3.予兆 【挿絵あり】
神殿には立派な書庫があり、たくさんの書物がある。
もちろん神殿にあるのだから、これらの本はすべて神官のためのものだ。学術的なものや知識系の本が多く、やたらに内容が難しいものもあるし、娯楽系の本は無い。
しかし申し出さえすれば誰でも借りることができたので、ローゼはよく書庫へ足を運んでいた。
神話系の話は面白いし、簡単なものなら学術系の話だって興味はある。そしてなぜか精霊に関する本も増えてきていたので、最近のローゼはこの辺りを中心に借りることが多い。
昨日も本を借りに書庫へ行ったのだが、神殿を出た辺りでアーヴィンと出会った。
青で縁取りをされた白い衣――神官服を着たアーヴィンは、ローゼを見ると穏やかな笑みを浮かべる。
「おはよう、ローゼ。もしかして私を待っていたのかな」
朝の光に彼の褐色の髪が美しく透かされ、さらさらと風に舞う。神殿の関係者は髪を伸ばす決まりになっているので、アーヴィンの髪も胸元まであった。
こうしてみると、端麗な顔立ちの彼は確かにみんなが騒ぐだけのことはあるかも、と思いながらローゼは笑みを見せる。
「違うわ。あたしは本を借りに来ただけ。アーヴィンに用があったわけじゃないの」
グラス村の神殿にいる神官はアーヴィンひとりだけだ。
他に神官補佐と呼ばれる人物はいるが、彼らはあくまで補佐をするだけ、基本は雑用係なので、薬の販売などはできても専門的なことは分からない。
そのため、神官にしか頼めない用事で神殿に来たのに運悪くアーヴィンが外出していた時は、彼が戻るまで待つしかなかった。
「今は誰も待ってないから、心配しなくても平気よ」
「そうか、ありがとう」
礼を言うアーヴィンに手を振ってローゼは門へ向かったのだが、背後からアーヴィンが呼び止める。
「ローゼ」
振り向くと、今まで普段通りだったはずのアーヴィンは一転して難しい顔をしている。そのまま何かを言おうとしたようだが、すぐ思い返したように口をつぐみ、考えるように灰青色の瞳を伏せた。
――この態度はなんだろう。
見たことのない様子を不審に思ったローゼが問うよりも早く、アーヴィンは顔を上げる。その様子は、たった今見せていた姿が嘘だったかのようにいつも通りだった。
「……ローゼは本が好きだね。この村で一番本を読んでいるのは、きっとローゼだろうな」
「あー、うん。そうかも。……ねえ、アーヴィン。あの――」
「呼び止めて悪かったね。気を付けて帰るんだよ」
おそらく彼は問いかけて欲しくないのだろう。ローゼが何か言おうとしていることは分かっているはずなのに、一方的に言い切ってさっさと神殿の方へ去って行く。
「……なによ。自分で呼び止めたくせに。変なの」
釈然としないものを抱えつつ、アーヴィンの背中に小さな声で文句を言ってローゼも神殿を後にした。
* * *
どう考えても昨日の態度に関係がある、とローゼは小さくうなる。
内容はおそらく面倒なことなのだろう。きっと前もって、しかも直接言ったのではローゼが逃げると考えたアーヴィンは、わざわざディアナを通して呼び出したに違いない。ここで逃げてしまえばディアナにも責が及ぶ。大事な友人に対し、迷惑をかけるわけにはいかなかった。
それにしても、こんな回りくどい手を使うような話とは何だろう、と首をひねっていると、ディアナが呆れたような口調で問いかけてくる。
「また何かやったんでしょ。今度は何?」
「それが、何も思い浮かばないのよ。何だろうね。……って待ってよ、またって何。今度はってどういうこと?」
「だってあんた、呼び出されて叱られること多いもの。そもそも今の神官様が初めて村にいらした時だって、会わないように半年くらい逃げ回ってたでしょ? あれを忘れた人は誰もいないわよ」
「えー……」
ローゼは顔をしかめる。
もう6年も前なのだし、みんな忘れていると思っていた。
「……結局あれは何が原因だったのよ」
「な、なんでもいいでしょ。もう終わったことよ」
目をそらしたローゼを笑った後、ディアナはローゼの背を思い切り押す。
「まあいいわ。とにかく、神官様にお会いして叱られてきなさいな。みんなには私が適当に言っておくから!」
押されてよろけたローゼに手を振ると、ディアナは扉の向こうに消える。ローゼはため息をつき、仕方なく神殿へと向かった。
グラス村の集会所は、実は神殿に併設された建物だ。
そのため建物の角を曲がれば、神殿の門まではすぐだった。
短い距離を歩きながら、アーヴィンの用が何なのかをローゼは考える。
しかしまったく思い当らないまま神殿に到着して門を抜けた途端、ローゼは息が止まるかと思った。
てっきり神殿の中にいるのだと思っていたアーヴィンが表にいるのだが、彼の着ている物はいつもと違ってとても美しかった。
地の色は鮮やかな青だ。滑らかな生地は光に当たると強く弱く輝き、さらにふわりと風に揺れるたびに様々な美しい青色を描き出す。きっと布地自体に光沢があるのだろう。
そして前面、胸元から足元までは、金の糸を使って豪華な刺繍が施されていた。
「アーヴィン、その衣装どうしたの!」
素晴らしい衣装を見て舞い上がったローゼが叫ぶと、うつむいていたアーヴィンは顔を上げる。
「すごいわ、こんな布地見たことがない。なんて綺麗な――」
「ローゼ」
アーヴィンの固い声が聞こえ、衣装だけを見ていたローゼは視線を移す。見上げた彼の顔色は良くなかった。
「……どうしたの? 何があったの?」
「実は、ローゼに会いたいというお客様がいらしてるんだ」
「あたしに? お客様? いったい誰?」
ローゼは村から出たことがほとんどない。他から訪ねてくるような客に心当たりなどは全くなかった。それなのにアーヴィンは「いらした」と言うのだから、きっと客というのは偉い人物なのだろう。だとすれば、ますます心当たりなどはない。
何が起きているのか不安になるローゼの瞳を見ながら、アーヴィンは告げる。
「いらしてるのはね、大神官様だよ」
「……は?」
あまりに意外で言われた言葉が理解できず、ローゼはしばし呆然とした。
この大陸には5つの国があるが、基本的に宗教は1つしかない。光の10柱と呼ばれる神々を信仰の対象としたこの宗教は、主神の名をとってウォルス教と呼ばれている。
大神官は、そんなウォルス教の神官たちを束ねる役目を負っていた。しかも各国にそれぞれ5人だけしかいない人物だと聞いたことがある。
「……え、嘘でしょ? 大神官様って、王都の大神殿にしかいないって……そんな偉い人がなんであたしなんかに……そもそも、どうしてあたしのことを知ってるの?」
混乱しながら尋ねるが、アーヴィンは困ったような笑みを浮かべて答える。
「申し訳ないけど、私からは言えないんだ。お会いした時に大神官様が教えて下さるはずだよ」
「そんな……」
ローゼはうつむき、服を握る。
大神官など、ただの村娘であるローゼにしてみれば雲の上の人物だ。そんな人物とどのように会えば良いのか分からない。受け答えだって、きちんとできる自信はなかった。
(しかも、着てるものはただの普段着よ? こんな格好で偉い人の前に出るなんて考えられない)
唇を噛んだローゼは顔を上げる。アーヴィンの灰青の瞳を見て言い切った。
「嫌。絶対会わない」
ローゼの言葉を聞き、彼は小さく笑う。
「そう言うと思ったよ」
アーヴィンの言葉にむっとしたローゼは、会いたくない理由をひたすら並べ立てる。
しかしローゼがどれだけ言葉を尽くして断っても、アーヴィンは頑として大神官が来た理由を答えないし、会ってくれという姿勢も崩さない。業を煮やしたローゼが帰るそぶりを見せると、アーヴィンは回り込んで門を閉めてしまった。その上でなだめすかしてくる。
態度から察するに、彼は大神官がこの村まで来た理由を知っている。しかしどうやら言うつもりがないらしい。
ローゼはため息をついた。
(これは『何か』あるわ……)
おそらくアーヴィンが頑強なまでに何も言わないのは、口止めされているからだろう。しかしきっとそれだけではない。
ローゼは今までつき合う中で、彼が権力のようなものを嫌っているのではないかと感じたことがある。
もし口止めされていたとしても、言った方が良いとアーヴィンが判断したのなら、きっと彼はローゼの問いに答えてくれたはずだ。それなのに今回何も言わないのは、何も聞かないままで大神官に会うことがローゼにとって必要だと、彼が判断したからに違いない。
(……しょうがない、会うしかないみたいね……)
諦めたローゼは、嫌々ながら首を縦に振った。
「で? 大神官様とはどちらでお会いすればいいの? 神殿?」
「……村の外の草原だよ」
「草原?」
ローゼは眉をひそめる。
村の外にある草原は、ここからだとそれなりに距離のある場所だ。
なぜそんな所にいるのだろうかと尋ねてみれば、これには答えがあった。
「人数が多いし、他に荷物もあるからね」
「そうなの?」
田舎だけあって、グラス村の土地は広い。
道幅もあり、それなりに舗装もされているので、馬車が通っても平気だ。家と家の間も十分間隔があいている。
それでも村に入るのは難しいと判断したのなら、いったい何人で来たのだろうか。
(10人や20人じゃないってことかしら)
大神官ほどの人物ともなれば護衛の数もそれなりにいるのかもしれない。
「そんなにたくさんの人を引き連れてくるなんて、大神官様って本当に偉いのね。アーヴィンがこんなすごい衣装を着てるのも、大神官様をお迎えするからなんでしょう?」
感嘆の意を籠めてローゼは言ったのだが、しかしアーヴィンはどこか複雑な表情を浮かべて答える。
「それもあるかな」
「それも? 他にも理由があるの?」
首をかしげるローゼから視線を外し、アーヴィンは神殿の入り口を示した。
「……本は神官補佐に預けておいで。持っていくわけには行かないからね」
どうやら衣装を着ている理由も答えたくないらしい。
彼の様子を不満に思いながらも言われたとおりにして、ローゼはアーヴィンと連れだって草原へと向かった。
道すがらローゼが質問しても、アーヴィンからの答えはほとんどない。会話にまったく意味を感じなくなったので、仕方なくローゼも黙って歩を進めた。足元だけを見ながら進んでいると、村の外へ出た辺りで不意にアーヴィンは立ち止まる。どうしたのだろうかと見上げてみれば、彼は厳しい表情をしていた。
「ローゼ」
見つめてくるアーヴィンの険しい瞳も、低い声も、今まで記憶にない。ローゼは思わずたじろいだ。
「……雰囲気に飲まれないように。慌てず、落ち着いて、良く考えて。そして堂々としているんだよ」
夕刻の冷たい風が、ローゼの赤い髪と、アーヴィンの褐色の髪を揺らす。
「この後どんな選択をしても、私は必ずローゼの味方をするから」
どういう意味なのかは分からないが、おそらくこれから大神官と会うことに関係するのだろう。
考えて、ローゼはうなずく。
「……うん、分かった」
ローゼの返事を聞いたアーヴィンは雰囲気をやわらげ、いつも通りの声で促した。
「じゃあ、行こうか」
言って微笑むが、その表情はいつもとは違い、どこか心配そうだった。