余話:エリオット 2
※残酷・グロテスクと思われる描写があります。
苦手な方はご注意ください。
イリオスの北方神殿には10人以上の術士がいる。しかし、余所の血が入っているエリオットのことを彼らは遠巻きにしているので、精霊術を教えてくれるのは、同じく余所の血が入っているジュスト・ブレイルしかいない。
この日もエリオットは北方神殿の一室でジュストと向かい合い、手の中の小さな銀の塊を見つめながら精霊に語りかけていた。
最近はずっと精霊銀の作り方を教えてもらっている。
本来ならこの作業は精霊のことをもっと理解してから始めるのだが、エリオットがどうしてもと頼み込んでやり方を教えてもらっているのだ。
いつもは難しくてなかなか成功しないのだが、今日は順調に精霊の力を銀に籠められている気がする。手ごたえを感じてエリオットは気分が高揚していた。
「ああ、そこはもう少し丁寧になさった方が……」
しかしジュストが言うのとほぼ同時に、軽い破裂音がして銀は粉々になってしまった。
手の中に残る銀色の粉を見て、エリオットはため息をつく。
「また駄目でした……」
「精霊銀を作るのは、難しいのですよ。私も最初の頃は、何度も失敗しましたからなぁ」
ジュストは慰めてくれるが、エリオットの気持ちは晴れない。
落胆しながら手にしたものを近くの箱に入れた。
精霊の力を銀に籠めて作る精霊銀は、守りの力を持つ。母にお守りとして渡したいのに全くうまくいかず、エリオットは自分に嫌気がさしていた。
そんな気持ちを察している精霊たちが、元気を出して、と声をかけてくる。
精霊を手のひらに乗せて弾ませながら窓の外を見ると、銀色の花が風に揺らめいている姿が見えた。
古の大精霊は、前回会って以来ずっと目を覚まさない。
母から聞いた嬉しい話をしたいのに、今日も無理みたいだと、エリオットは肩を落とす。
――精霊銀ができあがるか、大精霊に会えるか。どちらかでも叶えば晴れ晴れとした気持ちで城に戻れるのに。
「さあ、もう一度やってみますかなぁ」
優しく笑うジュストが、棚から別の銀を取り出す。
うなずいて椅子に座った時、にわかに外が騒がしくなった。
「何かあったのですかな」
言いながらジュストが眉をひそめた時、室外から乱暴に扉が開かれる。
部屋に入ってきたのは兵士たちだ。彼らは父であるクロードの正妃に付いていたと記憶している。
「エリオット様。急ぎ城へと戻っていただきます」
彼らは険しい目つきでエリオットを見ると、腕をつかみ、まるで罪人を牽きたてるようにして室外へ連れ出した。
後ろからジュストの止める声がするが、彼は術士や北方神殿の衛兵たちに阻まれているようで声は遠くなる。
エリオットは何が起きたのか全く分からない。
城へ戻る際中、取り囲む兵士たちに何度も問いかけるが、彼らからの返答はなく、ただ冷たい視線が戻るのみだった。
黙ったままの兵士に連れられ、城についたエリオットが向かわされたのは3階だ。
3階には父や祖父の部屋がある。父と話すため、エリオットも最近ではよく足を向けていた。
しかし馴染みのある部屋へ近づくにつれ、泣き叫んでいる女性の声が聞こえてくる。聞き覚えのある声はシーラのもののような気がした。
(母上!?)
同時に、胸が悪くなる臭いが漂って来て、思わずせりあがってくるものがある。息を止めてなんとか抑え込み、ハンカチを出して口元を押さえた。
泣き声と嫌な臭いの元と思われるのは、どうやら父の部屋のようだ。
思わずしり込みをするが、それを許さない兵に押されて前のめりになりながら入口へ着く。
開いていた扉からは中の様子が見え、エリオットは慄然とした。
父の部屋にはあちこちには嘔吐の跡があり、誰かがひどく吐いたのだろうということが分かる。
汚れた床にはひとりの男性が倒れて仰向けになっている。そして、その体に取りすがって人目もはばからず半狂乱で泣き叫んでいる女性がいた。
周囲には兵士たちが顔をしかめながら立っており、何人かは耐え切れないのかしゃがみこんでいる。
そんな中で、美しい衣装を着たひとりの女性が、周囲の汚れた様子など気にも留めず、心底満足した様子で倒れた男性と泣く女性とを眺めていた。
そこまで確認したところで、ついに我慢しきれず、身をかがめるとエリオットは入口で吐いた。
これはなんだろう、という言葉が頭の中でぐるぐるとする。吐き続けながら苦しくて涙目になっていると、部屋の中から高い笑い声が聞こえた。
「あら。実の息子にすら気持ち悪がられるなんて、可哀想なクロード様」
その言葉に荒く呼吸をしながら口元をぬぐい、もう一度部屋を確認すれば、泣き叫んでいる女性はやはり母のシーラだった。そして倒れている男性は、服や背格好だけを見るなら確かに父のクロードだ。
しかしエリオットは目に映ったものが信じられず、よろよろと立ち上がって近くへ寄る。
男性の近くの床も汚れがひどかったが、エリオットにそんなことを気にしている余裕はない。男性の顔を見つつ茫然としながら膝をついた。
(父上? これが?)
倒れた男性は白目をむき、苦悶の表情をうかべ、あえぐように口を大きく開いていた。しかし呼吸している様子はない。
顔も髪も服も吐き戻したものでひどく汚れている上に、服の胸元は破れ、かきむしったらしい皮膚からは血が出ていた。
(そんなはずはない。父上はだって、もっと……)
倒れている男性の顔には「私はこの土地で一番人気があったんだぞ」と、自慢げな笑みを浮かべていた端麗な父を思い出させるものがどこにもなかった。
のろのろと視線を移せば、そんな父の横で美しい顔をほころばせていたはずの母は、倒れた男性にとりすがり、誰のものか分からない汚れや涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら意味のない言葉をただひたすらに叫んでいる。
それらの様子を見ながらエリオットは頭の中で何度も、これはなんだろう、という言葉を繰り返す。
状況が理解できず、汚れた床に膝をついたままでぼんやりしていると、急に母が倒れこむ。どうしたのかと見あげてみれば、立ったままの女性――父の正妃が、笑顔で母を蹴り飛ばしていた。
「薄汚い余所者、お前がクロード様を殺したのよ?」
高い靴底で蹴られたためか、母は頭から血を流しながらも、違います、と叫んで起き上がろうとする。
しかし正妃は、起き上がることを許さないように、さらに靴底で蹴りつけた。
途端に、エリオットのぼんやりしていた頭が晴れる。
例え何をして良いか分からなくても、母を助ける必要があることだけは分かった。
「やめてください! 母上に乱暴しないで!」
目を見開いたエリオットは正妃を止めるために立ち上がったが、周囲の兵士たちに腕をつかまれ、動けなくなる。
その間も高笑いをした正妃はシーラを何度も蹴りつけ、踏みつけた。シーラの体に靴底が刺さり、血が流れる。
「お前さえいなければ、クロード様は生きていても良かったのよ」
正妃は笑いながら踏み続ける。
「お前が余計な子どもを産んだから、クロード様は死ぬことになったの。ね? クロード様を殺したのはお前なの」
はじめのうちは悲鳴を上げ続けていた母だが、今はもう腹部をかばうように身を丸くして黙り込んでいる。
「知っていたかしら? クロード様は、お前の子を後継者にしたいのですって。ひどいわね。フロランを産んだ私に、そんなことを仰るなんて」
母を助けたいエリオットは、必死に身をよじって兵士の腕から抜け出ようとするが、さすがに複数の大人の力には抵抗できない。
「フロランは出来損ないのリュシーとは違うわ。ちゃんと一人前で、正妃の子よ。なのに、ねぇ? 本当にひどいでしょう?」
踏むのをやめ、天井を見上げた正妃は耳障りな高い声で笑い始める。
「全部お前のせい。お前が余計な子を産んだせい。クロード様が死んだのはお前のせい!」
正妃はシーラから足を外し、今度はクロードを思い切り踏みつけた。
それを見たらしいシーラが動くのと、兵士の手がゆるんだのを感じたエリオットが思いきり身をよじって自由になるのが同時だった。
エリオットが母へ駆け寄ろうとしたその時、入り口から男性の声がする。
「何をしている」
男の声が聞こえた瞬間、エリオットは部屋に一陣の冷たい風が吹き抜けた気がした。
思わず背筋を伸ばし、声に向かって頭を下げる。
気が付くとエリオットだけでなく、正妃も、兵士も、全員が礼を取り頭を下げている。室内で違う姿勢なのは、横たわる男性と、彼の上に伏してるシーラだけだった。
立ち込めるひどい臭気をものともせず、いつもと同じ酷薄な青の瞳を室内に向けるのは、ラディエイル・シャルトス、エリオットの祖父である現公爵だ。
室内を見たラディエイルは状況を理解したのだろう。
一言、低く呟いた。
「愚かな息子だ」
その声には一片の情もなく、ただ嘲るような響きしかない。頭を下げながらエリオットは、目に涙が浮かんでくるのを抑えきれなかった。
続いて公爵はクロードの正妃を呼ぶ。
「そこの余所者にはまだ死なれるわけにいかない。手を出すな」
はい、と神妙な面持ちで正妃は再度礼を取って頭を下げた。
そのまま公爵は側近の名を呼ぶと、今度は側近が室内の面々や、そしていつの間にか手配されていたらしい掃除の係たちに指図して行く。
エリオットの脳裏には再度、これはなんだろう、という言葉が浮かんだ。
今日の朝にはこんなことになるなどと思ってもみなかった。
いつもと同じように起きて、朝食をとって、北方神殿へ行ったというのに。
なぜ今は、いつもと違う、まるで現実味をおびないことが起きているのだろう。
倒れているのは本当に父だったのだろうか。全然違う、別の人ではなかったか。母も本当は母ではないのかもしれない。いや、そもそも自分は悪い夢を見ていて、まだ目が覚めていないだけなのかもしれなかった。だとすれば早く起きなくては。こんな嫌な夢をいつまでも見ていたくない。
エリオットがぐるぐると考えているうちにクロードの遺体が運び出され、汚れと血で無残な状況になったシーラが周りを兵に囲まれて連れて行かれそうになる。
その瞬間エリオットは頭を上げ、反射的に駆け寄ろうとした。例え夢だろうと、母がひどい目にあわされるのを放置しておくわけにはいかない。
「母上!」
だが、公爵の兵士たちがそれを許さない。エリオットの前に立ちふさがり、後ろからは手をつかまれる。
それでも母を呼び続けると、息子の声を聞いたシーラは一度振り返り、弱い笑みを浮かべる。しかしすぐに兵士たちに連れられ、エリオットの視界から消えてしまった。
絶叫しながら、エリオットはひたすらに身をよじる。
先ほど正妃の兵士たちにつかまれていたよりもっと力が出ているはずなのに、公爵の兵士たちがつかんでいる腕はびくともしない。
渾身の力を振るっているというのに、自分はなんと無力なのだろう。
――こんな自分が。
母と、産まれてくる弟か妹を自分が守ろう、と決めたときのことを思い出す。
――こんな自分が、一体誰を守れるというのか。
母が目の前で痛めつけられていたときも、連れ去られるときも、結局は何もできなかった。
――何もできない。誰も守れない。自分は無力だ。
「公爵閣下!」
エリオットは初めて自分から祖父へ声をかける。
公爵の前では頭を下げ、声をかけられるまでは何も言わぬよう、返事も簡潔に、言い訳などはもってのほか、とさんざん言い含められていたというのに。
そもそも公爵の声はエリオットにとって恐怖と同義だ。
彼がエリオットに何か声をかけるのは叱責と罰の言い渡しをするときのみ、祖父の声を聞かないのはエリオットにとっては幸せなことだった。
しかし今のエリオットは、どうしても公爵から声をもらいたかった。
「公爵閣下、お願いします、どうか、僕の話を聞いてください!」
「お前から聞くことなど何もない」
室内の指示が終わったことを確認した公爵は、エリオットを一瞥すると立ち去ろうとする。いつものエリオットなら祖父の瞳を見ると身をすくめて何も言えなくなるが、今日は違った。
「公爵閣下、公爵閣下、お願いします!」
叫び続けるうるさい子どもを、ラディエイルは立ち止まってもう一度睨む。
しかし今日のエリオットはそれでも、お願いします、叫び続けていた。
その姿を見てさすがに何か思うところがあったのか、それともただの気まぐれか。
「一度だけ会うことを許す。ただし汚い姿のまま私の部屋へ来るな」
言いおいて公爵はその場から立ち去った。