第4話 おんがえし
「きゃああああああ!」
精一杯の悲鳴を上げて、梨香ちゃんは走り出しました。
「おや、どうしたんだい? ああ、そうか! これが『つかまえてごらんなさい』ってやつだね! 恋人同士の戯れだ!」
おとこの人は、勝手な解釈で追いかけてきます。梨香ちゃんがチラッと振り返ると、おとこの人の顔には、満面の笑みが浮かんでいました。
それを見た瞬間、逆に梨香ちゃんの表情は恐怖で引きつります。つかまったら何をされるかわからない、と思ったからです。具体的な想像は出来なくても、考えただけで、怖くてたまりませんでした。
「ハハハ……! こういう追いかけっこなら、楽しいなあ!」
背後に迫る歓喜の声は、狂気の声でした。
しょせん梨香ちゃんは子供です。大人の脚力にはかないません。何度も振り向いて確認するまでもなく、おとこの人がどれほど近づいているのか、その足音や息づかいから、梨香ちゃんには理解できていました。
それでも。
おとこの人は、これを鬼ごっこ気分で楽しんでいるらしく、すぐには梨香ちゃんをつかまえようとしません。わざと一定の距離を保って、走り続けているみたいです。
「はあ、はあ……」
お屋敷の広い敷地を走り回るうちに、すっかり梨香ちゃんは疲れてしまいました。
そもそも寂しい地域にあるお屋敷ですし、最初に確認したように、お屋敷の周りに近所の人は見当たりませんでした。まずはここから出て、誰か人がいるところまで行かないと、助けを求めることも出来ないのですが……。
「あっ!」
梨香ちゃんは、転んでしまいました。落ちていた小石に、蹴つまずいたようです。廃墟と化したお屋敷ですから、庭を整える者もおらず、地面は荒れ放題だったのです。
「お嬢さん、もう追いかけっこは終わりかい? それじゃあ……」
恐ろしい声が聞こえてきますが、梨香ちゃんは立ち上がることすら出来ませんでした。腰を抜かしたのではなく、一度止まってしまったことで、ドッと疲労感が溢れてきたようです。
擦りむいた膝小僧を痛いと感じる暇もないまま、首だけを後ろに向けると……。
おとこの人は、何かを揉みしだくような仕草で両手を動かしながら、長い舌を出して、ゆっくりと舌舐めずりをしていました。
「きゃああああああ!」
再び叫ぶ梨香ちゃんです。どうせ誰にも届かないと頭では理解していますが、自然に口から出た悲鳴でした。
「どうしたんだい? 喜びの声にしては、ちょっと違うようだけど……」
相変わらず勘違いしながら、おとこの人が近寄ってきます。
梨香ちゃんは少しでも離れたくて、転んだ格好のまま這って逃げますが、二人の距離はジリジリと縮まっていきます。
そして、あともう少しで手が届く、という位置になった時。
「あっ!」
今度は、おとこの人の方が転びました。
梨香ちゃんのように、小石に足をとられたのでしょうか。
一瞬そう思いましたが、違いました。よく見ると、おとこの人の足には、緑色のものが巻きついています。
「えっ、まさか……」
信じられない光景でした。
おとこの人の足をつかまえたのは、お屋敷を覆っているのと同じ、緑の蔦だったのです。
しかも、建物の壁からではありません。蔦の先を目で追うと、それは、例の茂みから繋がっている様子でした。
絡まった蔦を梨香ちゃんが解こうとしていた場所であり、この恐怖の追いかけっこのスタート地点にもなった、あの茂みです。
ここまで走ってきたルートに沿って、緑の蔦が、延々と続いているのでした。
「おい、何だよこれ? 俺とお嬢さんの仲を邪魔するつもりか!」
おとこの人は喚きながら、足に巻きつく蔦を外そうとしています。でも、固く食い込むくらいに絡みついており、いくら頑張っても無理なようでした。
そして。
その状態のまま、長々と伸びていた蔦が、急に縮み始めました。まるで、元の茂みへ戻ろう、という意思を示すかのように。
当然のように、おとこの人も一緒になって、ずるずると引きずられていきます。
「こんな馬鹿な話があるか! おい、お嬢さん! 助けてくれ!」
おとこの人は腕を伸ばしますが、もちろん梨香ちゃんは、それを無視するのでした。
しばらくして。
おとこの人の姿が完全に見えなくなってから、ようやく梨香ちゃんは立ち上がりました。
「ありがとう、植物さん」
そう口にした瞬間、梨香ちゃんは思い出しました。蔦は蔓とも呼ばれることを。
何度も梨香ちゃんが絡まった蔓を解いてあげたから、そのお礼として助けてくれたのであれば……。
「これって、現代の『つるのおんがえし』なのかな。でも……」
昔話の『つるのおんがえし』でさえ、悪い妖怪とか、ありえない作り話とか言われる時代です。
だから。
「……内緒にしとくべきだよね。私と植物さんの、二人だけの秘密だよ」
梨香ちゃんは、そう決心するのでした。
(「おんがえし」完)