20.求める
まさか聖剣を見失うなど思ってもみなかった。
しゃがみ込んだまま、どうしよう、とローゼの思考は空回りする。
その時、思うように動けなくて苛立ったらしい食人鬼が、近くの木から枝を折り取って振りかぶるのが見えた。ローゼは慌てて立ち上がり、走り出す。今までいた場所に鈍い音を立てて枝が落ちた。
その様子を見てローゼはぞっとする。投擲までするなら、近くへ寄らなくても危険だ。
とにかく聖剣を探さなくてはいけない。魔物の位置と方向から考え、左手で投げたのならこちらの方だろうと見当をつけ、レオンの名を呼びながら辺りを探す。
しかしいくら耳をすましても、食人鬼の足音くらいしか聞こえない。
足音に紛れてレオンの声が聞こえなかったらどうしよう、と不安に思いつつも声を限りに呼び続ける。
どうやら食人鬼はローゼの声を追って来ているらしい。
足音はまったく離れる様子がなかった。
一度撒いてしまおうかとも考えるが、思い返して首を振る。
食人鬼は重い。おそらく地面に足跡が残るだろう。遠回りになるかもしれないが、足跡をたどれば最初に戦闘した場所まで確実に戻れるはずだ。ならば間を空けてついて来てもらった方がいいかもしれない。
「レオン! 返事をして!」
あまりに反応がないので、ローゼの中には悪い考えばかりが広がっていく。
もしかすると方向が違うのではないかと範囲を広げて探しているうち、前方からは今まで聞こえなかった水音まで聞こえてきた。近くに小川でもあるのだろう。
川を渡るのは後にしようと決め、先へ進まずに方向を変えた時、何か木の上で光った気がして、ローゼは進みながら上を見た。
そのとき、踏み出した右足の裏がずぶずぶとめりこむ嫌な感触をとらえる。
まずい、と思ったときには、足首まで埋まってしまった。
慌てて周囲を見れば、枯れ葉で見づらくなっているものの、確かに地面の色がおかしい。ぬかるみだ。
うっかり踏み入ってしまったことにローゼは歯噛みする。
幸いにも沈んだのは右足だけだったので、後ろの地面へ座り込み、手も使って慎重に泥から引き出そうとする。しかし意外と泥の粘度が高くてなかなか抜け出すことができない。
魔物の足音がどんどん近づいてきているのが気になるため、焦っているのもうまくいかない原因に違いない。
それでもなんとか抜け出すことに成功し、逃げなければ、と後ろを向くと、よだれまみれの食人鬼と目が合った。その瞬間、魔物は怒りか喜びか分からない咆哮を上げる。
思わず身をすくませてしまったローゼに向かい、食人鬼は小さな木をなぎ倒しながら今までより速度を上げて迫ってきた。
立ち上がって逃げようとしたのだが、今度は足に力が入らず膝をつく。
どうやら泥にはまったときか、抜け出すときに痛めたようだ。
こんな時に、と唇を噛みながら左足を軸にして立ち上がり、ようやく逃げられる体勢が整ったとき、魔物は目の前だった。
ローゼはそれでも逃げようとしたのだが、魔物の方が早い。もう駄目か、と思ったが。
――キィィン
左手首から甲高い音が聞こえたかと思うと、急に時間の動きがゆっくりになった気がした。
ふわりと何かに包まれる感覚と共に、体を引かれたように思う。
抗わず動くと、今まで自分がいた場所を食人鬼が通り過ぎていく姿が見える。
気が付くとローゼは、ぬかるみにはまる魔物の姿を、斜め後ろから茫然と眺めていた。
思わずあたりを見回すが、周囲には何も変化が見られない。今のできごとは全て気のせいだったのだろうか。
しかし間違いなく、目の前では動けなくなった魔物が苛立ちの声をあげている。どうやらぬかるみは思ったよりも深いものだったようで、魔物はすでに膝まで沈んでいた。
とにかく、助かったことだけは間違いない。
ほっとしたローゼが右足の痛みに顔をしかめつつ再び聖剣を探そうとしたとき、左腕に違和感を覚える。視線を移せば、銀の鎖が見えない何かに引っ張られていた。
もしかしてとの思いから、引かれるまま進んでみる。
やがてかすかにレオンの声が聞こえてきたので、ローゼは思わず声を上げる。
「レオン! どこ!?」
【ローゼか! こっちだ!】
レオンの声がする方へ移動すると、確かに地面の上に落ちている聖剣が見えた。
ローゼとレオンが同時に安堵の声を上げる。しかしすぐに、緊張した声でレオンが問いかけてきた。
【食人鬼はどうした】
「今はぬかるみに足を取られてる。動けないみたいだから、しばらくは大丈夫じゃないかな」
【そうか、それなら良かった……しかしひどい格好だな】
「ちょっとね、あたしもぬかるみにはまっちゃって」
言いながら聖剣を拾い上げようとしたところで、レオンが待ったをかけた。
【魔物の心配がないなら、まずは薬を使え】
意外なことを言われたと思ったのだが、改めて見下ろしてローゼは驚く。
右腕の色が変色しており、出血している部分もあった。どうやら緊張で痛みを感じなかったようだが、最初に攻撃された傷は意外と大きかったようだ。
傷を認識した途端に急に痛みが襲ってきたので、顔をしかめながら泥だらけの手で薬を取り出した。自分では傷の具合が見えないので、レオンの指示に従って、魔物から直接攻撃を受けた部分を中心に薬を使っていく。
【残りの薬の量で顔の傷が治ればいいんだが】
「顔?」
聖剣の刀身に顔をうつしてみると、右の頬に大きめの傷ができていた。魔物の爪が当たったのかもしれない。
最後に使った薬で血は止まったのだが、完全には治らなかった。神殿へ行くまでこのまま放置するしかないだろう。
【あのクソ食人鬼め、俺の娘の顔に傷をつけやがって……ただじゃおかん】
「残念だけど、きっと攻撃は届かないよ」
魔物の位置はレオンが感知できる範囲だったので、彼の案内に従って移動する。見れば、ぬかるみにはまった魔物は尻の辺りまで沈んでいた。
ローゼはなんとか攻撃ができないかと周囲を回ってみたのだが、残念ながらぬかるみは思ったより広範囲で足場もない。聖剣が届くとは到底思えなかった。
ううう、とローゼはうめく。
「結局あたしは役立たずじゃないの。大口たたいた割になんか格好悪いなあ」
【まあ、そう言うな。魔物が動けなくなったんだから、精霊たちも倒しやすくなってるはずだ】
慰めるようなレオンの声に落胆のため息をつき、ローゼは仕方なく泥だらけの足と手を洗うために水音がした方へ向かう。
あったのは、やはり小川だった。ローゼの2歩分くらいしかない幅の狭い川だが、十分な量の澄んだ水が流れている。触るととても冷たいので、もしかすると雪解け水なのかもしれない。
文句を言うレオンの上に落ち葉をかぶせ、泥や血を洗い流す間の暇潰しにローゼは今回の戦闘の話をレオンに聞かせた。
「……それでね、魔物が突っ込んできて危ないところだったんだけど、どうやらこの腕飾りが守ってくれたみたいなの」
水の冷たさに声を震わせながら話し終え、着ていた服で乱雑に体を拭く。
血で汚れた上に破れてしまったから、この服はもう着られないだろう。困ったことに、大神殿から持ってきた旅装はあと1着になってしまった。
「あたしの方はそんな感じ。レオンは?」
ローゼが話を向けると、落ち葉の下からレオンの声がする。
【お前が攻撃されて、俺を落としただろ? で、魔物に投げられたんだ】
「ああ、やっぱり」
【仕方がないから、落ちた場所の近くで会った精霊に、お前を見つけてくれるよう頼んでな】
「うん」
【あとは、ずっとその場にいたぞ】
「そっか。それで?」
促すが、聞こえるのは水の音ばかりだ。
首を傾げるローゼの耳に、ほんの小さな声が聞こえた。
【……お前が来た】
「……そう……」
つまり、ずっと同じ場所にいたようだ。
動くことのできないレオンなのだから、仕方のないことだろう。
セラータのところへ戻らないと着るものがないので、仕方なくローゼは今体を拭いたばかりの湿った服を着る。冷たい服にぼやきながらも最後に魔物の様子を確認すると、すでに腰のあたりまで埋まっていた。
レオンが心配ないと請け合うので、その場を離れて魔物の足跡をたどれば、目論み通り最初に戦闘した場所までついたのでローゼは安堵の息を吐いた。
「セラータもちゃんといる。良かったー」
【しかしお前、随分うろうろしたんだな】
確かに魔物の足跡は、無駄にぐるぐると距離だけはあった。
「しょうがないでしょ。それもこれもレオンがいなくなるのが悪い」
【何を言ってるんだ。お前が取り落としたのが悪いんだろうが。そもそも、最初の攻撃のとき……】
レオンが叱責をはじめたので、しまった、とローゼは内心でうんざりする。彼の小言はとても長いのだ。
結局この日のレオンは、ローゼがセラータの荷から服を出し、木の陰で着替え、湿った服をくるんで荷物に入れ、探した瘴穴を消し、森を出発し、夕方にイリオスへ到着後、食事をとり、宿を見つけ、部屋でのんびりし、早々に寝台に入っても、まだ叱責や改善点を言い足りない様子だった。