30.誘い
ローゼは扉の側から少しずつ後退る。
鼓動が早くなっているのが分かる。顔からは血の気が引いているはずだ。
頭を下げた方が良いのか悩むが、一方でナターシャはローゼの様子に頓着する様子が無かった。
「お話の状況はどうかしら、マリエラ。もう終わりそう?」
「……申し訳ありません、ナターシャ様。まだかかりそうです」
いつの間にか立ち上がっていたマリエラは、畏まった調子で頭を下げる。横のベルネスも緊張した面持ちでナターシャに礼を取っていた。
「まあ、困ったわ。お姉様が離れへお戻りになったから、今のうちにと思って来たのだけれど……」
扉から一歩だけ中に入ってきたナターシャは、人差し指を顎に当てて首をかしげる。
ややあって彼女はにっこり笑うと、朗らかな声を出した。
「そうだわ。お話はいったんお休みして、みんなで先にお茶にしましょう。もしふたりが仲良くなれたら、話し合いの必要がなくなるかもしれないもの。ね? いい考えでしょう?」
何を考えているんだ、とローゼは唖然とするが、マリエラは下を向いたまま、はい、とくぐもった声で返事をする。
満足げにうなずいたナターシャは、ついでローゼへ視線を向けた。
その瞬間、ピリリとした空気を感じてローゼは慌てて頭を下げる。
しばらくして、頭の上からふんわりとした声が降ってきた。
「そちらの子も、いいわよね?」
「……はい」
ローゼが小さく返事をすると、ナターシャは手を叩いて嬉しげな声で言う。
「さあ、みんな顔を上げて。私の部屋へ行きましょう?」
その声にゆっくり顔を上げてみれば、マリエラはローゼの方を見ずに、ひとりでさっさと扉へ向かっている。
ベルネスはどうしたのかと思えば、寝台に敷いたマントを手に取り、慌てながらもう一度肩にかけようとしているところだった。
「ほら、いらっしゃい」
ナターシャが扉の向こうから笑顔でローゼに声をかけてくる。
行きたくはないのだが、どうしても行く必要があるらしい。
お姉様こと正妃はいないらしいので、せめてそれは救いだろうかと思いながらローゼも渋々廊下へ出ると、ナターシャの護衛が厳しい声を出した。
「そなた、ナターシャ様のお部屋へ剣を持って行くつもりか」
確かにローゼは左手にずっと聖剣を持ちっぱなしだ。
「置いてこい、無礼者」
その言葉を聞いてローゼは首を振った。
「できません」
「なんだと?」
「この剣には精霊が憑いています。私は精霊と共にいると誓いました。剣の精霊もまた私とともに在ると決めております。私と剣は離れることができません」
【ローゼ……】
ローゼが言ったことを聞き、レオンは何やら感激している様子だった。
「それにこの剣は何も斬れません。精霊が憑いているだけの、全くの役立たずです。飾り以下です。どうか共に持っていくことをお許しください」
【……ローゼ】
レオンはあからさまに落胆した声を出した。
【お前もうちょっと言い様ってもんが……】
「本当なの?」
笑顔のナターシャがローゼに問いかける。
はい、と答えると、ナターシャは小さく、んー、と言いながら首をかしげた。
「ではまず、自分の体で試してくれるかしら? 本当に斬れないのなら持って来ても構わないわ」
キラキラとした緑の瞳から感じるものは猜疑というより、試したことによってどうなるかが見たい、という好奇心のように思えた。
ナターシャの瞳にどこか恐怖を感じながら、ローゼは聖剣を抜きはらう。
右手で持った聖剣を、左の腕に向かって振り下ろした。
すると腕に当たる寸前、刃は消滅する。
場が小さなどよめきに包まれた。
「すごいわ。どうなっているの?」
興味津々のナターシャが問いかけてくるので、ローゼは首を横に振った。
「私にも分かりません。でも、精霊の力で寸前に刃が消えてしまうようです」
実際には神から付けられた制約があるせいなのだが、とりあえずこの場では精霊の力ということにしておく。
ナターシャに自分以外の人物でもやってみせろと言われたので、近くにいたベルネスに許可を取って同じことをしてみた。
ひきつった笑みを浮かべるベルネスに何度か同じことを繰り返し、いずれも同じように刃が消えることを確認したナターシャに携行を許可され、胸をなでおろしながらローゼは着いて歩く。
見知らぬ場所へ乗り込むのにひとりきりなのも、自分のいない部屋に聖剣を置いておくのも、どちらも困る話だ。
しかしレオンは見せ物になったことが大変に不満だったようで、廊下を歩く最中はずっと文句を言っていた。
階段を上り、2階に着いたところで廊下側へと出る。どうやらナターシャの部屋はリュシーやフロランの部屋と同じ階にあるようだ。
「いつも使っているのはね、お姉様と同じ離れの部屋よ。でも今日はみんなとお茶をするから、こちらを使うわ」
目的の部屋の前でナターシャが立ち止まると、護衛が扉を開け、ローゼたちを室内へ促す。
中はリュシーの部屋よりもずっと広く明るい。そして家具や調度類はより豪華なもののように見えた。
毛足の長い赤い絨毯を踏みながら室内へ入ると、露台へ出る大きな窓の近くには広い机と椅子がある。壁際で控えた侍女はいつでもお茶の仕度ができるよう、手押しの台に準備を整えていた。
ナターシャが椅子に座り、続いてマリエラが腰かける。護衛たちはナターシャの近くにすいと立ち、そんな中ベルネスだけが若干もたつきを見せていた。
ローゼとしては座ることなくもう帰りたい。そんな気持ちを込めて座らず扉近くで立ち尽くしていたのだが、ナターシャはそれを遠慮だと受け取ったようだ。
「気にしなくていいのよ。こちらへいらっしゃいな」
手招きをされ、仕方なく机へ近づく。
机には、露台を背にしてナターシャが座っており、その右手側の側面にマリエラが座っていた。
迷って、ローゼはナターシャの左手側、マリエラの正面から少し扉側へずれた位置に座る。
何かあればすぐに逃げ出せるようにと思ったのだが、ローゼの後ろには何気ない動きでナターシャの護衛騎士のうちひとりが移動してきた。もちろんこれは見張りだろう。
後ろに立たれては逃げるのが難しそうだと、ローゼは周囲にばれないようそっとため息をついた。
机の様子を見て満足そうな笑顔を浮かべたナターシャは、「それで」と言いながらマリエラ、そしてローゼに緑の瞳を向けてくる。
「ふたりは次期公爵夫人を巡って争っているのよね」
マリエラが小さく「はい」と答え、質問内容に面喰いながらも反射的にローゼは「いいえ」と言い切った。
ローゼの答えを聞いてマリエラは一瞬にらみつけるが、ナターシャの前であることを思い出したらしくすぐに視線を外す。一方でナターシャは意外そうな面持ちを見せた。
「あら? 公爵夫人になりたくないの?」
「はい」
「どういうことかしら? シーラのように、ただ側に居たいだけ、とでも言うの?」
お茶をしようと誘われたはずだが、侍女は未だ給仕を始める様子がない。
「それとも子どもが欲しいのかしら? 自分は日陰者でも構わないから、子どもが公爵になるか、あるいはフィデルの貴族へ嫁げるのならそれで良いという考え?」
ナターシャの言うことが理解できず、ローゼは困惑する。
シーラとはおそらく、余所者だったという女性のことだろうと思うのだが、フィデルの貴族が出てきた理由が分からない。
フィデルはアストランの隣国、この大陸の北方に位置する国の名だ。その国の貴族とシャルトス公爵家と、いったい何の関係があるのだろうか。
しかし問い返すことができる雰囲気のような気がしないので、ローゼは考えた末に口を開く。
「……どれも違います」
「そうなの? では、この城にいる理由はなぁに?」
「私がここにいる理由は……」
ローゼはナターシャを見る。
「……公爵閣下の計画を壊すためです」
ローゼの言葉を聞いて、マリエラやベルネスを含めた周囲の人物が息をのんだ気配がする。
「まあ。驚いたわ」
しかしナターシャは口ではそう言うものの、表情はまったく動かさず、相変わらずおっとりとした笑みを浮かべていた。
「その場合、シャルトス領は何か変わるの?」
「表面上はきっと何も変わりません」
「公爵の位はどうなるのかしら?」
「おそらくフロラン様が継ぐことになります」
ローゼの言葉を聞いて、ナターシャの瞳がすっと細められる。
「それは、フロランが役目を担うということ?」
「いいえ」
ナターシャは役目の話も知っているのか、と思いつつローゼは首を横に振る。
「公爵閣下の計画は壊れます。ですから役目そのものが消滅します」
ローゼの言葉を聞いたナターシャは、瞳を細めて口元に笑みを浮かべる。
しんと静まり返る部屋の中、彼女は黙ってローゼを見つめていたが、やがてほんのわずかずつ、ゆっくりと首をかしげた。
その表情と動きはまるで不気味な人形を見ているかのようだ。ローゼは全身が総毛立つのを感じる。視線をそらしたいのだが、ナターシャから目を離すことができない。
周囲の人々はどう思っているのだろうと思いながら、ローゼはすがるような気持ちで左腕の銀鎖を握りしめた。
しばらくして、ナターシャは通常の位置に頭を戻す。
「分かったわ」
そう言って、彼女は手を叩く。
「そろそろお茶にしましょう」
ナターシャは傍へ来た侍女に向かって何か指示をする。侍女は一礼すると手押し台へ戻り、給仕を始めた。
「あなたには、特別美味しいお茶を差し上げようと思っていたの。でも、止めるわね。私たちと同じお茶にするわ」
ナターシャは無邪気に笑うとローゼへ緑の瞳を向ける。
なんと答えたら良いのか分からないローゼは、無理に作った笑みを浮かべ、ただナターシャへと頭を下げた。