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27.差し支え

 ローゼはそれなりの時間肩を貸す覚悟をしていたのだが、青年は思ったより早く体を離した。


「ごめん」


 下を向いたまま彼は胸元からハンカチを出して目に当てる。滅多に見られない顔を見たかったローゼとしては、正直なところ少し残念だった。


 彼はそのまま壁に背を預けたので、ローゼは立ち上がって荷物の中からきれいな布を取り出す。途中の店で買って、まだ使っていないものだ。

 同時に渡したかったものがあることを思い出して一緒に取り出し、机の上にある水差しを取って布だけを濡らした。


「すぐぬるくなっちゃうかもしれないけど、使って」


 そう言って差し出すと、彼は礼を言って受け取り、ハンカチの代わりとして使い始める。布を当てているのは右手だったので、ローゼは青年の左腕を取った。


「……ローゼ?」

「ちょっと待ってね」


 ローゼが布と一緒に荷物から取り出したものは編んだ銀狼の毛、許可を得てふたつ作っておいた内のもう片方だ。


 彼の左袖をめくり、手首に銀狼の毛を結び始める。

 何かを感じ取ったらしい彼が目を覆ったまま息をのむのが分かった。さすがに精霊を扱う素養がある人物は違うなと、ローゼは羨ましい気持ちになる。


「……ローゼ、これは……」

「銀の森の銀狼の毛よ」


 結び終えたローゼは、はい、と言って腕を離す。

 強力な精霊の一部であるこの毛は、強い力を秘めているはずだった。


「フロランに見つからないようにね。あの人、絶対取り上げるから」


 ローゼが言うと、彼は手に持っていた布を膝に置き、左手首の銀狼の毛を右手でそっと触る。その顔は何日か前のフロランにそっくりだ。変なところで兄弟であることを実感したローゼは、こみあげてくる笑いを抑えることができない。


 くすくすと笑いながら彼が膝に置いた布を取り、そっと窓を開けた。


 もう夏と言っても良い時期なのに、北方の夜はまだ空気がひんやりとしている。

 ぬるかった布は冷え、同時に彼の涙で濡れた肩口も冷えた。

 急いで窓を閉め、身を震わせながら室内を振り返ると、彼はまだ銀狼の毛に感動しているようだった。


 本当に子どもみたい、と微笑ましく思いながら冷えた布を彼の膝に置く。

 その冷たさに我に返ったのか、青年はローゼの顔を見て照れたように笑った。


「ありがとう……ごめん、お礼を先に言うべきだったね」

「いいのよ。喜んでもらえてあたしも嬉しい……って言っても本当は、銀狼の好意なんだけどね」


 言いながら、先ほど青年が剣帯と一緒に机の上に置いた輝石の明かりを手にする。彼の左横に行って明かりを掲げたローゼは眉をひそめた。


「ちょっと強く叩きすぎちゃったかも……赤くなってるみたい」


 ローゼの言葉を聞きながら彼は布を手に取る。


「頬に関しては神にお願いすれば治していただけるだろうね……でもローゼが気にしてくれるなら、このままにしておこうか」

「またそんな意地悪を言う」


 彼は少し口元をゆるめたが、ローゼの方を見てすぐに申し訳なさそうな顔になり、布を目元に当てながらため息をついた。


「なるほど、ローゼの気持ちが分かるな。……ごめん、着ているものを濡らしてしまったね」


 ローゼは思わず言葉に詰まる。


 確かに以前ローゼは、グラス村を出発する日の朝に泣いてしまい、アーヴィンの神官服を濡らしてしまったことがある。しかし最初の出会いでは、涙どころか、漏らしたもので神官服を汚してしまっているのだ。


 申し訳なさの度合いが違うと思いつつ、ぼそぼそと口にする。


「この程度……あたしが最初にしたことに比べれば……その、全然大したことじゃないし……」

「ローゼが最初にしたこと?」

「だから、えっと……小屋の前で最初に会った時……」

「ああ」


 青年はこともなげな声を出す。


「あの時か。確か驚いたローゼは腰を抜かして、その後――」

「いぃぃぃーやぁぁぁぁー」


 さすがにローゼもこの場で大声を出すのは問題があるという理性は働く。

 しかしそれと恥ずかしくないのとはまた別の話で、座っていたローゼは耳を押さえて足をばたつかせた。


「やっぱり覚えてるっ。もうやだっ」


 そのまま耳を押さえてうずくまっていると、そっと手をつかまれて外された。


「なるほど、そういうことか」


 笑いを含んだ声で言われたので上目遣いに見れば、彼はどこか晴れ晴れとした表情を浮かべている。


「なるほどって何がよ」

「ローゼが最初の頃、私を避けていた理由がやっと分かったなと思ってね」

「分かってなかったの?」


 まさかと思いつつ問いかけると、彼はあっさりうなずいた。


「私が城にいたころ、小さかったフロランはよく服を汚していたんだ。……会った回数は多くなかったけれど、会うたびに、とはまではいかなくても、まあ、ね」


 あのフロランが、とローゼはなんだか意地悪い気分になる。


「私も着ているものが汚れたことは何度もあったんだよ。だからローゼと会った時も――」

「はい終わりっ。その話終わりっ」


 しかし次の瞬間、意地悪い気分は恥ずかしさにとって代わられた。


 つまり彼としては、元々フロランで慣れていたのでまったく気にしなかったと言いたいのだろうが、はっきりと口に出して欲しいものではない。


 しかし真っ赤になってうつむくローゼに、青年はさらなる追い打ちをかけてきた。


「もしかして、着ていたものを洗われたというのも、抵抗があったのかな」

「当たり前でしょっ。ああああ、やっぱりあの時洗ったんだっ。あたしの家まで取りに行ったのかと思ったけど、それにしてはおかしいことが多いと思ってたのよっ」


 わたわたとするローゼを見て笑みをこぼした青年は、壁に背を預けて上を見る。


「……そうか、嫌なものなのか」

「普通は嫌でしょっ」


 ローゼが睨みつける。

 青年は目線を落としてローゼを見ると、首をかしげた。


「洗われるのが嫌だと思ったことはないよ」

「えー……」

「城でも大神殿でも洗濯の係はいたからね。他の人に洗ってもらうのは普通のことだったな」


 確かに、ローゼが儀式の前に滞在していたころ、洗濯物は係が洗うから出せとは言われていた。

 しかし服はともかく下着はどうにも抵抗があったローゼは、洗い場の場所を聞き、係の人の邪魔にならないよう、時間をずらしてこっそり自分で洗いに行っていたのだ。


 この城に来てからは部屋から出ることができないため、仕方なく全て一緒に預けているが、本来なら自分で洗いに行きたい気持ちでいっぱいだった。

 

「……じゃあ、村にいたときはどうしてたの?」

「村にいたときは自分で洗っていたよ。大神殿でも、各種の係はいないと聞いていたから一通り習ったし。……でもローゼの話とは結びつかなかった」


 そう言って笑う彼を見て、ローゼはローゼで分かったことがある。


「……そっか。みんながアーヴィンのこと素敵だって言う理由の中に、神秘的っていうのがあったんだけど、多分違うわ。神秘的じゃなくて、どっかずれてるっていうのが正しいのよ」


 こんな大きな城で貴族として暮らしてきた後に行った先が大神殿なのだから、確かに村の男性たちとは立ち居振る舞いや考え方が違うだろう。

 アーヴィンが村で人気だったのはもちろん顔が良いというのも大きいだろうが、神官という特殊な立場に加え、独特の雰囲気が加味されているのも間違いない。


 今度はローゼが納得していると、逆に彼の笑みには苦いものが混ざる。


「そんなに違うかな」

「結構違うと思うわ」

「……城でもよく言われたよ」

「あらそう。じゃあ良かったわ」


 立ち上がったローゼは少し悩み、今までいた正面から彼の横へと移動して座る。近くなった距離に気恥ずかしさを覚えるが、ずっと会えなかったんだからこのくらいは良いだろうと自分に言い訳をすることにした。


「……もしあなたが城の雰囲気に合ってる人だったら、あたし、自分の見る目のなさにがっかりするところだったもの」


「そうかな」

「そうよ」


 そのまま彼は何か考えているようだったので、ローゼも黙って座っていた。

 静かな部屋の中、やがて彼は穏やかな声で話し出す。


「私が産まれたのは、イリオスの街の中なんだ……もうほとんど覚えていないんだけどね。城に来たのは3歳のころかな」

「うん」

「そのせいもあってか、子どものころはよく、変な考え方をすると言われていたんだ」

「……そっか」


「だから、グラス村に行けたことは良かった。村や町の人たちがどんな風に日々暮らしているのかが分かったし、昔、自分が考えていたことを少し思い出せた気がする。それに……」


 ローゼが横を見ると、彼はどう言おうか悩んでいる様子だった。


「……私はね、立場としての力はあっても、個人としては何の力も無いと思っていたんだ。……だけどそうじゃなかった。私個人にも、できたことはあったんだ」


 彼はローゼに顔を向ける。その表情は、声と同じように穏やかだった。


「会えてよかった。守らせてくれてありがとう、ローゼ」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、この先、変なことを言ったら怒るからね」


 膝立ちへと体勢を変えたローゼは、青年の顔を両手で挟み込む。

 座っている彼は、ローゼを少し見上げる格好になった。


「さっきも言ったけど、あたしがここへ来たのはあなたを犠牲にさせないため。あなただけじゃなくて、他の人もだけどね。……だから、これからだって、あなたにはできることが色々あるのよ」


 ローゼが言うと、彼は何も答えず、ただ曖昧な笑みを返した。

 確かにローゼの話をすぐに信じろと言っても無理な話だろう。


 それに、とローゼは思う。


 フロランの態度からも気付いていたが、どうやら彼らにとって公爵というのは絶対的で、いるだけで恐怖を感じさせる存在でもあるらしい。

 この青年がローゼの言うことを現実的だと思えない理由の中には、公爵が立ちはだかるだろうという考えがあるようにも思える。


 ローゼは強く請け合った。


「あたしは絶対、あなたを助けるわ。……信じて待ってて」


 彼は少しの間瞳を伏せる。やがてローゼと視線を合わせ、わずかに微笑んだ。


「……ありがとう」


 今はこの返事で十分だと思いながら、ローゼも笑みを返した。

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― 新着の感想 ―
[一言] アーヴィンさんは、それが恥ずかしいことだとは思ってなかったから、ローゼさんが自分を避けている原因とは思い至らなかったんですね。ふたりともびっくり!
[良い点] アーヴィンは出会い頭のローゼの粗相に気づいていたけど、フロランのこともあって気にしていなかったのですね。 そこはフロランの過去にホッコリしました。 銀狼の毛も渡せて、良かった!
[一言] ここですか!実はローゼのお漏らしを知っていたと言うのは! 成る程〜納得です。 それにまた少し二人の距離が近くなった気がする。 公爵との対峙ももう少しなんだろうか? 頑張れローゼ!アーヴィン…
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