33.心
衝撃から立ち直ってしまえば、ローゼにも納得できた。
思い返してみれば最初から恐ろしく感じていたのは、リアヌよりもナターシャの方だったのだ。
心配そうなリュシーはローゼの気を紛らわせるためにだろう、他愛もないことをあれこれ話しながら、いつもよりも長く滞在してくれる。
心遣いをありがたく感じるローゼがやっと普通に笑えるようになった頃、彼女はほっとしたように、それでもどことなく不安そうな様子を見せながら侍女と共に部屋から立ち去った。
リュシーを見送ったローゼはなんとなく床に座って天井を見上げる。
ここは先日、訪ねて来た彼と話をした場所だ。
「……そっか……ナターシャが正妃だったのね……」
呟くと、傍らのレオンが静かに答えた。
【まあ、どっか納得できる感じだな】
「そうね……」
ローゼは膝を抱える。
「でも、リュシー様も……フロランもさ、どんな気持ちなのかな」
【どんな?】
「うん。今まで実感なかったけど、正妃……つまりナターシャはさ、身内を殺してるわけでしょ。それでもリュシー様とフロランにとっては、母親なわけだからさ……」
【ああ……】
直接手を下したのかどうかは分からないが、姉弟のふたりからすれば、自分の父と、半分血のつながった妹の死の原因が母ということになる。
「この部屋は、シーラっていう人の部屋って言ってたけど……シーラってあの人のお母さんよね」
【おそらく】
そして『彼』にしてみれば、父と妹だけでなく、シーラ……自分の母親の死にも間接的に関わっているということになるはずだ。
ため息をついてローゼは部屋の中を見渡す。
箪笥と寝台、椅子と机。あとは多少の空間があるだけ。
今日のナターシャの部屋や、最初に見たリュシーの部屋とは比べ物にならない。
わざわざこんな小さな部屋をあてがわれたのは、シーラが余所者だったからか。
ならばきっと、周囲の人からも冷たく扱われたに違いない。
この部屋でシーラは何を思いながら過ごしていたのだろう。
ナターシャの言葉を思い出す。
それでもシーラは好きな人の近くにいたかったのだ。
そしてナターシャの言葉といえば、もうひとつ気になることがあった。
「……ねえ、レオン。シーラがお母さんだとしたら、もしかしてエミリーっていうのは妹なのかな……」
【……そうかもしれないな】
「妹はまだ生きてると思う?」
【さて、どうだろう。大精霊なら分かったと思うが】
ローゼは傍らの床にある聖剣に視線を落とした。
「どうして?」
【古の大精霊はシャルトスの血脈を守護していたからな。大精霊ほどの存在なら、血脈の者がいなくなれば確実に分かる。もしも大精霊がいなくなったと言ったのなら……】
レオンの言葉の途中でローゼは重い息を吐く。
その様子で理解したのだろう、レオンは最後の言葉を濁した。
城内の音が届かない小さな部屋は、ローゼとレオンが黙ってしまえばとても静かだ。
レオンはローゼの気持ちを慮っているのか、特に話しかけてくることもない。ローゼも何も言わず、彼や彼の母、そしてナターシャの話などを考えていた。
そんな中で先日彼と会ったことを思い返していた時、嫌なことに気が付いてローゼはふと眉根を寄せる。
「……ねえ、レオン」
【ん?】
「あのさ。精霊術を使えば、洗濯物ってすぐ乾くと思う?」
【なんだそれは】
面食らったような声を出したレオンは、少しの間黙ってから答える。
【……俺も術に関しては良く分からん。だがまあ、何とかなるかもな】
「なるんだぁ……」
ううう、と呻いてローゼは両手で顔を覆う。
ローゼがアーヴィンと出会った小屋の近くには泉がある。さほど大きくも深くもない泉だが、水は澄んでいて美しい。
(きっとあの泉だ……あそこで洗って、精霊に力を借りて、乾かして、持ってきたんだ……)
しかも本人はローゼがアーヴィンを避けていた理由に気付いていなかったし、心当たりとして思い出すこともなかったようだ。
ということは、先日の会話でローゼが思い出させてしまったことになる。
わざわざ余計なことを教えてしまったのだと気づいたローゼは、羞恥でいてもたってもいられなくなり立ち上がった。
【どうした、ローゼ】
「寝る!」
【は?】
レオンの戸惑う声を聞きながら、ローゼは聖剣を箪笥に入れる。
「もう寝る!」
【寝るってお前、まだ寝るような時間じゃないだろ? さっきまで黙って何か考えてたくせに、今度は一体どうした?】
「思い出させないで! もう今日は寝る! 寝て忘れる!」
【忘れる? 何をだ?】
「だから、忘れるの! これ以上聞かないで!」
ばたばたと着替えを終えたローゼは机の上に聖剣を置くと、宣言通りさっさと寝台に潜り込んで眠ってしまった。
* * *
翌日の朝と昼の食事を持って来てくれたリュシーはどことなく表情が硬い。
確か今日は公爵が城に戻ってくる日のはずだ。
やはり緊張するのだろうと思っていた午後、外れにある小さな部屋でも分かるほど、城が慌ただしくなった。
「公爵が戻ってきたのね」
【おそらくな】
扉を開けて窺いたいところだが、さすがにここまで来て見つかるのは得策ではない。
せめて何か分からないものだろうかと可能な限り聞き耳を立てていたのだが、聞こえてくるのは足音ばかり。声は聞こえても内容はまったく聞き取れず、情報らしい情報を得ることはできなかった。
ならば夕食を運んできてくれるリュシーに状況を問おうと思ったのだが、窓の外が暗くなってきてもリュシーは部屋に現れない。何かあったのだろうかと不安になる頃、ようやく侍女だけがこっそりと食事を届けに来てくれた。
しかし、いつもならば温かい汁物や肉などの食事を用意してくれているのだが、今回はパンに肉や野菜をはさんだだけの簡単な食事しかなかった。
「遅くなった上にこのような食事で申し訳ありません」
そう言って彼女は頭を下げる。
もちろん食事がもらえるだけでありがたいのだし、そもそも豪華な具材に驚きこそすれ不満はない。ただ、こんなに食事が遅くなるのも、簡易的な食事なのも、もちろんリュシーが来ないのも初めてだった。
「何かあったのですか?」
ローゼが尋ねると、いつもリュシーと一緒に来てくれる40代後半くらいの侍女は微笑んで答えた。
「お客様がご心配なさるようなことはございません。公爵閣下がお戻りになられたので、リュシー様はご家族で過ごされるそうです」
そう言いおいて侍女はローゼの食事が終わるのを待たず退出して行く。
今日はさすがに暗くなっているため、侍女は小さな明かりを渡してくれた。
できるだけ外に明かりを漏らさないよう床に置き、ローゼはその横に座りこむ。夕食にかぶりつきながら首をひねった。
「うーん。嘘くさい」
【嫌な感じがするな。あまり雲行きは良くなさそうだ】
「ほんとね。……確か公爵は、別の城へ行っていたんだっけ」
少し離れた場所にある城の財産関連を運び出す手配をするらしい、と何日か前にリュシーから聞いた覚えがある。
やっていることは逃げ出す計画の一旦か、とローゼは憤りを覚えたが、そのお陰でこの城へ入ることができたのだから、ある意味感謝するべきなのかもしれない。
運び出すための財産関連で何かあったのか、あるいは別に問題が起きたのか。
ローゼには情報がない。結局、誰かから話を聞くまでは何もできないのだ。
食事を終えたローゼはそっと荷物をなでながらため息をついた。
「待つだけってつらいわねぇ」
【そうだな。……だからって外に出るなよ】
「なによ、あたしのことを信用してないの?」
【してない。俺の制止も聞かずに庭に出たのは誰だった?】
咎めるような声にごまかし笑いを浮かべたとき、廊下から近づいてくる足音が聞こえてきた。足音は複数だが、女性の靴の音はしない。
これはもしや、と期待すると、思った通り扉の向こうからするのはフロランの声だ。
しかし、彼の声からは切迫した様子が感じられる。慌てて扉を開けると、フロランの顔色は悪い。
ローゼが中へ促そうとすると、フロランは廊下からローゼの手をつかんだ。
「すぐ祖父に会って欲しい」
「どうしたんです?」
訝しげに問うローゼに、フロランは急いた様子のままで言う。
「クラレス伯爵が裏で動いていることが分かった。このままだと祖父とぶつかって面倒な事になる」
ローゼは首をかしげる。
クラレス伯爵と言えば、マリエラの父だ。
娘がこの城にいるというのに、父親が危ないことをするだろうか?
問いかけると、フロランは嫌そうに答える。
「だから裏で、って言ったろう? ……まったく、クラレス伯爵は祖父をあなどりすぎだよ。伯爵家の味方と見せかけて、実は公爵家に内通している家だってあるというのに」
フロランは小さくため息をつく。
「クラレス伯爵家はシャルトスの分家でも最大の力を持ってる。だからクロード……父はエリオットの妻にマリエラを望んだんだけどさ。そのことを思い出したのかなんなのか……エリオットを公爵につけた後、クラレス伯爵が後ろ盾になるつもりらしい」
そこまで言ってフロランは小さく首を振った。
「こんな話をしてる場合じゃない。とにかく祖父が他の手を考え着く前に、話を持ち掛ける」
「この格好で?」
ローゼが着ているのは、リュシーが用意してくれたごくあっさりとした服だ。
庶民が着るものよりは高価だろうが、それでもドレスなどに比べてしまえば格段に見劣りがする。果たして公爵が機嫌を損ねずに会ってくれるのだろうか。
「仕方ないだろ。ローゼが着てたものより、その方がマシなんだから」
「……一応、持ってきたものはあるんですけど。少なくともこの服よりは高価な衣装です」
ローゼが笑みを浮かべながら言うと、フロランは少し考えてうなずいた。
「分かった。なんかあるならそっちを着てもらおうか。手伝いは必要?」
「いえ、何度も着てるので大丈夫です。少し待っていてください」
「分かった。でも、祖父を待たせてるから急いで欲しいな」
うなずいて扉を閉めたローゼは、荷物の底に大事にしまってあったものを出す。
【それを着るときがきたか】
「うん。念のために持って来てよかった」
取り出したのは美しい白のローブ、フェリシアが儀式前の歩き方訓練の際、自習用にと渡してくれた品だった。