31.歪み
しばらくの間ローゼは黙ったままだったが、ナターシャとマリエラはふたりで談笑している。
楽しそうだなと思いつつ耳を傾けてみれば、内容はシャルトス領内の実力者たちに関することだった。どうやら分家同士でも力関係や派閥などがあるようだ。
何かの役に立つかもしれないので覚えておこうかと思うのだが、聞きなれない単語が多くて記憶するのもなかなか難しい。
それでも、レオンだって聞いていてくれるはずなのだから後で知識を合わせれば良いだろうと考え、ローゼは黙って椅子に座り、カップの中で揺れる景色を眺めながらナターシャやマリエラの会話をじっと聞いていた。
すると不意に場が静かになったかと思うと、部屋におっとりした声が響く。
「あら、お茶は口に合わなかったかしら?」
はっとして大窓の方を見ると、小首をかしげたナターシャが2杯目の茶を侍女に注がせているところだった。
彼女の横からはマリエラもローゼに非難がましい目をむけている。
このままではナターシャの不興を買うだろうか。
彼女を刺激するのは得策だと思えなかったので、ローゼは「いいえ」と呟き、慌ててカップを手に取る。
少し待ってみるが、レオンは何も言わない。ならばきっと、この茶に怪しい気配はないのだろう。
彼を信じて一口含み、ローゼは思わず微笑んだ。
「どうかして?」
「いえ、美味しいなと思いまして」
そう? とナターシャは満足げに言う。
もう一口飲んで、ローゼは心の中だけで呟いた。
(うん。やっぱり、フェリシアが淹れてくれたお茶の方が美味しいな)
北の城で飲んだお茶よりもフェリシアが淹れてくれるお茶の方が美味しかったよ、と言ったら彼女はどういう反応をするだろう。
(きっと「そうだと思いましたわ!」なーんて言って、自慢げに胸を張るんだろうなあ。で、「さっそく淹れて差し上げますわ!」って言うの)
カップの中を見つめながら、ローゼは王都の大神殿にいる友人を想う。
フェリシアの助けがなければ、きっとここまで来ることはできなかった。そして、この後も。
世話になりっぱなしの彼女に自分は何ができるだろうかと考えていると「そうだわ」というナターシャの声がして、ローゼは現実へと引き戻された。
「ねえ、知っているかしら? 公爵閣下が立ててきた計画はね、今はもう、ずいぶん崩れてしまっているのよ?」
あまりに何気ない口調で言われ、ローゼは顔を上げてナターシャを見る。
思いもよらない話だったのか、マリエラも目を丸くしていた。
「だってね、あんな計画、最初から無理があったのだもの。それをなんとかするために、裏工作を行い、民の気持ちをつなぎ留め、罰を制定し、かろうじてここまで来たのよ。それなのに……ああ、そうだわ。最後にあの方の計画を崩した原因は何だかわかるかしら?」
ナターシャはマリエラを見ず、ローゼだけをじっと見る。ローゼが黙って首を横に振ると、ナターシャは微笑んで話を続けた。
「――エリオットが戻ってこなかったことよ」
ローゼは息をのむ。
その反応が楽しかったのか、それとも予想通りで嬉しかったのか。ナターシャの表情は微笑からはっきりとした笑みに変わった。
「エリオットはね、神官になってすぐ戻ってこなくてはいけなかったの。……いいえ、すぐでなくても、大精霊がいなくなる前には必ず、この地にいる必要があったのよ」
カップを手に取ってお茶を眺めると、ナターシャは一口分の茶を飲み、静かに机へと置いた。
「なのに、エリオットは戻ってこなかったでしょう? 公爵家はエリオットを探すため、たくさんの人を動かすことになったの。……最小限の人しか知らなかったはずの役目のことを、知る人が増えてしまったのよ」
視線を上げたナターシャは瞳を一度マリエラに向け、その後ローゼへと向けた。
「それでも公爵閣下は、問題ないっておっしゃるの。分かっていたんですって。全てが、ご自身の想定の内なんですって。――そんなはずないのにね」
ナターシャの顔が奇妙にゆがむ。
どうやらそれは、笑った顔のようだった。
「そう、そんなはずないのよ。公爵閣下の計画はもう破綻してしまっているの。城の使用人だって、公爵閣下へ疑いの目を向け始めているわ。少しずついなくなる人だって出ているのよ。でもあの方は、ご自身の失敗を認めたくないの。現実を見ようとなさっていないわ」
深く息を吐き、ナターシャは下を向く。大窓を背にしているナターシャは下を向いてしまえば一層影が濃くなり、ローゼから表情を窺うことができない。
「……そう。現実。……結局フロランは公爵の位を継げない。シャルトス家の存続も危うい。……ああ……もし――――がいらしてたら……どう……。私の……は……だったの……」
ナターシャの声はどんどん小さくなり、最後にはぼそぼそと何かを呟いていることしか分からなくなった。
彼女の様子を見ながらローゼは困惑する。
――この人は一体なんだろう。
少し突けば壊れてしまいそうな、奇妙な危うさを秘めている。
しかし迂闊に触れば、反対にこちらが傷だらけにされてしまいそうだった。
そもそも正妃の妹であるはずなのだから、エリオットの敵だということは間違いない。しかし今の発言を聞く限り、純粋に公爵の味方だとも思えなかった。
もしかすると、いくつもの考えが複雑に絡み合っているだけで、誰が誰の敵であり味方であるという単純なものではないのだろうか。思い起こしてみれば、先ほどナターシャとマリエラが話していた分家筋の話というのも、そんな具合に思えた。
だとすればナターシャはエリオットの敵だが、同時に、公爵に対しては表向きだけの味方という可能性もある。そう考えるのならば、今の公爵に最盛期の力は無いのかもしれない。
ローゼがそんなことを思っていると、扉が叩かれる音がした。
応対する侍女の声が聞こえる。
戻ってきた侍女はうつむくナターシャの傍に寄ると耳打ちをした。
「あら、もう?」
侍女の言葉を聞いたナターシャは顔を上げる。
その表情は、今までにも何度か見たおっとりとしたものだった。
「お姉様が呼んでいるのですって。私も離れへ戻らなくてはいけないわ。ごめんなさいね、お茶会の途中だというのに」
侍女が椅子を引き、ナターシャが立ち上がる。ローゼの背後にいる人物も含めた護衛全員、そして数人の侍女が付き従う様子を見せた。
手にした扇で口元を隠し、ナターシャは机の方へ視線を向ける。
「まだお茶は途中でしょう? 飲み終わるまでゆっくりしてね、マリエラ……と」
そこまで言い、ギラリとした光を宿して緑の瞳をローゼへ向ける。
「シーラ」
彼女の言葉を聞いて、ローゼの顔には戸惑いが出てしまったのだろう。
ナターシャは瞬くと首をかしげた。
「……そうよね、違う、シーラじゃないわ。でもおかしいわね、シーラの部屋にいたのに……。ああ、そうね。もしかしてエミリー?」
やはり違う名前で呼びかけられて答えに詰まる。
そもそも彼女はローゼの名前を知らないはずだ。一度も問われたことがないのだから。
しかしナターシャはローゼへの興味を既に失ったらしい。
そのまま護衛と侍女を従え、部屋を出て行ってしまう。
部屋に残されたのは、給仕をしていた侍女と、入口付近に立つ侍女、マリエラ、ベルネス、そしてローゼとレオンだけだった。
(シーラだの、エミリーだのって……いったいなんなのよ、もう)
名前に関して釈然としない気持ちはあるが、それよりも何事もなくナターシャと別れられた安堵と、さっさと帰ろうという焦りの方が強い。
椅子の左側に立てかけておいた聖剣へ視線を落としたローゼに、マリエラが小さな声で尋ねてきた。
「……お前は本当に公爵閣下にお会いするつもりだったの……?」
「最初にそう言ったじゃありませんか」
彼女の方を見ずにぞんざいな答えを返し、ローゼは左手に聖剣を持つ。立ち上がるために右手を机に置いたとき、またしてもマリエラの声がした。
「どうして?」
「それもさっき言いましたよ」
「では本当に、公爵閣下の計画を崩そうと考えているの? エリオット様が公爵の位におつきいただける機会だというのに」
その言葉に思わずマリエラの方へ顔を向けると、彼女は不快そうな、そしてどこか不安そうな様子でローゼを見ていた。