19.旅の行く先
部屋に戻ったローゼは何もする気にならず、ただ寝台に寝転んでぼんやりとしていた。泣いて腫れた瞼が熱い。
(アーヴィンがいなくなるなんて、考えてもみなかった……)
彼はいつもの微笑みを浮かべながら、村に居続けてくれるものだと思っていた。
勝手に都合の良いことしか考えていなかった自分に腹が立つ。
(ううん。それだけじゃ、ない)
ローゼが望んでいたのは村にいてくれることだけではない。
きっと心のどこかで、困った時にはいつだって手を差し伸べてくれるとも思っていたのだ。
村にいたときもずっとそうだった。
聖剣にまつわる一連のこと、そして王宮のことですら、結局は彼に助けてもらっている。
アレン大神官の「いつまでも奴の庇護下にいられると思わない方が良いぞ」という言葉が思い出されて仕方がない。
あの時大口を叩いたくせに、結局ローゼはアーヴィンがいないと駄目なのだろうか。
(なんでだろ……あたし……格好悪い……)
しかしもう、彼はいない。
ローゼもアーヴィンのことは忘れ、ひとりで立たなくてはいけないのだ。
【ローゼ】
「……なに」
そんなことを思っていた時に声をかけられる。
気分が乗らないローゼはぞんざいな返事をするが、レオンは気にする様子もなく話を続けた。
【北へ行かないか】
「なにしに」
【あいつに会いに】
「いい加減にして。どう考えても無理だったでしょ。この話はおしまい。あたしは、ひとりで頑張ることに決めたの」
ローゼは両腕で顔を覆う。
【……それでいいのか】
「なんなのよ、もう!」
起き上がったローゼは、寝台の上に転がした聖剣に向き直る。
決意したばかりの心を揺らさないで欲しかった。
「シャルトス公爵家は神殿や王家も手出しできないのよ。あたしが何かできるわけないじゃない! ジェラルドさんだって、諦めろって――」
【あれか】
そう言ってレオンは鼻で笑う。
【お前は背を向けていたから知らないだろうがな。アーヴィンの奴は最後、神殿騎士に目配せをしていたんだ】
「どういうこと」
【その通りだ。あいつは目配せをして、神殿騎士はうなずいた。目線からするに、お前に関することみたいだったな】
周囲に警戒する騎士たちがいる中で、そんなことをしていたのか。
アーヴィンがそんなことをしたのも意外だが、それを受ける余裕があったジェラルドにも驚いた。
【神殿騎士の態度が妙なのはそれが理由だろう。ローゼを来させるな、という意味にでも受け取ったんじゃないか】
「じゃあ、やっぱり来て欲しくないんじゃない」
最後に会った彼の冷淡な様子が思い出され、ローゼは悄然としてうつむいた。
その様子を見たレオンが呆れたように言う。
【お前な、少しは考えろ。あの場や道中で何かしようとするのは間違いに決まってるだろうが。アーヴィンは公爵家へ戻る必要がある。――屋敷にいた連中を見ただろ? 結構な数だったよな? 馬車の周りを固めていたやつらも含めて、あれは全員がアーヴィンを公爵家へ戻すためだけに王都へ来たんだ】
だから、とレオンは言葉をつぐ。
【あの場でお前は引かなくてはいけなかった。邪魔をすれば周囲の騎士たちに排除される。それが分かっていたから、あいつはお前に対して冷たい態度を取った。……なんだ、分かったと言ったくせに、実は分かってなかったのか。らしくないな】
レオンの言葉を反芻していたローゼだが、やはり顔は上げられない。
「でも、行っても無駄よ。会う方法がない」
【会う方法が見つかれば会いに行くか? あいつが家へ戻ったのは、公爵家か北方の領内で何かあったからだろう。領内へ行って理由が分かれば、何とかなるかもしれん】
レオンは珍しく食い下がってローゼに話し続ける。
【いいか? あの男は、お前に追って来て欲しくない。でも本心では来て欲しいと思ってる。最後まで迷って『来るな』とも『来い』とも言えず、結局黙って逃げたんだ。お前が会いに行けば、のこのこと出てくる、間違いない】
なんで俺があいつの代弁をしないといけないんだ、と文句を言いながらもレオンはさらに続ける。
【面倒なのはあいつだけかと思ったんだが、お前も大概面倒だな。いい加減に頭を働かせろ】
叱咤するような声がするが、やはりローゼは首を縦に振ることができない。
【お前はあいつに会いたくないのか。会って言いたいことはないのか】
――そんなはずはない。
言いたいことはある。
それでもやはりローゼはレオンに何の答えも返すことができない。
気持ちの変化を待っていたのか、レオンは少しの間黙っていた。
それでもローゼの様子が変わらないのを見たのだろう、ため息をついて呟く。
【お前が俺とエルゼみたいになりたいなら、それでもいい】
声に含まれた切なげな響きに気づいたローゼは、なぜレオンがエルゼの話を持ち出したのかが分からずに訝しく思う。
しかし次の瞬間、はっとして思わず聖剣を見た。
(もしかして、あたしって、アーヴィンのことを……?)
そのことは、今まで考えないようにしてきた気がする。
認めてしまえば、彼との関係が崩れてしまいそうで、怖かったのかもしれない。
だが確かに、それ以外にこの気持ちを表現する言葉など、ありはしなかった。
【……さて、どうする?】
促すレオンの声色は、いつも通りだった。
呆然として聖剣を見ていたローゼは、やがて小さく息を吐く。
「……レオンもフェリシアも……なんで、もう……あたし、どうすればいいの……」
【どうしたいのかなんて、お前自身が一番分かってるだろうに。最初から変わってないんだろ?】
レオンの声は優しかった。
しばらくためらって、ローゼは尋ねる。
「……あたしが行くって言ったら、レオンはどうするの?」
【分かり切ったことを聞くな】
ローゼの言葉に前向きな響きを感じ取ったのだろう。レオンは力強く答えた。
【俺はお前のものだ。他に誰も行かなくたって、俺だけはお前と行ってやる】
* * *
ローゼはハイドルフ大神官に取次を求める。もう夜の、しかも遅い時間なので面会は難しいかと思ったが、意外にもすんなりと会ってもらえた。どうやらローゼが来たらすぐに会うつもりだったようだ。
「今回の件については、もう大神官様方の中で処理済なのでしょうか?」
「他の大神官が知っているのはレスター神官がいなくなった話までです。その後に届いた手紙と荷のことを知っているのは私とあなただけですよ、ファラー殿」
ハイドルフ大神官は、ローゼがなにがしかの答えを出すまで、手紙と荷物の件は公表せずに待っていてくれたのだろう。
「では、公表は待っていただけないでしょうか。私が本人に直接話を聞いてきます」
「……彼の事情はご存知ですか」
そのように尋ねてくるということは、ハイドルフ大神官は事情を知っているのだ。
「北にいるということと、それに付随する少しのことくらいは」
ローゼがそう言うと、ハイドルフ大神官は悩むように沈黙する。ややあって彼は口を開いた。
「セルザム神官が怪我をして、グラス村の神官がいなくなった話はもちろんご存知ですね」
「はい」
グラス村の神官だったミシェラ・セルザムが大神殿へと戻ったのはローゼが10歳のころだ。その後アーヴィンが来るまでしばらくかかったので、神官のいない間、村は大変だった。
「あの後、神官になったばかりの彼をグラス村へ向かわせたのは、私です」
「そうだったんですか……」
「そして大神殿へ来てすぐの彼に、別の名をつけてみないかと提案し、名を与えたのも私です」
ローゼは目を見開く。
ハイドルフ大神官は頭を下げた。
「あの地は未だウォルス教を好ましく思ってはおりません。ファラー殿、どうか気をつけてお行き下さい」
顔を上げた大神官に、ローゼはうなずいて見せた。
「明日、出かけます。どんな形になっても、必ずご報告に上がりますから」
請け合うローゼにハイドルフ大神官は、聖剣の主の身分証と、路銀を渡してくれた。
* * *
昨夜のうちに整えておいた荷物を持って、朝の澄んだの空気の中、ローゼは外へ出る。
雨は夜の内にあがっている。道はぬかるんでいるだろうが、もうこの陽気だ。きっとじきに乾くだろう。
腰に佩いたレオンは黒い鞘の方だ。さすがに白い鞘は目立ちすぎる。白い方の鞘は荷物の中に入れてあった。
これを使う機会はきっと来る。そうでなくては困る。
最初に向かったのは、神殿騎士見習いの居住区域だ。
大神殿に来てからこの場所へは一体どれだけ通っただろうか。フェリシアがいなければ、ローゼは何度も窮地に陥っていたはずだ。
そして、昨日のフェリシアの言葉も今なら分かる。あれはローゼの背中を押してくれていたのだ。
扉の前で立ち止まり、持っていた手紙を置こうとしたとき、少しだけ扉が開く。
廊下側に向かって開く扉だったので、ローゼは慌てて後退る。その様子を見て、フェリシアが大きく扉を開けた。
「おはようございます、ローゼ」
昨日とはうってかわって、フェリシアの笑顔は明るい。
「おはよう、フェリシア。良く分かったね」
「きっとローゼが来ると思って、待っていましたの」
そう言ってフェリシアはローゼの姿を確認する。
「行かれますのね」
「うん。行ってくる」
フェリシアは普段着だった。ローゼが着ているような旅装ではない。
「本当はわたくしもご一緒したいですわ。でも今回はお家の問題が関わってきそうですから、わたくしはお留守番しています。今度旅をするときに、またご一緒させてくださいな」
「フェリシア……」
確かに、王女のフェリシアが公爵家に顔を出せば厄介なことになる可能性がある。個人的な訪問で王家は関係ないのだと言っても、向こうがそう思わない可能性もあった。
「お兄様にはわたくしから言っておきます。大丈夫、きっと分かって下さいますわ」
そう言ってフェリシアは少し悩んだ様子を見せるが、ローゼの顔を見ると思い切ったように口を開いた。
「現在のシャルトス公爵は、アーヴィン様のお祖父様に当たる方です」
フェリシアは彼のことをエリオットとは呼ばず、話を続けた。
「30年ほど前までは、公爵ご自身も何度か王宮にいらしていたそうですの。身分の上下やご自身の体面などを気になさる方だったと聞いています」
そう言ってフェリシアは両手に乗るくらいの袋を取り出し、ローゼに渡してくれる。
中を見ると、いつもの焼き菓子が入っていた。
「これはわたくしからのお餞別です……近くでお助けできないのがとても悔しいですわ」
フェリシアは本当に悔しそうに呟くと、ローゼの瞳をまっすぐに見た。
「わたくしのこと、忘れては嫌ですわよ?」
「忘れるわけないよ。お土産買ってくるからね。いつもありがとう、フェリシア」
明るく言ってローゼが手を振ると、にっこりと笑って、フェリシアも手を振る。
「お気をつけて。旅のご無事と、計画の成功を心からお祈りしています。……どうか、無事に戻ってらして。そしてお話を聞かせてくださいませね」
* * *
馬屋からセラータを出して騎乗したローゼは、大神殿の門をくぐり、大通りを抜け、王都の北門を出る。
門を出たところで馬を止め、来た方を振り返る。
東の丘の上に、日を受けて白く輝く大神殿が見えた。
ローゼは頭を下げて心の中で詫びる。
(ごめんなさい。少しだけ、時間をください)
北へ行って戻ってきたら、以降は必ず役目を果たす。
――だから。
行く方へ目を転じる。
北には連なった険しい山並みがあるはずだが、目を凝らしても王都からはまだ見えない。
少しの間、遠くを見つめていたローゼの前髪を、風がふわりと巻き上げる。そのまま視線を移すと、見上げた空は青く晴れ渡っていた。
「よし、それじゃ行こうか、レオン」
【おう。北だな】
「うん」
遠いのは分かっている。たとえ到着しても、目的の人物に会う方法はまだ分からない。
それでもまずは、北へ向けて進むのだ。