余話:モーリス
鳥文の一件以降、ずっと騒がしかったモーリス・アレン大神官の周囲はようやく落ち着きを見せていた。
執務室でのんびりと茶を飲みながら休憩をしつつ、モーリスは窓の外に誰もいないことを確認して安堵の息を吐く。こんなにも開放的な気分になったのは久しぶりで、なんとなく鼻歌でも歌いたい気分になってきた。
一時期はあちこちに神官や神殿騎士たちが隠れており、自分のことをニヤニヤとした笑みを浮かべつつ見ていたものだ。モーリスがうっかり筆記具でも落とそうものなら、さざ波のように笑いが広がったので、思わず周囲を睨みつけたこともある。
そもそもモーリスは自分が下の者たちから好かれていないことを知っていた。
しかしそれは彼にとってどうでも良いことだった。
重要なのはあくまで自分の地位、必要なものは立場が上の相手からのコネとツテ、下の者などはのし上がるために何の影響も及ぼさない。
いや、上位の身分を持つ人物の子弟などは役に立つこともあるので、自分より下の役職だろうと丁重に扱うが、結局はそれも戦略の一つだ。
すべては自分の地位のため。そのために人生をかけてきた。
おかげで50代の半ばには大神官の役職を得ることができた。みるところもない下級貴族の出自だったことを考えれば、これは異例の早さだったと言って良い。
このままの勢いで頑張れば、いずれは大神殿長の地位も夢ではないところまで来た。……と思っていた。
それなのに、60になったこの歳、モーリスの前途に暗雲が立ち込める。
理由は分かっている。あの赤い髪の小娘、ローゼ・ファラーだ。
モーリスは彼女の顔を思い浮かべ、思わず奥歯を噛みしめた。
手がぶるぶると震え、持っていた茶がこぼれそうになる。
聖剣の主は大神殿において、大神殿長の下に位置する。国の爵位で言えば伯爵相当の地位が与えられ、モーリスが就いている子爵相当の大神官より上位になる。
アストラン国で聖剣の主と言えば、ブレインフォードとセヴァリーの二家だった。しかしこの家はすでに1000年の重みがある。上の地位であることに何の苛立ちもない。
それなのにただの村娘が、アストラン国における新たな聖剣の主として選ばれた。なんの努力もしていないくせに、幸運だけでモーリスの上位についたのだ。
これは許せないことだった。
自分が今までやってきたことを踏みにじられた気がした。
何とか阻止しようと築いてきたコネを使ってまで根回しをすませたのに、ここでまた邪魔な奴が現れる。
ただの神官にすぎないくせに、妙に生意気なアーヴィン・レスターという男だ。
この男は見習いの時代から、ダスティ・ハイドルフ大神官から目をかけられていた。モーリスにとってはローゼ・ファラーという小娘同様、このグラス村の神官も邪魔だったのだが……。
モーリスは大きく息を吐き、自分を落ち着かせる。
持っていたカップを机に置くと引き出しを開け、一通の手紙を取り出した。
差出人はヴァーレマン・クラレス。シャルトス公爵家の分家の中でも、随一の勢力を持つクラレス伯爵家の当主だ。
おそらくクラレス伯爵が抱き込んだ人物はモーリスだけではないだろう。
しかし手紙に書いてあった馬を真っ先に発見し、アーヴィン・レスターこそがエリオット・シャルトスなのではないかと連絡をしたのはモーリスだ。
エリオット・シャルトス発見の手がかりを与えることで、北とのつながりができたのだから、グラス村へ行ったのは結果的に悪い話ではなかったのかもしれない。
それに、とモーリスはニヤリとする。
アーヴィン・レスターはもういない。彼の庇護下で好き勝手にやっていた小娘は意気消沈して力を失うだろう。そして自分は北の後ろ盾のもと、大神殿の中で勢力を伸ばすことができる。
少しばかり遠回りをしたが、すべてが丸く収まるのだ。
モーリスは晴れ晴れとした気分で手紙をしまう。再度カップを手に取って中身を飲み干し、側近を呼んでもう一杯茶を要求するのだった。