ。


 しばらくまったりとしていると、通路をバタバタと走って来る音がする。

 

 ようやく警備員が様子を見に来たのだ。

 随分のんびりしていたな、と思ったが小会議室の時計を見るとほんの数分だ。


 警備員はドアのすりガラスの窓越しに小会議室内の様子を観察し、バックドラフトを起こさないよう炎が上がっていないことを確認した後に鍵を開け、中を見渡した。


 頼む、俺を家に戻してくれ!

 妻に連絡してくれ、頼む、頼む!


 警備員は確かにレーオくんとホワイトボードを見て表情を変えた。

 だが、すぐに踵を返しドアを開けっぱなしにして小会議室を後にした。


 俺は落胆したが、すぐに気を取り直した。

 とりあえずこの小会議室に火災が起こっていないのを確認した警備員は、火災報知システムの誤作動を止めに行ったのだろう。


 ドアを開けっぱなしにしているのだから、少なくとも閉めに誰かが戻って来る筈だ。


 焦らず待とう。


 しばらくするとけたたましく鳴っていた非常ベルが鳴りやんだ。

 さっきの警備員が切ったのだろう。


 更に30分程経ってから、さっきの警備員と、耐火装備ではなく通常の制服を着た消防署員二人が姿を現し、小会議室の中の点検を始めた。


 頼む!

 俺を家に帰してくれ!

 妻の携帯電話に連絡してくれ!

 お願いだ! 妻に会わないと死んでも死にきれない!


 警備員と消防署員2人は、点検を進めながら時折レーオくんとホワイトボードをちらちらと見ている。


 消防署員2人のうち、若い方の署員には何となく見覚えがある。

 えーっと、誰だっけ、思い出せ思い出せ……


 あ、俺の家がある分譲地のブロック違いのところに住んでる、地区の会合で何度か顔を合わせた若夫婦の旦那さんの方だ。ええーっと、名前は……確かミズタニさんだったと思う。


 ミズタニさん、お願いしますお願いします!

 うちの妻に連絡してください! お願いします!


 俺は必死に願い続けた。


 3人は変わらず時折俺の方をチラチラ見ながらも点検を続けていたが、やがて終わったようだ。


 「火気もありませんし、感知器の誤作動ってことで問題ないようですね。まあ本当に火事じゃなくて良かったですよ。では我々はこれで」

 消防署員2人のうち、年嵩の方が警備員にそう伝える。


 ああ、行かれてしまったら……頼む、ミズタニさん、年嵩の人、警備員、誰でもいいから妻に電話を……

 

 「ヤマモトさん、仕事中ですがちょっと時間もらっていいですか」ミズタニさんが年嵩の署員に口を開く。


 お願いだミズタニさん、俺の妻に電話をして下さい。お願いします……


 「警備員さん、あそこに置いてあるマスコットって、あのホワイトボードに書いてある人の物なんですか?」とミズタニさんが聞いてくれる。


 ああ、有難う、有難うございます!


 「ええっと、私らはよくわからないんですよ。私らは施設管理はしてますが、サッカークラブの運営とかは運営会社の方とボランティアの方でやってるんで。ここは試合の時にボランティアの方が使ってる部屋ですから、多分お客さんの忘れ物だと思いますけど、あんなにはっきり書いてあるのに連絡してないってことは無いんじゃないですか?」と警備員が答える。


 「いや、実は書いてある人の名前って、家の近所の人じゃないかって思うんです。ほら、ヤマモトさん、6日前にうちの署にも応援要請来たじゃないですか、あの河川敷の事故の」


 「ああ、隕石に人が2人巻き込まれて捜索した件か。あの件と何か関係ある人なのかい?」

 年嵩の署員、ヤマモトさんがそう聞き返す。


 「ホワイトボードに書いてある名前の人が俺ん家の近くに住んでる人と同じ人だったら、隕石に直撃された人の奥さんですよ。突然あんな有り得ないことで旦那さんを亡くすなんて、ってウチのやつも同情してるんです。よく亡くなった旦那さんと一緒にこのスタジアムに試合を見に来てたみたいなんで、もしそうだったらこの忘れ物も一応形見じゃないですか。それがわかったら渡してあげたいんです。

 ちょっと電話して、確認してみてもいいですか?」


 有難うミズタニさん! 本当に本当に有難う!


 ミズタニさんはヤマモトさんの許可を得ると自分のスマホを取り出し、ホワイトボードに書いてある俺の妻の番号を押した。


 しばらくコールしているがすぐに妻は出ないようだ。

 知らない番号からで警戒しているのだろうか。だが非通知以外は一応妻は携帯に掛かって来る電話を取るようにしていた。

 頼む、もうしばらく鳴らしてて下さいミズタニさん! すぐ諦めないで下さい、お願いします!


 「あ、突然すいません、ヤマザキリョーコさまの携帯でよろしいでしょうか? あの、私ヤマザキさまのお宅の隣のブロックに住んでいるミズタニと申しまして……はい、ミサトの旦那です。

 本当にすみません、この度はご愁傷様でした、手伝いも碌にできず、はい……はい……落ち着いたらまたミサトと一緒に顔を出させていただいてご冥福を祈らせていただきたいと……ええ……

 それでヤマザキさん、今日お電話したのは、実は私仕事でサッカースタジアムに来ておりまして、忘れ物の場所にヤマザキさんの携帯の番号が書いてあって、そこにぬいぐるみが置いてあったんですよ。ヤマザキさんの忘れ物ならお渡ししたいと思いまして……

 やっぱりそうですか! 

 でしたら許可貰って、お宅までお届けします、はい。お宅にはおられるんですね? わかりました。

 昼休憩の時間になりますし大丈夫ですよ、ええ。

 では伺いますので……いえ、お気遣いなく。 はい、よろしくお願いします」


 無事ミズタニさんは俺の妻に連絡してくれた。

 有難う……本当に有難う……


 「やっぱりその奥さんの忘れ物でした。ヤマモトさん、届けるのに付き合ってもらっていいです?」


 「まったくミズちゃん勝手に約束するんだから。昼休憩使ってくから、メシ食ってる暇、そんなにないぞ、いいな。急な出動で動けないとか言ったら、訓練メニュー追加だからな」


 ミズタニさんはヤマモトさんの許可を取ると、俺=レーオくんを手に取る。


 「警備員さん、お手数ですがクラブに連絡して、忘れ物の主が見つかったので返しといたって伝えておいてくださいね。

 では、これで失礼いたします」


 俺はミズタニさんの手に握られ、小会議室を後にした。



 


 スタジアムから俺の家までの10km。

 市内の混雑があるものの20分で俺の家に着いた。

 車内ではヤマモトさんが何でわざわざ届ける気になったのかミズタニさんに尋ねていた。

 ミズタニさんの返答は、「会合で顔合わせるくらいしか一緒になりませんでしたけど、亡くなったヤマザキさんって、何か他の人と違ってギスギスしてなかったんですよね。うちの地区って古くからの住民と新しく家を建てて移って来た人と、意見が割れて対立しやすいんですけど、ヤマザキさんが役やってた時って、双方の意見をやんわり受けてやんわり折衷案出すって感じで、罵りあいとかにならなかったんですよ。どっちの意見もきちんと汲むっていうか。だからですかね、せめて何かしてあげたいなって」


 ああ、仕事だけじゃなく地区の役員の時もけっこう神経すり減らしてやってたけど、こうやってわかってくれる人がいたって知ると、苦労も報われる気がする。


 やがて3日ぶりの俺の家の前に車が停まる。

 

 もう既に忌中の提灯も、花も片づけられて、玄関はいつもの装いだ。

 昨日か今朝か、少し雪が降ったようで日の当たるところは溶けているが、玄関の上の庇にはまだうっすらと雪が積もっていた。


 ミズタニさんが俺を持ち、家の呼び鈴を押す。


 玄関のドアが空き、中から妻が懐かしい姿を現す。

 今日はもう喪服ではなく、普段着だ。


 ミズタニさんが俺の妻に見つけた時のいきさつなどを伝え、俺=レーオくんを妻に渡す。

 妻は俺=レーオくんを両手で優しく受け取り、ギュッと胸に抱いた。


 妻はミズタニさんに用意していた菓子折りを謝礼にと渡した。

 ミズタニさんもヤマモトさんも固辞していたが、業務外という事で妻は渡すことに成功した。

 妻は重ねてお二人に礼を伝えると二人は車に乗って帰路につく。

 

 有難う、ミズタニさん、ヤマモトさん。

 ミズタニさんはいいご近所付き合いを、今後もよろしくお願いします。

 Uターンして戻って行く二人に俺はそう祈った。


 妻は俺=レーオくんを抱きかかえたまま家の中に入ると、リビングの祭壇があったところに葬儀前の物よりも簡素になった後飾り用の祭壇に、俺=レーオくんを置いた。


 そして線香に火を付けると鐘を俺の実家に習い3回叩き、手を合わせた。

 

 妻が祭壇に祈っている間、俺も妻との過去を思い返した。


 当時の職場の同僚の看護師の紹介で出会い、創作居酒屋で豪快に男前に飲み食いする面白い女性だと思ったこと。

 正直容姿は整ってるけど俺の好みとはちょっと違っていたこと。俺はタレ目気味の丸顔の女性の方が好きだったが、妻はやや釣り目気味でシャープな顔立ちだった。

 何度か一緒に飲むようになり、俺の職場の悩みを親身に聞いてくれたりして、凄く俺の心情を理解してくれたことで段々と惹かれて行ったこと。

 初キス初エッチもなし崩しにして、付き合ってくれとは言ってないこと。

 そして初キスも初エッチも俺からしたはずだけど今にして思えば妻に上手く誘導された気がすること。

 付き合って半年で同棲したこと。

 妻が殆ど料理をしたことがなかったこと。でも持ち前の負けず嫌いですぐに俺よりも料理ができるようになったこと。

 毎月生理痛がひどくて生理の初日は仕事を休んで一日寝込んで嘔吐してしまうこと。

 突然意識を無くして病院に連れて行った時は普段の気丈さが影を潜めて気弱になってしまったこと。

 俺もハッタリで、いつでも助けるよなんていってしまったこと。

 同棲して1年後、自宅アパートの寝室で寝る前にっていう色気のないシチュエーションで妻にプロポーズしたこと。

 用意していた指輪を左手の薬指にはめてあげると、あの気丈な妻が泣き出したので驚いたこと。

 思えばはっきり自分の気持ちを妻に伝えたのは初めてだった、と気づいたこと。

 家賃を払い続けるより、同額払って自分たちの家を買おうって相談したら、すぐに同意してくれたこと。

 一緒に過ごす中で、段々と男と女じゃなく夫と妻になっていったこと。

 互いに多くの会話をしなくても、何となく二人で一緒に居ると居心地が良いこと。

 そして子供を諦めるように医師に言われ、泣いた妻をただ抱きしめたこと。

 どうしても許せないことが職場であって、吐き捨てるように思いを吐露した俺を、夜そっと後ろから抱きしめてくれたこと。

 新型感染症が流行し出して、互いに対人の仕事だからと家庭内感染しないように生活スタイルを少し変えたこと。

 新型感染症のせいで、久しぶりに計画した夫婦の旅行を中止にせざるを得ずに落胆していたこと。

  

 色々あった。


 思い返すと、俺は妻に何かしてもらうばかりで、妻に何をしてあげられたんだろう。本当に木偶のボーだ。

 俺は妻と一緒に生きてこられて、幸せだったと思う。

 妻は幸せだったんだろうか。


 祭壇の前の妻はまだ手を合わせて祈っている。


 俺はレーオくんから抜け出し、また窒素の体を作ると、俺の体内の窒素を勢いよく動かした。

 ほんの少しでも、室温よりも俺の窒素の体を暖かくしたい。


 そして俺は妻の後ろ側に回り込むと、後ろから妻を少しだけ暖かくなったであろう窒素の体で包み込んだ。

 顔まで包んでしまうと妻が呼吸できなくなってしまうので、顔は除いて妻の全身を暖かい空気で包む。抱きしめることはできないけれど、せめて少しでも温もりを感じて欲しい。


 妻を包み込んだまま、俺は妻への感謝を想った。


 リョーコ、今までずっと俺と一緒に生きてきてくれてありがとう。

 俺はリョーコのおかげで、人生の半分以上は凄く幸せだった。

 子供が出来なくてリョーコが悲しんでいた時、大して力になることもできなかった。ゴメン。

 もしかしたらリョーコは俺なんかと一緒にならない方が幸せだったんじゃないかって、何度も思ったけど、でも、俺はリョーコと一緒に過ごせて本当に嬉しかったんだ。

 リョーコの幸せを俺は分けて貰ってたのかも知れない。

 ありがとう。

 これからは、俺のことはゆっくり忘れて行って、リョーコ自身が幸せに過ごして行って欲しい。

 俺はまた違う世界に生まれ変わるけど、リョーコの幸せをずっと祈ってる。


 「何言ってんのよ」


 ふいにリョーコが声を出した。


 「あなたと一緒に過ごして、私が幸せじゃなかったって思ってるの? そんな訳ないじゃない! あなたと一緒に生きてきて、あなたのお陰で私は色々と自分でも思ってもみなかった自分を見つけることが出来て、凄く幸せだったわよ……」


 そう言うとリョーコは祭壇に置いていたレーオくんをまた取り上げて抱きしめる。


 「お母さんにさんざん言われても全然わからなかったけど、自分が作った料理を美味しいって言って残さず食べてもらえるのって、すごく嬉しいんだって、貴方と暮らして初めて思った。 

 今までずっと仕事でも人に負けないように蹴落とされないようにって肩肘張ってて、そんな自分を自分らしいんだって思い込もうとしてたけど、そんなに他人と張り合わなくていいんだって気づかせてくれたのも貴方だった。

 何かイベントが無いと他人と一緒に楽しく過ごせないって思ってたけど、ただ毎日一緒にいるだけでも満たされるんだって気づかせてくれた。

 大雑把な私が普段気にも留めない細かいところの掃除をあなたがやってくれて、それにも甘えてた。

 体調が悪くなって心細い時も、いつもさりげなく心配して世話をしてくれた」


 リョーコはレーオくんを抱きしめ、言葉を紡ぎながら涙を流している。

 

 「……子供が出来なかったとき、本当は最初私のせいじゃないって思ってた。男性不妊が原因のことも多いって先生が言ってたし、だから体外受精すれば子供ができるって……

 でも、結局私のせいで何度も赤ちゃん流れちゃって、こんな私は女失格だって自分でも思い込んじゃって……

 それでも貴方はただ黙って抱きしめてくれたし、女として愛してくれた……こんな私でも貴方には必要とされてるんだって嬉しかった……

 その後もTVで子供の話題が出るとさりげなく局を変えたり……凄く私を気遣ってくれてるのはわかってたのよ……」


 リョーコの涙がレーオくんに落ちる。


 「だから、だからあなたのことを忘れるなんて出来ないよ……」


 そう言ってリョーコはしばらく泣き続けた。

 

 俺はリョーコの涙を拭ってあげることも出来ない。

 でも、リョーコに、出来るだけのことはしてあげたい。

 

 俺はまた俺の体を構成する窒素を動かし、多少でも窒素の体を暖かくし、さっきと同じようにリョーコの体を包み込んだ。

 そして、右手を伸ばしてリョーコが抱きしめているレーオくんの中に右手を入れ、中の窒素を伸び縮みさせてレーオくんの手足を少しピコピコと動かした。


 リョーコが、レーオくんの動きに気づいてレーオくんを見つめる。


 俺はレーオくんの顔の部分の表情を動かしてレーオくんを笑顔にする。


 リョーコさん、僕はレーオくんだよ。

 リョーコさんが僕を忘れて帰ったから、僕は凄く寂しかったんだ。

 だから親切な人に頼んでリョーコさんのところまで戻ってきたんだよ。

 僕はリョーコさんが大好きなんだ。

 リョーコさんのおかげでこうやって動くことが出来てるんだよ。

 

 そしてレーオくんの表情を変えて、真顔に見えるようにする。 


 だからリョーコさんが悲しい顔をしてると僕も悲しいなあ。

 リョーコさんが悲しい時はしかたないけど、リョーコさんは笑顔が似合ってるよ。


 またレーオくんの表情を笑顔に変え、少しレーオくんの手を動かす。


 リョーコさんの笑顔、旦那さんは物凄く好きだったみたいだよ。

 見てて幸せになるんだって言ってた。

 だから、これからもみんなをリョーコさんの笑顔で幸せにしてあげて欲しいな。


 ごめんな、リョーコ、こんなチャチな一人人形劇みたいな茶番しか思いつかなかった。

 でも、リョーコが幸せに暮らして欲しいってのは俺の心からの願いだ。

 リョーコの笑顔が素敵だってのも本当だ。

 それに、リョーコも俺と一緒にいて幸せだったって言ってくれたのも、俺は本当に嬉しかった。

 生き物の魂って、次の世界に前世の記憶を忘れてすぐ生まれ変わるらしい。

 だからリョーコがこの世界を去る間際に、いい人生だったって思いながら旅立ってほしい。

 俺はまたどこか世界でリョーコの魂と一緒に暮らすことが出来たら、こんな幸せはないよ。

 ものすごく低い確率だけど、でも知り合いだった魂って引き合うんだって言ってる奴がいたから、無いわけでは無いと思うんだ。


 俺は多分もうそんなに長くここに居られない。

 最後の思い出に、レーオくんにキスしてくれないか?


 俺がそう思うと、リョーコは涙を拭って、レーオくんの口にキスをした。


 あ、ちょっと待って、準備するからもう一回。俺がどうぞって言ったらキスして。

 ごめん、そんな正確に伝わってるとは思わなかったんだ。


 「相変わらず準備するのはギリギリなのね。何か食べに行こうって時も、いっつも出かける時間ギリギリに着替えてるんだから。こっちは焦っちゃうわよ。次の世界では準備はきっちりするようにしてね、周りに迷惑かけないように」


 わかった、本当に時間にルーズでごめんなさい。


 「準備しないともうしないわよ?」


 リョーコがいたずらっぽく言う。

 リョーコの気分が少し晴れたようで、本当に良かった。


 俺は意識の部分をレーオくんの中に移した。

 排煙装置から必死に逃げたおかげで、窒素の中の意識の移動は苦も無く出来るようになっている。

 もう長くは留まれないので、いくら上達しても無意味だけれど、今、この瞬間のために出来るようになっていて良かったと思う。

 

 はい、じゃあキスして。

 

 俺がそう思うと、リョーコはゆっくりとレーオくんの口に口づけた。

 

 もう二度と感じられないと思ったリョーコの薄くて柔らかい唇の感触を感じながら、俺は幸せを噛みしめていた。


 意識がリョーコの唇の感触に集中する。


 俺の窒素の体はいつの間にかほどけ、レーオくんの中に宿る俺の意識も多幸感の中に溶けて行った。










というわけで第98話でした。

第99話は出来次第投下いたします。


PS 8月14日に誤字報告して頂いた方、ありがとうございました。修正しました。

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