余話:ミシェラ
ミシェラ・セルザムは日誌を書く手を止め、机の前にある窓から外を見上げる。
大神殿ならば夜遅くまで仕事をしている神官や不寝番たちもいる。しかしここ、田舎のグラス村では皆とっくに休んでおり、周りは静寂に包まれていた。
――ついに明日なのね。
赤い髪の娘のことを思い出してミシェラは微笑む。
ローゼ・ファラーという少女は、村の子どもたちの中でも少し変わっていた。
ときおり突拍子もないことをやりだしたり、意外なことに興味を持ったりする。聡いこともあるが、逆に妙なところで鈍かったりと、なかなかつかみどころがない娘だった。ミシェラは密かに「この子は村という枠に収まらせず、もっと広い世界を見せた方がためになるのではないか」と思っていたのだ。
そんな彼女こそが、明日の主役だ。果たしてこの夜をどんな気持ちで過ごしているのだろう。
彼女と、そして……。
そこまで考えてミシェラは少しため息をついた。
彼はきちんと王都へ向かっただろうか。
いや、あの様子からすれば、向かったのは確かだ。ただし到着してもローゼには会わないかもしれない。こっそり儀式に参加して、さっさと帰ってくるのではないか、という予感すらしていた。
――それでは意味がないのよ。
せっかく儀式に参列する権利を譲ったのだから、ローゼに会ってきて欲しい。そうでなくては困るのだ。
* * *
ミシェラが怪我をしてグラス村を離れたのは7年近く前だったが、その頃と景色はほとんど変わっていないように思えた。なんだか故郷へ戻ってきたような気分になり、思わず馬車の上で涙ぐんでしまう。なにせミシェラは30年以上この村にいたのだ。
突然戻って来た彼女を見た村人たちは驚き、そして大いに喜んでくれた。人が人を呼び、噂を聞きつけた人もどんどん集まる。神殿に到着するころには大勢の人に囲まれて、馬車はまったく進めなくなってしまっていた。
「みんなに会えて本当に嬉しいわ。でも少し待っててちょうだいね、私には先にしなくてはいけないことがあるの。それが終わったらゆっくりお話しましょう」
そう言って一度村人たちと別れ、神殿に入る。
神官補佐に聞いた通りに書庫へ入ると、人の気配に振り返ったグラス村の神官は、驚きのあまり書物を取り落としそうになっていた。
「セルザム神官? 大神殿におられるはずでは……一体どうなさったのです?」
「たったいまグラス村に着いたところよ。ごめんなさいね、足のせいで馬に乗れないから馬車だったの。思ったより時間がかかって遅くなってしまったわ。さ、早く準備をしてちょうだい」
準備? と訝しげな表情を浮かべるアーヴィン・レスターの手から、ミシェラは書物を取り上げる。
「これは後で私がやっておくから。ほら、早く。時間がないわ」
「お待ちください、何の準備ですか?」
「決まっているでしょう」
片手に書を抱え、片手でアーヴィンの背を押しながら、ミシェラは答えた。
「あなたは大神殿へ行くのよ」
最後に彼に会ったのは王都の大神殿だ。6年ほど前のことになる。
グラス村へ赴任が決まったいうことで、前任の自分に挨拶に来てくれたのだ。
魔物との戦いで大怪我を負ったミシェラに代わって、グラス村へ赴任する神官が必要だったのだが、間の悪いことにちょうど良い神官が見つからなかった。
そのためグラス村では、神官のいない日々が続くことになってしまったのだ。
神官は信仰や神聖術に関わることはもちろん、薬に関してのことや、日常の悩み事相談といったことまで幅広く頼りにされる。経験豊富なミシェラがいなくなったことは、グラス村にとって大いなる痛手になっているはずだった。
怪我したことを後悔し、村人にすまない思いでいっぱいだったミシェラの元へ、新しい神官が決まったと連絡が来たのは大神殿へ戻ってから数か月後のこと。
挨拶に訪れたのが、神官になったばかりだという18歳のアーヴィンだった。
本来ならば神官になって後、数年は他の神官の下で経験を積み、その後に改めて任地が決定される。
しかしどうにもグラスへ派遣できる人がいなかったので、苦肉の策として、彼が神官になると同時に行くことになったのだと聞いた。
ミシェラとしては不安だったが、どうやら彼は立派な神官に成長しているようだ。感慨深く思うが、今はそれどころではない。
自分が遅くなってしまった分、少しでも早く王都へ急いでほしいのに、アーヴィンは説明を求めるばかりでなかなか動こうとしなかった。
仕方なくミシェラは、話をするために応接室で彼と向かい合う。
物の配置はミシェラがいたころと変わっておらず、懐かしくて思わず見渡したくなるが、しかしそれも話の後だ。
「大神殿でローゼに会ったの」
「ローゼに」
赤い髪の娘を思い浮かべたのか、アーヴィンは微笑む。
「彼女は元気にしていましたか」
「ええ、元気よ」
問題はいくつかあるが、いらぬ心配をさせるものではないだろうと思い、ミシェラはその一言に留めておく。
「来月、儀式があるのは、あなたも知っているわよね?」
大神殿の行事をはじめ、大きな出来事は鳥を介しての文書で神殿へ連絡される。
もちろんローゼが主役となる儀式のことも、各神殿へは告知済みだ。
「儀式にはあなたが出るのよ。今から村を発てば、なんとか間に合うと思うわ。留守中の業務は私が引き受けるから、早く準備をして大神殿に向かってちょうだい」
アーヴィンはミシェラの言葉がうまく飲み込めなかったらしい。
いや、飲み込めないというより、信じられなかったのだろう。しばらく怪訝そうにしていたが、やがて理解したらしく表情が驚きに変わった。
「……セルザム神官、それは……でもなぜ……」
「あの子はあなたが行った方が嬉しいんじゃないかと思うのよ。あなたも儀式に出たいでしょう?」
ミシェラがそう言うと、アーヴィンはとても複雑な表情を浮かべる。行きたいが行くわけにいかない、とでも言いたげだ。しばらく葛藤していたようだが、やがて口を開いた。
「ローゼはあなたのことをとても慕っていました。儀式にいらっしゃらないと分かれば、がっかりするでしょう」
「そうだと嬉しいわね、でもそれ以上に、あなたが行った方が喜ぶのは間違いないことよ」
大神殿で再会を喜んでくれたローゼの姿を思い出す。小さかった娘は成長して立派になっていた。大役を受けた彼女のことをミシェラも誇らしく思ったものだ。
そして話をしているうちに分かった。
新しく聖剣の主となった彼女は、自分の晴れ姿を一番見て欲しい人物が故郷の村にいるらしいのだ。
「私は行けません。お気持ちには言葉も無いほど感謝いたしますが……」
しかしその人物は、ミシェラの提案になかなか首を縦に振らない。
しばらく押し問答を続けるが事態は変わらず、ミシェラはじりじりしてくる。さらに言い募ろうとする若い神官を押しとどめて言った。
「分かった。あなた実は行きたくないし、ローゼに会いたくもないのね」
「まさか!」
思わず口に出してしまったらしいアーヴィンに、ミシェラは笑ってうなずく。
「だったら早く支度をしなさい。引継ぎのことは気にしなくて良いわ、神官補佐たちに聞くから」
ミシェラの瞳を少しの間見つめ返していたアーヴィンは、やがて決心したかのように立ち上がる。一度動き出すと行動は早かった。
礼の言葉もそこそこに身をひるがえすと、応接室から自室へ行く。わずかな間をおいて、実は荷物をまとめてあったのではないかと思うほどの速度で飛び出してきた。
そのまま庭へ向かった彼を追ってみれば、馬屋から出した馬に馬具を装着しているところだった。
「ハイドルフ大神官に今回の話を伝えてあるわ。あの方が良いように計らってくれるはずだから、大神殿に到着したら指示を仰ぎなさい」
「分かりました。ありがとうございます」
一礼すると、アーヴィンは馬に乗って駆け去る。
その後ろ姿を見送りながらミシェラは笑みを浮かべ、大神殿で暗い瞳をしていた少年の変わりようを、心から嬉しく思うのだった。
* * *
さて、と呟いてミシェラは日誌を閉じる。
考え事をしていたので遅くなってしまった。そろそろ休まなくてはいけない。
何しろ明日は重要な日なのだ。儀式の出席こそ譲ったが、ミシェラには村の神官としての大事な役目がある。
夜が明ければ大神殿では儀式が行われる。それと同時に各神殿は、新しい聖剣の主が誕生するという告知を民に向けて出すのだ。
グラス村の人々が驚くさまを思い浮かべるだけで、ミシェラはなんだか子どものようにわくわくしてくる。
――ローゼのことは残念だけど、みんなと一緒に喜べるのはきっと楽しいに決まっているもの。
私はやっぱりこの村のことが好きなのよ、と思いながらミシェラは微笑んだ。
足のことがあるので、神殿を取り仕切る主神官になるのは難しい。しかし補佐的な役割りを担う副神官にならなれるかもしれない。
――最期をむかえるときは、大神殿よりもこの村がいいわ。
今回の一時的な赴任が終わって戻ったら上の方へかけあってみようと思いつつ、ミシェラは机の明かりを消した。