余話:エリオット 3
身を清めたエリオットが部屋を訪ねると、祖父のラディエイルは何も言わず、忌まわしげにエリオットを一瞥する。あの場で言うだけは言ったものの、元々話を聞くつもりはなかったのだろう。
確かにいつものエリオットなら、その瞳に震えあがって何も話せなくなる。しかし、この日は違った。挨拶をし、会ってもらった礼を述べるのもそこそこに、母がどこへ連れていかれたのかと今後どうするのかを尋ね続ける。
公爵は眉をひそめた。
考えが外れた上、同じような言葉を言い連ねる孫に辟易したのだろう。
彼はエリオットの言葉を遮る。
「話はそれだけか。いずれもお前には関係ないことだ」
鬱陶しそうにそれだけを言ったラディエイルは、話は終わりだとばかりに側近に視線を送る。側近は一礼するとエリオットに向き直った。後は側近が退出を促すだけだ。この一連の流れに、いつもならば面会が終わることを悟って安堵するのだが、今日のエリオットは逆に青ざめた。
公爵からは、一度しか会うことを許されていない。もしここで退出してしまえば、母のことを訴える機会は二度と来ない。
何か公爵の気を引くことを言わなくては、と必死になって考える。
自分にできることなら何でもするのに、と思ったエリオットは、その考えを祖父に訴えることにした。
「お願いします、どうか母上を助けてください。その代わり、僕ができることは何でもやります。どんなことでもやります!」
エリオットの懇願を耳にした祖父は、豪奢な部屋の中にある重そうな執務机の向こうでふと何かを思いついたように見えた。
退出を言いかける側近を止め、机の上で軽く手を握る。
彼の様子に希望を見出したエリオットは、もう一度口を開いた。
「お願いします、公爵閣下。母上を助けていただければ、代わりに僕が何でも言うことを聞きます」
「……何でもか」
祖父の声にエリオットは必死になって答える。
「はい! 何でもします!」
「将来のお前は無残な死を遂げるかもしれんが、それでもか」
無残な死、というのは6歳のエリオットには良く分からなかった。
ただ、先ほど見た父の姿が浮かぶ。あのような状態だろうか?
父は大層苦しんだように見えた。そのことを考えると背筋が凍りつき、同時に嫌な臭いが思い出されて腹からせりあがるものがある。それをぐっと飲み込み、連れて行かれる母を見た時の無念な気持ちを思い出した。
――あんな思いはもうたくさんだ。
エリオットはラディエイルの目を見て言う。
「やります。だからお願いします。母上と、……弟か、妹も、助けてください」
「ふむ。では、私は何も手を出さないと約束しよう。その代わり、お前はいずれ役に立て。――これで良いか?」
「はい! もちろんです! ありがとうございます!」
ラディエイルは口の端に笑みを上らせる。
「良かろう。……ならば、やるべきことは追って指示する」
初めて祖父の笑った顔を見たエリオットは顔を輝かせ、もう一度礼を言って深く頭を下げた。
これで、やっと母を、そして産まれてくるであろう弟か妹を、守ることができた。と、思った。
* * *
父がいなくなって後、エリオットは部屋を移った。2階にあることは変わらないが、場所は一番端になり、今までとは比べ物にならないほどの小さな部屋だ。これまで使っていた部屋は弟のフロランのものになるのだという。
だが、もともと部屋は大きすぎると思っていたのだから、小さくなってもエリオットは特に何とも思わなかった。
部屋が変わってもエリオットは相変わらず勉学を続ける日々だったが、その中でも、楽しみにしていた精霊術の時間だけはなくなってしまった。
以前よりもっとそっけない態度になった術士たちに聞いてみれば、ジュストはもうイリオスの北方神殿にはおらず、元いた町に還されたという。ジュストがいなくなったからエリオットに誰も教えてくれないのか、エリオットに教える必要がないからジュストが戻されたのかは分からない。
いずれにせよ、別れの挨拶もないまま師と別れたことは悲しかった。
加えて、大精霊に会える回数は以前よりもずっと少なくなっていたことも、寂しさに拍車をかけている。
大精霊が起きている時間は短い。その短い時間は今後、フロランと会うために使うのだと祖父の側近から聞いていた。そのため今は、古の大精霊がエリオットに会いたいと望まなければ、彼女と話をすることもできない。
それでも小さい精霊たちなら城にもいる。北方神殿に行けなくなったエリオットの楽しみは、以前母が暮らしていた部屋の近くにある小さな庭で、精霊たちと話をすることだけになった。
ある日祖父から連絡が来て、もう少し大きくなったらしばらくこの地を離れることになるのだと聞かされる。悲しいことばかりだ思ったが、それが母を助ける条件として引き受けた『役目』のひとつということらしい。ならばとエリオットは素直にうなずいた。
そして7歳になったころ、妹が産まれたという連絡が来た。
しかし、妹には会えなかった。
9歳になったころ、祖父から手紙が届いた。『役目』の一環として、10歳なればエリオットは王都の大神殿へ行くことになる、という内容だった。
『神官となった暁には領地へ戻り、大精霊が消えた後、公爵となって最期を遂げるように。これがお前の役目だ』
手紙を読んだエリオットは青ざめ、震える。
ウォルス教は精霊たちとは相容れぬもの、敵視するべきものなのだと聞いていた。なのに自分はそんなウォルス教の神官にならなくてはいけない。もし神官となれば、この地の人々は、精霊は、そして古の大精霊は自分のことをどのように思うのだろうか。
その時ふと、以前祖父の言った『無残な死』という言葉が頭をよぎって、エリオットは思わず目を閉じる。
――そういうことか。
「いずれ公爵となることは決定事項なのだから、学ぶことだけは続けるようにと、公爵閣下よりお言葉がございました」
「はい。時期が来るまで、精一杯学ばせて頂きます。お心遣いに感謝いたしますと公爵閣下へお伝えください」
それでもエリオットは青い顔のまま、手紙を持ってきた祖父の側近へと頭を下げた。
エリオットが犠牲になることで、母と妹の生が約束されたのだから構わない。
……例えあれから一目たりとも会ったことがないのだとしても、自分が祖父の言いなりになっている以上、ふたりはどこかで暮らしているに違いないとエリオットは思っていた。――思おうとしていた。
祖父の側近が挨拶をして立ち去るのを再度頭を下げて見送った後、エリオットは窓の外をぼんやり眺める。
北方の冬は長く厳しい。外はすでに雪に覆われている。
この雪が解け、また次に雪が降る。その雪が解けたら、次にはもう自分の居場所は王都になるのだ。
エリオットは重い息を吐き、ふと思いついて机へと戻って引き出しを開けた。
引き出しの中には手紙を書くための紙と、何通もの封書が入っている。封書の差出人は全て、マリエラ・クラレス。エリオットの婚約者だ。
1歳年下のマリエラへは婚約を解消するための連絡を何度も送っているのだが、頑として首を縦に振らないらしい。
本来、エリオットとマリエラの婚約はクロードが決めたことだ。マリエラの父、クラレス伯爵も実は乗り気ではなかったと聞いている。こんな自分と婚約を続けていても良いことはない。そもそも会ったのはほんの数回だというのになぜマリエラは婚約を解消しないのだろうと、エリオットは不思議で仕方がなかった。
しかし今回はさすがに、婚約を解消してくれなければ困る。
もちろん祖父から聞いた話の詳細を書くことはできないが、それでもエリオットは今まで以上の熱意を込めてマリエラに手紙を書き始めた。
父はもういない。そしてエリオットには未来がないことが決定したのだから、マリエラはエリオットの『お嫁さん』になってはいけないのだ。