余話:マリエラ 1
クラレス伯爵家はシャルトス公爵家の分家の一つだ。
他の分家は公爵領内にある大きめの町を任されている程度だが、クラレス家は違う。
公爵家から領地の一部を与えられ、しかもその地の自治を許されるという破格の扱いを受けていた。
もちろん理由はある。
クラレス家の領地はシャルトス領の最南端、いわゆる『アストラン国との境目』にある。つまりクラレス家は昔から、公爵家側と王家側との交渉役を任されていたのだ。
マリエラ・クラレスは、クラレス家当主ヴァーレマンの長女として産まれたが、母はアストランの貴族の娘であり、公爵領の人たちからすればマリエラは『余所者との混血』ということになる。
しかし立場上、クラレス家は『余所者』との政略的な結婚が多く行われている。そのためクラレス家の人物に対しては排他的な目を向けてはならない、ということがシャルトス領内での暗黙の了解となっていた。
* * *
「マリエラ、話をしたいんだがいいか」
5歳になったマリエラが部屋にいたとき、父が訪ねて来た。
その時マリエラは、2歳年下の従弟のために本を読んでいた。
前の日に覚えたばかりの文字をうまく読めたために、従弟から称賛のまなざしをもらって良い気分になっていたところだったので、邪魔をされたマリエラはむっとしながら不機嫌に父へ視線を向ける。
「なあに、お父様。私、忙しいのよ? ご用事は、すぐすむのかしら?」
どこかで覚えた言葉を、少し大人びた口調で言ってみる。
しばらく瞬いた父は笑って謝罪の言葉を口にすると、マリエラの横に膝をついた。
「今度、公爵領のイリオスへ一緒に行って欲しい」
「イリオスへ? なにをしに行きますの?」
娘の問いかけに父は少し言いよどむ。
「……会って欲しい相手がいる。マリエラより1つ年上の男の子だ。あちらは仲良くして欲しいそうだが、マリエラが嫌なら会わなくていい。……会ったとしても、仲良くできそうにないなら二度と会わなくていいんだ」
マリエラは首をかしげた。
「お父様、その男の子というのは、シャルトス……というおうちの子ですの?」
「そうだ。シャルトス家の長男で、エリオット様という」
マリエラは考える。
イリオスまでは、かなり遠いはずだ。それなのに仲良くして欲しいということは、きっと周囲に友達がいないのだろう。
確かシャルトスという家はとても偉いのだと聞いた。ならば友達がいないのは納得だ。下の身分の者とは軽々しく付き合うものではないと、マリエラも小さいころから教えられている。
その点、自分はクラレス家の娘だ。シャルトス家よりは偉くないかもしれないが、見劣りするような身分ではない。
5歳ではあるが、マリエラは己の家柄に誇りを持っていた。
「会ってもいいです、お父様」
にっこり笑って答えたというのに、父はどこか複雑そうな表情だ。
心に引っかかるものを覚えつつ、マリエラが立ち上がってヴァーレマンを見送っていると、袖が引っ張られる。
振り向くと、従弟が寂しそうな顔でマリエラのことを見上げていた。
「マリエラさま、どこか行っちゃうの?」
「そうよ。イリオスへ行くのですって」
「すぐ帰ってくる?」
「すぐは無理よ。遠いところだもの」
どのくらい遠いのかはよく分からなかったが、遠いと聞いたことがあるので、とにかくマリエラは彼にそう答える。
しかし、遠い、との言葉を聞いた従弟はみるみるうちに瞳を潤ませた。
「マリエラさま、とおくに行っちゃうの? ぼく、会えなくなっちゃう……」
しゃくり上げる従弟を見たマリエラは、ため息をついて彼の肩を叩いた。
「馬鹿ね。ずっといなくなるわけじゃないわ。帰ってきたらまた会えるでしょう」
「ほんとう?」
「本当よ。それまでにお前も、もっとたくさん本を読めるようになっていなさい」
この従弟は母の弟の子だ。何か事情があるらしく、昨年からクラレス家で預かっている。
時々マリエラと机を並べて学ぶこともあったが、2歳違いのためにまだできないことも多い。
そのためマリエラにとって彼は、友人というより弟のようなものだった。
「わかった。マリエラさまが帰ってくるまでに、たくさん文字をおぼえるね。こんどはぼくが、マリエラさまに本をよんであげる」
「お前が? まぁ、生意気ね」
泣くのを止め、まっすぐに向けてくる水色の瞳を見ながら、マリエラは笑った。
* * *
母や従弟、召使たちに見送られて遠い道のりを進み、何日もかけてイリオスに到着したマリエラだが、さすがにその日は疲れて早々に眠ってしまった。
翌日改めての場を設けてエリオットと会ったマリエラは驚く。北の人々は薄い色の髪をしていると聞いたのに、彼の髪は少し濃いとはいえ従弟と同じような褐色をしていたのだ。
挨拶をした少年はマリエラの視線に気が付いたのか、切なそうに灰青の瞳を伏せた。
「……母上と同じなんです。あんまり見ない色だって聞いたんですけど、やっぱり嫌ですか?」
驚いたが嫌だったわけではない。むしろ成長した従弟に会ったようで、逆に嬉しかった。マリエラが首を横に振ると、良かった、とエリオットは笑う。
瞳の色はさすがに違ったが、それでもエリオットは灰青で、従弟は水色だ。同じ青系の瞳であることも、なんとなくマリエラに親近感を抱かせた。
彼はイリオスにある大精霊の木へも案内してくれたのだが、残念ながらマリエラに精霊関係の才は無い。それが分かると、エリオットは見ているものを一所懸命に話して聞かせてくれた。
初めて聞く話にマリエラはうっとりとし、精霊が見えないことをとても悔しく思う。同時に、色々なことを分かりやすく話してくれる少年に対して好ましい気持ちを抱いた。
だからこそ夜に部屋に戻った際、父に「エリオット様をどう思った?」と問われたマリエラは、にっこり笑って答えた。
「とても楽しかったです。エリオット様なら、仲良くできそう」
次いでエリオットと従弟とどちらが良いのかを尋ねられる。
なぜそんなことを聞くのか不思議だったが、マリエラは首をかしげて答えた。
「どちらも好きです。でも、どちらかといえばエリオット様ですわ」
まだ言葉足らずの従弟よりもエリオットの方がたくさん話せる、と思って言ったのだが、ヴァーレマンはマリエラの返事を聞くと、難しい顔をしたまま部屋を出て行く。
そのまま数日姿を見せなかった父は、ようやく部屋にやってきたかと思うとマリエラに「お前がエリオット様の婚約者に決定したよ」と告げた。
* * *
イリオスから戻ると、マリエラは真っ先に従弟の部屋を訪ねる。
従弟に話したいことはたくさんあった。エリオットのこと、イリオスで見た大きな木、立派な城や旅の途中で見たものなど。
しかし従弟の部屋には誰もいないばかりか、調度類もすべて片づけられていた。
不審に思って旅に同行しなかった召使に尋ねると、従弟は自分の家に戻ったという話だった。
「どういうことなの?」
しかし召使は口ごもるばかりで、マリエラの欲しい答えをくれない。
そこでまだ会っていなかったことを思い出し、マリエラは大急ぎで母の部屋へと向かった。
侍女が来訪を告げ、中から返事が戻る。扉が開くと同時にマリエラは叫んだ。
「お母様! ベルネスがいません!」
いつもなら挨拶がないことを叱責するはずだが、今日の母は諫めない。代わりに彼女は、ああ、と小さく呟いてため息をついた。
「……あの方は、マリエラに何も言わなかったのね。嫌なことを押し付ける癖は変わらない……本当に困った方」
「お母様、お母様、どうして? 何があったんですか? だってあの子は私に、本を……」
椅子に腰かける母の元へ早足で寄ると、母はマリエラの顔を覗き込んで言った。
「ベルネスは、元の家へ戻りました」
聞きたくなかった言葉を改めて母から聞き、マリエラは呆然とする。
「良くお聞きなさい、マリエラ。ベルネスは、お前の婚約者候補だったの」
「婚約者……? 候補……?」
「そう。長子であるお前と結婚して、伯爵家を支えるかもしれない相手だったのです。……あの子はこのまま様子を見ながら、城で養育する予定でした」
瞳を瞬かせる娘に母は続ける。
「でもお前はエリオット様の婚約者になったのだから、伯爵家を継ぐことはないでしょう? ベルネスはここにいる必要がなくなったのです」
母とはもう少し話した気もするが、これ以上のことはよく覚えていない。気が付くとマリエラは、自室にある長椅子でぼんやりとしていた。
母の話の内容は後半、政治的なことになってきた。マリエラにはまだ良く分からなかったのだが、とにかく自分がエリオットを選んだために、従弟がいなくなってしまったのだということだけは理解できた。
つまりマリエラは、従弟かエリオットか、どちらかしか選べなかったのだ。
(……でもきっと、エリオット様の方がいいに決まってる。そうよ、クラレス家より身分の高いお家へ行けるのだもの。私はとても良い方を選んだのだわ)
従弟と一緒に読んだ本を視界に入れないようにしながら、唇を噛みしめてマリエラは自分に言い聞かせた。
しかし事態は急転する。
ふたりの婚約をすすめていたシャルトス家のクロードが急死し、エリオットの立場が危うくなったのだ。
クラレス家の中も大慌てとなり、当主であるヴァーレマンは何度もマリエラを呼び出し、エリオットとの婚約解消を求めた。
「エリオットからも解消するようにと連絡が来ている。あとはお前が承諾するだけだ」
「私は婚約を解消しません」
もはや敬称すらつけないのか、と憤りながらマリエラは何度も父に同じ返事をした。
「もしかしたらまた、エリオット様が公爵の後継者となられる日が来るかもしれないでしょう? いま婚約を解消してしまえば、今度は別の人が婚約して、その人が公爵夫人になるかもしれません。そんなの、絶対に嫌です」
婚約者の座を明け渡さなければ、きっとエリオットは自分のものになる。従弟のようにいなくなったりはしないはずだ。
今度は絶対選択を間違えない。自分の手の内にとどめて見せる、あの喪失感を味わうのはもうたくさんだ、とマリエラは思っていた。
しかしマリエラが9歳になったころ、結局は父が公爵家と共に手続きを進め、婚約は解消となってしまった。
父に呼び出されて話を告げられた後、マリエラはふらふらと自室へ戻る。長椅子に座り込んだまま、今しがた聞いた「お前のためなんだ」という父の言葉を思い出していた。
(嘘よ。お父様は私の事なんて、ちっとも考えていらっしゃらないわ)
マリエラは、知らないうちに握りしめていた手を開く。
褐色の髪をした従弟は、マリエラの選択の結果姿を消した。
今度こそ手放すまいとした婚約者も、やはりマリエラから離れてしまった。
マリエラの瞳から涙がこぼれ落ちる。
――自分がもっと大人だったら。もっと高い身分があったなら。抗うことができたかもしれない。
涙を流しながら、マリエラは胸の内で何度も呟いた。