余話:エリオット 5
結局神官になるまでの8年間、エリオットは大神殿に居続け、姿を消すことはなかった。
見習いの間は、もしいなくなるなら神官になってからにしようと思っていた。
だとすれば無事に神官となり、しかも何の役も任じられていない今が最後の機会だが、それでもエリオットは未だ大神殿にいる。役割が決まってしまえば、いなくなってしまうわけにはいかないというのに。
それもこれも、北で過ごしてきた『自分』が、役目があるではないかと叫び続け、公爵家を捨てることをどうしても許さないせいだ。結局「神官になってから逃げよう」などというのはただの先延ばしの言い訳にしかすぎないことは、自分でもとうに気がついていた。単に気持ちの折り合いがつかないだけなのだ。
そんな日々を過ごしているときに、ハイドルフ大神官から呼び出され、重い気持ちを抱えてエリオットは彼の執務室へと足を運ぶ。てっきり煮え切らない態度に対して何か言われるのだろうと思っていたのだが、ハイドルフ大神官は机の上にある資料を示すと意外な話を始めた。
「こちらの村では半年ほど神官が不在のままになっております。しかし現状、行ける神官がおりません。もしよろしければ、短期間でも構わないので行っていただけると助かるのですが」
エリオットは耳を疑った。
「ハイドルフ大神官様……しかし、私は……」
「大丈夫ですよ。一時的なものという話でしたら、神官になりたての人物が派遣された例は今までにもあります。よろしければ書庫へ行って、先人の記録を読んでみてはいかがでしょう」
神官は本来、どこかの神殿で数年の経験を積んでのちに一人立ちすることとなっている。見習いが終わってすぐにひとつの神殿を任されることはありえない。
「いえ、そういうことではなくて……」
家のことや、名前まで変更したというのに結局逃げることができない自分のことなどが頭をよぎり、エリオットはどう言ったら良いのか分からず口ごもる。
「現在も、赴任可能な神官を探しています。あなたに行ってもらうのは長くても3か月だけ、それ以上の無理は言いません」
しかし、話し続けるハイドルフ大神官は、新人神官を相手にしているという姿勢以外を見せることがない。
「不安なのは分かります。ですが、行ったからこそ見えることもあるでしょうし、できることだって分かるかもしれませんよ」
その言葉にエリオットは目を見開く。ハイドルフ大神官は、穏やかな笑みを浮かべた。
「大神殿からは1か月ごとに、神官が決まったかどうかの連絡を入れると約束します。思うことがあれば、それより前にあなたの方から連絡していただいても構いません。――いかがでしょう、お願いできませんか?」
確かに自分は庶民の生活が良く分からない。小さい頃に母と街中で暮らしていたが、もうほとんど覚えていないのだ。
今後、庶民の中に紛れるとするのなら、人々の生活を見ることができる良い機会になるだろう。
――それに3か月程度なら、公爵家からも目こぼしがもらえるかもしれない。
帰ろうと急かす気持ちへの言い訳をしながら、エリオットはハイドルフ大神官の目を見て答える。
「お受けいたします」
答えながら、村の暮らしを見ることにより、自分の中で何か変わるものがあるのではないかと、少し期待もしていた。
* * *
資料を抱えて寮の部屋へ戻ると、神殿騎士見習いの鎧から神殿騎士の鎧へと着替え終わっていたジェラルドが自慢げな視線を寄こしてきた。
「おい、見てくれ。やっと届いたんだ! どうだ? 格好いいだろ?」
「そうですね、見た目だけは一人前です」
お前な、とやや脱力した声を出しつつも、ジェラルドはエリオットが抱える資料に興味を引かれたようだ。
「なんだその紙の束は。それがハイドルフ大神官様の用事か?」
「ええ。この後に行く村の資料です」
「この後に行く村?」
ジェラルドは眉をひそめる。
「……お前もしかして……なんというか、本当にその村へ『行く』のか?」
「行きますよ」
見習いの寮はふたり用だ。
外から入ってすぐの部屋は共同の居間となっており、そこから左右の扉の向こうがそれぞれの個室となっている。
居間の真ん中には椅子が2脚と、大き目の机があったが、机にも椅子にもジェラルドが脱ぎ散らかした服や見習いの鎧が乗っていた。
それらを容赦なく床に落とし、エリオットは持ってきた紙の束を机に置く。
「おいっ、何しやがる!」
「机や椅子に置く必要はないでしょう? 邪魔です」
自室にも机はあるが、居間の机の方が広い。
床に落ちたものを拾い集めるジェラルドの文句を聞きながら、エリオットは資料を机の上に広げた。
(グラス村……場所は、国の最も西……前任の神官はミシェラ・セルザム、半年ほど前に怪我をして解任か……)
そのまま村の図面や産物などの資料も次々と読みふける。
やがてミシェラが持参した日誌の一部を読んでいるうち、目の前にカップが置かれた。
「熱心だな。ほれ、茶でも飲んで休憩しろや」
顔を上げれば、ジェラルドはとうに鎧を脱いで普段着になっている。
そればかりか、部屋に戻ってきたのは昼過ぎだったというのに、外から室内に差し込む日差しは茜色になりつつあった。
「ああ……」
エリオットは礼を言ってカップに口をつける。
ジェラルドは自分のカップを持って向かいの椅子に腰かけると、手近な資料をぺらりとめくった。
「おーおー。こりゃまたド田舎だな」
「国の外れですからね」
「……ふーん。で? もう一度聞くけど、お前、本当に行くのか」
探るような目つきでジェラルドは問いかけてくる。
5年ほど前、エリオットの部屋に入って勝手にリュシーの手紙を読んで以降、彼はしつこく話を聞きだそうとしたので、辟易したエリオットはある程度のことは話してしまっていた。
「行きますよ」
しかし正直に言えば、なぜ話してしまったのか、エリオットは未だに自分の気持ちが良く分からなかった。別に事情を話す必要はなかったというのに。
「この村に行ける神官がいないのだそうです。次の神官が見つかるまで、短期間でもいいから行ってくれないかと頼まれました」
「そうか……まあ、お前がいいんならいいけどさ」
心配そうなジェラルドにエリオットは内心苦笑する。
――本当に人が好い。
なるべく人を遠ざけていたエリオットにとって、同室だったこの神殿騎士は唯一できた人間の友だった。
「ハイドルフ大神官様には色々とお世話になりましたからね。最後にご恩返しくらいしても構わないでしょう」
飲み干したカップを置き、エリオットは再度資料を手に取る。
「でもお前、あんまり人と関わってこなかっただろ? 村は人間関係がめんどくさいぜ? 神官様なんて務まるのかよ」
「なんとかなるでしょう。どうせ短い間しかいないんですから」
「へーへー。その辺の覚悟もあるならいっか。……茶、もう一杯飲むか?」
「いただきます」
うし、と笑ってジェラルドは立ち上がる。
背後の台で準備する音とともに、自慢げな声が聞こえた。
「俺さー、茶を淹れるのはちょっと自信あるんだぜー?」
確かに、この大柄な男は行動は雑でやることは大雑把だったが、意外にも茶を淹れる能力だけは高いと、エリオットはずっと思っていた。
「従妹が美味しいですわーっつって、俺に淹れ方を聞きに来るくらいなんだ」
「それはそれは。誰しもひとつくらいは取柄があるものですね」
「お前は皮肉しか言えないのかよ」
聞こえたため息に口の端だけで笑い、エリオットは資料に目を落とす。ややあって、背後から真面目な声が聞こえた。
「……なあ。俺は大神殿にいるから、助けが必要なことがあれば連絡しろよ。できる限りのことは手伝ってやるからさ」
まったくどこまで人が好いのだろうと思いつつ、エリオットは皮肉を交えずに答える。
「そのときはお願いします」
「おう!」
「……今まで言いませんでしたが、あなたがいれるお茶は実家で飲んだものより美味しいですよ」
「そうだろう?」
嬉しそうな声とともに、目の前に湯気の立つカップが置かれた。
* * *
シャルトス家からは昨年、馬が送られてきていた。
本来ならば、これに乗って戻ってこいという意味だったのだろう。
しかしエリオットは送られた葦毛の若い牡馬に乗り、北ではなく西へと進路を取った。
地図を確認しながら街道を通り、予定通りの日付で村へ到着出来そうなことに安堵しながら馬を進める。
昼には目的のグラス村が遠方に見えてきたので、緊張をほぐすために深く呼吸をして自分を落ち着かせていると、ふと目の端に入ったものがある。
気のせいかと思いながら視線を向けたエリオットは、驚愕のあまり息をするのを忘れるかと思った。
グラス村の北側にある森の中に、見覚えのある光があったのだ。
しばし呆然とした後、信じられない思いのまま馬から降りる。
早くなる鼓動を抑えながら森に入り、王都にいる間は口にしなかった言葉を8年ぶりに発した。
それを聞きつけたのだろう。わあ、という声と共に、近くにいた精霊がふよふよと寄って来る。エリオットは思わず手を差し出した。
『ニンゲンガ セイレイノ コトバ シャベッテル!』
驚きと喜びの混じった声で笑いながら、精霊は楽しそうにエリオットの手の上でぽこぽこと跳ねた。
胸の奥からこみあげてくるものがあって、ああ、とため息をつきながらエリオットは泣きそうな思いにかられる。
北にいた精霊たちもこんな風に陽気だった。
こっちにも仲間がいる、と言う精霊に案内されて、森の奥へと進む。葦毛の馬は不満そうだったが、少し我慢して欲しいと首をなでてなだめた。
小さな精霊に案内された森の奥には、確かに何体もの精霊たちがいた。
北方に比べれば、明らかに数は少ない。しかし北方以外の地域でこれだけの精霊を見ることができるなど、エリオットは想像もしていなかった。
馬を木に繋ぎ、精霊たちに声をかける。人と会話できることを喜ぶ彼らに案内されて森を巡りながら、エリオットは古の大精霊のことを思い出していた。
北の土地以外にもまだ精霊が残っているのだと彼女が知れば、いったいどういう反応をするだろうか。
その時ふと、幸せを見つけることができますように、と言った大精霊の声を思い出して視界がにじむ。
……結局、幸せが何かは良く分からなかったし、今後見つかるとも思えない。せめて今からでも大精霊のため北方へ戻ろうかという気になったが、自分のために戻ったと知れば、彼女は逆に悲しむのではないかとも思えた。
急に立ち止まってうつむいたエリオットを、周囲の精霊たちが心配そうに覗き込んで「どうしたの」と声をかけてくる。
なんでもないよ、と首を振り、エリオットは北への想いを押し込め、彼らに今までどのように暮らしてきたのか尋ねる。嬉しそうに話をする精霊たちも、エリオットが精霊の言葉を話せる理由を知りたがった。
時間を忘れて彼らと話をしているうち、ふと周囲を見回したエリオットは、朝の気配が立ち込めていることに気が付いて青くなる。
村へ到着する予定は昨日ではなかったか。
慌てて精霊たちに再来を約束して馬の綱を取った。
森から出るために急ぎ足で道に向かって進んでいると小屋が見えた。確か来るときにも見た覚えがある。
どうやら方向は間違っていないらしいと安堵しながら小屋の裏手へ出て、そのまま側面から表側へ回った時、すぐそばでかすかな声が聞こえる。
思わず声の方へ目をやると、印象的な赤い髪をした10歳くらいの少女が、赤い色の瞳でエリオットを見ながら地面にへたり込んでいた。




