6.噂
北方における他の地域から来た人の旅、という中では、ローゼは格段に楽なはずだ。何しろセラータがいるのだから。
それでもつらいと感じるのだから、北の地でウォルス教の神殿にいるというのはどれだけつらいだろう、とローゼは数少ない神殿に立ち寄るたびに思う。
「それでも来てくださる方がいらっしゃる以上、我々はここにおりますよ」
そう言ったのは、ある町で立ち寄った壮年の男性神官だ。
よろしければ話に付き合って下さい、と言われたローゼは祭壇近くで椅子に座り、同じく椅子に腰かけた神官と話をしているところだった。
「いかに北方とはいえ、他の地域の人がまったくいないわけではありませんから」
「確かに、そうですよね」
今までに見た濃い髪色の人たちを思い出しながらローゼはうなずく。
「神殿に来れば、他の地域から来た人と確実に会うことができますからね。別の町に住んでいる方も時々ここまでお越しになりますよ」
この神官は西の出身だった。彼は国の最西にあるローゼの出身、グラス村の名前を知っていた。
久しぶりにその名を聞いたと喜んでくれる彼に話をしているうち、ひとりの女性が神殿へ入って来た。
かなり高齢なのだろう、腰もすっかり曲がり、杖をついている。
失礼を、と言って立ち上がった神官は彼女に声をかけ、歩くのに手を貸す。
女性の髪は既に真っ白で元の色はうかがえない。しかし神官と親しく話をしている以上、別の地域からこの地へ移り住んできた人なのは間違いないだろう。
老女と話しながら、神官はローゼに目線を移す。
同じように視線を向けて目を丸くした女性が、杖を突きながらも歩調を早めて祭壇の近くへ来たので、ローゼは椅子から立ち上がった。
女性はローゼを見上げる。その目には涙が浮かんでいた。
「先日儀式を終えられたという、聖剣の主様でいらっしゃいますか」
「はい、ローゼ・ファラーと申します」
名乗って頭を下げると、老女は曲がった腰をさらに低くする。
「こんな北までよく、おいでに……」
以降は言葉にならず、彼女は嗚咽を漏らし始めた。
その様子を見たローゼは、北方へ来た理由はとても個人的な内容だったことを思って、少しいたたまれなくなる。
【北だってアストランの領地だ。お前が来ることは何も間違ってない。あの二家が何年も来ないから、自分が代わりに来たんだぞ、とでも思っておけ】
ローゼの心の内を察したように、柔らかい調子でレオンが声をかけて来た。
しばらくして「ごめんなさいねぇ」と呟く女性に首を振り、ローゼは椅子をすすめる。
「こちらにお住まいになっていらっしゃるんですか?」
ローゼの問いかけに老女はうなずく。
「ええ。若いころに北の男性と結婚しまして、それ以降はずっとこちらに住んでおります」
そう答えた後に彼女は、ローゼが旅してきた地域や王都の状況を聞きたがった。
一通り話が終わって会話が切れた辺りで、ローゼはいつもの質問を投げかける。
「北方の神殿にはウォルス教を信仰していたら入れない、ということに関して何かご存知ではないですか?」
現地に住んでいる人ならば知っているのではないかと思ったのだが、今まで尋ねた人や神官は皆一様に首を横に振った。北方の人は口が堅く、他の地域の人間に話さないようにしているらしいとそのたびにローゼは落胆したのだが。
しかし今回、ローゼの問いを聞いた女性はうなずく。
「少しだけですが存じております」
ローゼは思わず目を見開いた。
――初めて知っていると言う人物に会った。
「あ、あのっ、よろしければ理由を教えていただけませんか?」
思わず上ずった声で尋ねたローゼに微笑んで、女性は穏やかに語りだす。
「ええ……話によれば北方神殿……ウォルス教の神殿と区別してそう呼ぶのですが、北方神殿には木が植えられているのです。その木に咲く花が北の町や村を魔物から守っているそうですが……」
木と聞いて神木を思い出したローゼだが、花が咲くということはどうやら違うらしい。
「ウォルス教を信仰する人物は、木に災いをもたらすのだそうです」
「災い……」
「……私が知っているのはここまでで、どのような災いなのかは存じ上げません」
申し訳なさそうにする女性に、ローゼは首を振る。
ここまでの情報をもらえただけでも、本当にありがたい。
しかし、なぜこの女性は話を知っているのだろう。
不思議に思って尋ねてみると、彼女は微笑んで答えた。
「私が住んでしばらくの間は、ウォルス教を信じていても北方神殿へ入れたのですよ」
「そうなんですか!?」
それは本当に意外な話だった。
「そうですね、禁止されたのは……2人目の子どもも産まれていたので、50年ほど前でしょうか。急に、ウォルス教を信仰している人物は北方神殿に入ってはいけないという話になりましてね。見ておけば良かったなと後悔した覚えがあります」
「50年前……」
「そんな昔からの人物は、もうほとんどいなくなってしまいました。ですからこの話を知っている人物もわずかなのでしょうね」
老女は切なく笑う。
彼女にどう答えて良いか分からず、ローゼはただ手を取って頭を下げた。
* * *
神殿を離れて数日の後、ローゼは立ち寄った町の屋台で食事をしていた。
北の食事は独特の味付けのものがあり、そのうちのいくつかをローゼは苦手としている。
最近では料理内容や匂いで嫌いなものは判別できるようになっていたが、今回は香辛料の匂いが強くて買う時には気が付かなかった。
一口かじった途端に失敗したと思ったが、捨てるわけにもいかない。嫌々ながらに少しずつ食べていると、近くにいた男たちの話が耳に入った。
「なあ、公爵様の跡継ぎが変更になった話、知ってるか?」
「跡継ぎ様? 公爵様のお孫様だったろう? それが変わったのか?」
「そうなんだよ。ほら、男の孫はもうひとりいたじゃないか」
ローゼは食事をしていた手を思わず止める。
「もうひとり……まさか余所者混じりの孫の方か?」
侮蔑と嫌悪を含んだ声を聞き、ローゼの口の中に鉄の味が広がる。
「それだ。今までの跡継ぎ様は弟だったが、兄貴に変わったってことらしいぜ」
「ちょっと待て。じゃあ次の公爵様は余所者混じりがなるってことか? 本来の跡継ぎ様は正妃様の息子だし何の問題もないだろ? なんで今になって余所者混じりが出しゃばってくるんだ」
「分からん。たしか20年くらい前もそれでごたごたしたし、その辺の絡みがあるかもしれんな」
「その原因だって元をただせば余所者女のせいだったんだろ? あのときの公爵様の息子様の亡くなり方だって――」
不自然な沈黙が訪れる。
それを払うように別の男が言った。
「まあ、我慢するしかないな。半分は余所者だが、もう半分は公爵家の血だ」
ち、と舌打ちが聞こえた。
「そのことなんだけどよ」
別の男が会話に加わる。
「余所者混じりの孫は、長いこと姿を見せなかっただろ?」
「そういやそうだな。どこにいやがったんだか」
「聞いた話だがな。その間はウォルス教の神官をしていたらしいぜ?」
「なんだと?」
元々会話していた男たちが色めき立つ。
「なんだそれは? 公爵家に産まれたのに神官になんてなったのか?」
「ということは、余所者混じりの上に神官だった男を、公爵様と呼ばなくちゃならねぇってことか?」
「ふざけるな! そんな馬鹿な話があるか!」
「おい、それより木だ! 木はどうなるんだ!?」
声を荒げた男たちに、通りかかった別の男たちが、どうした、と声をかける。
聞いてくれよ、知ってるか、とたちまち周囲はその話でもちきりとなった。
飛び交う怒号の中、ローゼは噛みしめたままだった唇をようやく開く。
鉄の味しかしない食事を無理やり頬張ったローゼはセラータに乗る。
そのまま周囲を見ることもなく、道を駆けさせた。
「危ないだろうが!」という叫び声が聞こえ、レオンがローゼを呼ぶ声も聞こえたが、涙を浮かべて歯を食いしばるローゼには、気を配る余裕も返事をする余裕もない。
頭の中にあったのは、少しでも早くその場から離れたいという思いだけだった。
* * *
「新しい跡継ぎ様は神官だったのよね。信じられない」
「精霊よりもウォルス教を取った人が公爵位につくなんてどういうこと?」
「きっと精霊が嫌いだったに違いない。だからこの地を離れたんだ」
「ウォルス教の人物が公爵様になるなんて、木は大丈夫なのかしら」
「余所者混じりを主と仰ぐくらいなら、いっそ……」
「私の姉は公爵家の侍女だったの。新しい跡継ぎ様は昔、正妃様から……」
「このところ術士たちが、イリオスの北方神殿に集められているらしいな」
「町の守りは大丈夫なんだろうか。魔物が出現したらどうすればいいんだ」
「今の公爵様の治世になってから良くないことが続くな。いったいなんなんだ」
最初に噂を聞いて以降、『余所者混じりの跡継ぎ様』関連の話は頻繁に聞くこととなった。
ある時は宿の中で、ある時は通りかかったの民家の前で、ある時は町の外の旅人から。
内容は聞きたくもない話ばかりだ。
皆一様に彼が余所者混じりであることを非難し、神官であったことを怒り、地の守りを気にして木を憂う。
もちろんその跡継ぎ様が誰のことなのか、ローゼには分かっている。
そして噂話が聞こえてくるたび、レオンは何かと話しかけてくるようになった。
大抵はどうでも良いことだったので、おそらくローゼが話を聞かないようにと配慮のつもりなのだろう。
その気遣いはとても嬉しい。
……結局は、話が耳に入ってしまうのだとしても。
その時も立ち寄った小さな村で井戸の水を汲ませてもらっていると、近くの住人たちの噂話が聞こえてくる。
――どこもこの話で持ちきりだ。
水を汲み終わったローゼはため息をつき、それでも近くの住民に礼を言うと、レオンに小さな声で相槌をうちながら、噂話に背を向けるようにして村を出た。