19.見失う
ローゼはセラータを歩かせながら、なんとなく左右に注意を払っている。
今ごろはラザレスとコーデリアも南の方向へ進んでいるだろう。ここからだと神殿のある町までは3日ほどかかる。薬を使い切ってしまったのだと言うコーデリアには、ローゼの手持ちを2本渡してあった。
他の地域のように各町に神殿があるなら良かったのだが、北方では薬の入手が容易ではない。手持ちがまったくないのと、わずかでもあるのとでは、やはり気持ちが全然違うだろう。
昨日聞いた話によれば、コーデリアとラザレスは馬牧場へ行くための道を進んでいた際、偶然にも森の中の幽鬼に出くわしたそうだ。
空を見上げればもう昼も近いというのに、朝に町を出て以降、道の左右にはずっと森が続いている。
町に大精霊の守りがある以上は、北方で瘴穴が開いているとすれば森の中に違いない。そして幽鬼が出てきた瘴穴がまだ残っているのなら、ほかの魔物がいるかもしれなかった。
「ねえ、レオン。瘴穴はまだあると思う?」
【さてな。精霊が対処してるとは思うが】
「精霊は瘴穴を消せるの?」
【いや。ただ、瘴気や魔物が出ないように……なんというか、力を使って抑え込むみたいだ】
ローゼは首をかしげる。
よくわからないが、水が噴き出す穴に板をのせて、一時的にフタをするようなものだろうか。
【抑え込んでる間に瘴穴が消えればよし、逆に精霊たちの力が負けるようなら、瘴気も魔物も出てくるかもしれないな】
「そっか」
よく分からないなりにローゼはうなずく。レオンもローゼが分かっていないことは気付いているだろうが、特に何も言わなかった。
そのまま道をすすめるが、瘴穴があるとレオンは言わないし、魔物の姿もない。
日が天頂から傾くあたりで遠くに目的地であるイリオスの城壁が見え、道中何事もなかったことにほっとする。しかしその時、森の奥から嫌な気配がしたように思えてローゼは首を巡らせた。
目には何も映らない。
しかしピリピリとした感覚はある。
イリオスへ向けて北へと進むセラータを止め、森の切れ目に見つけた小道を東へと進ませた。そのうち、かすかな咆哮が聞こえた気がする。
「レオン。なんか聞こえなかった?」
【……そうか? 俺にはわからなかった。……お前の気のせいじゃないのか】
いつもとは違う雰囲気のレオンを訝しく思いながらもローゼはセラータを止め、降りて森の中を確認しようとする。しかし気乗りしない様子でレオンが尋ねてきた。
【行くのか】
「なに? 行っちゃ駄目なの?」
【……いや】
レオンが小さく返事をした後、森の中に精霊たちの姿が見えるようになる。ローゼは眉をひそめた。レオンが視界を貸してくれるということは、魔物がいるということだ。
近頃のレオンは瘴穴の有無に関わらず、戦闘の際には見ているものを見せてくれる。瘴穴が近くにあるかどうかなどを自分で判断して気をつけろということらしい。
もちろんローゼが魔物に気付かなければ教えてくれる。しかし逆に、ローゼが気付いているにも関わらず知らないふりをしようとするのは初めてだった。
森の奥に目を凝らせば、人よりも大きな魔物の姿がある。以前アレン大神官の妙な呼び出しを受けた際にフェリシアやジェラルドと一緒に倒した魔物、食人鬼だ。
先ほど聞こえたのは、食人鬼の声なのだろう。
ローゼは声を上げた。
「やっぱりいるじゃない! なんで気のせいなんて言うのよ!」
ローゼはセラータを手近な木に繋ぎ、魔物の方へ向かって急ごうとする。
その時、レオンがもう一度問いかけてきた。
【行くのか?】
「当り前でしょう、だって魔物が――」
【聞け、ローゼ。この先はもうイリオスだ。神殿のある町に行くためには戻る必要があるし、おまけに3日もかかる】
ローゼは、思わず足を止めて聖剣を見た。
【薬は買ってあるだろうが、相手は食人鬼だ。以前、3人がかりでも苦戦した敵だぞ。昨日ガキどもに薬を2本渡したな。お前の薬は残り何本だ?】
「……6本……」
確か以前、魔物との戦闘に慣れているはずのジェラルドでさえ、食人鬼との戦闘では5本の薬を使っていた。
小鬼程度にも苦戦するローゼが、1人で対峙できるだろうか。
ためらいを見せるローゼに、レオンが諭すようにして語り掛けてくる。
【やめておけ、ローゼ。……今まで魔物に遭わなかった理由を知っているか?】
ローゼは首を横に振る。
【魔物が出れば精霊が対処してきたんだ。この地のことは精霊が守っている。心配しなくていい、精霊たちに任せろ。な?】
レオンの声は不安に満ちていた。行かないでくれ、と言外に告げている。
彼の言葉を聞いてローゼは迷い、森の奥を見た。
食人鬼の周囲にはたくさんの光、精霊たちの姿が見える。
魔物の動きは緩慢だった。唸り声からするに、いら立っている様子がうかがえる。おそらく一部の精霊が動きを鈍らせ、その隙に他の精霊たちが攻撃しているのだろう。
「ねえ、レオン。精霊は魔物から攻撃を受けても平気なの?」
ローゼが尋ねると、レオンは答えたくなさそうだった。促すと、とても嫌そうに低い声で答える。
【……平気ではないな。ある程度攻撃を受ければ消滅する】
そう、とローゼは呟く。
同時に自嘲の笑みを上らせた。
(あたし、何を迷ってるの?)
年下の子たちが強い魔物に果敢に立ち向かったというのに、年上の自分が怖気づくとはなんと情けないことだろう。
彼らとの経験の差は確かにある、しかし、それを言うのなら武器の差はどうか。
それに、出自はすでに関係ない。
今、自分が所持しているのは、魔物を倒す役目を負った聖剣なのだ。
ローゼの表情を見たレオンがため息をつく。
【お前、俺の話を聞いてたか。ここは他とは違うんだ】
「うん、分かってる」
【もう一度言う。相手は食人鬼だぞ。お前の実力を考えろ。それでも行くのか】
「行く。……なーに、レオンたら、らしくないわね」
そこでふと、昨日草原で話した内容を思い出す。
「もしかして、あたしが死んだあとの話なんてしたから怖くなっちゃったの?」
【……馬鹿言え】
言葉はいつも通りだが、声に覇気はなかった。
ローゼは笑う。
「大丈夫よ。あたしが死ぬのなんてまだずーっと先だから。それまではレオンがうんざりするくらい振り回してあげるから覚悟してなさいよね」
レオンは何も言わなかった。
そのことを確認して、ローゼは森の奥へと向かう。
実際のところローゼは申し訳ない気分でいっぱいだった。
本来ならレオンだって戦っている精霊たちは心配だろうし、何より己の身は聖剣だ。魔物を倒すことを至上としているのだから、誰よりも戦闘の場へ向かいたいだろう。
しかしそれ以上に、ローゼの身を案じているのだ。
小鬼程度ならレオンは察知した段階で行けと言っただろう。だがどう考えても、食人鬼相手では分が悪すぎる。ローゼの力が通用するとは思えない。
それでも、とローゼは思った。
魔物を倒すのは聖剣を手にした者のつとめなのだから、と考え、小さく首を振ると苦笑する。
それだけではない。
もちろん魔物を倒すべきだという考えは嘘ではない。しかし今、食人鬼へ向かっている理由の中には、とても個人的なことが含まれているのを知っている。
(精霊が減ったら、きっと悲しむでしょうねぇ。レオンも、……あの人もさ)
聖剣を振るうことが少しでも精霊を守れる助けになればいいなと思いながらローゼは走った。
食人鬼は最初に見た位置からほとんど動いていない。精霊たちがたくさん取り付いているので、魔物はまるで輝いているように見える。
ローゼはどこを攻撃しようか考え、以前のように足へ向けて聖剣を振りかぶる。
この魔物は大きい。ローゼの目線は食人鬼の腹の部分になる。しかも足を攻撃するために視線が下げられていたので、ローゼはレオンの声がするまで気が付かなかった。
【上!】
顔を上げれば、食人鬼が左腕をローゼに向かって振り下ろそうとしているところだった。後方へ下がって避けようとしたところへ、食人鬼の腕がうなりをあげる。
精霊たちが取り付いて、速度を緩めた上で軌道をそらしてくれたようだが、それでもローゼの右腕に食人鬼の攻撃は当たってしまった。さらに魔物はローゼを蹴り上げようとする。これはなんとか躱したのだが、巻き上げられた石や枝が体のあちこちにぶつかった。
思わず顔を腕でかばい、体勢を立て直そうと一度下がる。振り返ると追ってくる食人鬼の姿はあったが、その周囲には先ほどまで見えていたはずの精霊の姿がまったくいない。
何故だろうと考え、はっとして両手を見る。
ローゼは聖剣を持っていなかった。右腕がうまく動かないのは先ほど当たった食人鬼の攻撃のせいだろう。きっとその影響で聖剣を落としてしまったのだ。
「レオン!」
叫んでみるが、返事はなかった。
攻撃を受けた場所はさほど遠くない。聖剣があるのならば、声は聞こえる距離なのに。
食人鬼は大きい分、力は強くても動きは遅かった。しかも精霊が取り付いている今はさらに遅くなっている。
ローゼは木の間を回り込み、先ほどまで食人鬼がいた場所まで戻って周囲を探した。しかし聖剣は見当たらない。かがみこんでみると、地面の一部に草や苔がなくなっている。えぐれて土がむき出しになった場所には隙間があり、まるで指で何かを握った跡のようだ。
嫌な予感がして食人鬼に目を戻すと、魔物の左手は少し崩れていた。
どうやらこの魔物は聖剣が危険だと本能的に察したらしく、多少の損傷は覚悟のうえでどこかへ投げてしまったに違いない。左手がおかしいのは、聖剣を握ったせいだろう。
ローゼは自分の顔から血の気が引くのを感じた。