20.最期の夢
大神殿が俺に追手を出しているらしい。
町でそんな噂を耳にしたのは故郷の村を出てから5日後だった。
脳裏に、赤い髪の女と、壮年の神官が浮かぶ。
俺は唇をかみしめてこみ上げてくるものを飲み込んだ。
……分かってた。
エルゼは当然のように神官へ言うだろう。そして神官は必ず大神殿に連絡するはずだ、と。
昔からの誼がある俺への情よりも、大神殿への義理や忠誠を取るに決まっていると。
……そんなことは分かってたじゃないか。
なあ?
深く息を吐くと、下を向いて俺は歩きだした。
「……さて、これからどうしようかね」
街道を進みながら、いつものように腰の聖剣に声をかける。
もちろんいつものように返答なんてないが、俺の話を黙って聞いてくれるのはこいつくらいなものだ。
そのままうつむいて道を進み、ふと視線を上げた。遠くに目をやる。険しい山並みが目に入った。
暑い時期がすぎたばかりなのに、上の方は白い。あれが万年雪というやつか。
そういえば北には行ったことがなかった。
北方は今でこそアストラン国の一部だが、昔は小さな国だったそうだ。
元国王だった家は、現在は領主として北の領地を治めている。アストランの王家よりも古い歴史を持つらしい。
そういった矜持があるためか、アストランの貴族になった今も、王家にあまり従順ではないと聞く。
領主に倣ってか北の民も排他的な傾向があり、俺も好んで行こうとは思わなかった。
さらにウォルス教とは違う独自の宗教観があるらしく、神殿の数も少ないらしいが……。
……待てよ。よく考えたら、今の俺になら北方はうってつけじゃないか?
俺は北への進路を取ることに決めた。
聖剣と、腰の物入れに入れたままの『禁忌』を連れて。
* * *
北は噂通りの土地だった。
他人と関わりたくない俺にとって排他的なのは好都合だったが、困ったのは路銀が稼ぎにくいことだ。
山や森に入って薬草や山菜などを採ったり、たまに見つかる珍しい香木などを加工して売ったりするのが俺の主な食い扶持なのだが、売れ行きは芳しくない。
宿に泊まる金を浮かせるため野宿の日が増えたが、気温の低い北の地の野宿は結構つらかった。
幸いなのは、魔物とほぼ遭遇しないことか。
最初のうちはたまに見かけることもあったが、ここのところはまったく会わなくなった。
おかげでなんとか休めてはいるが……。
その日も何も売れず、俺は暗い気持ちを抱えて野宿のために町の外へと向かう。
季節は寒い時期に向かいつつある。
これ以上の野宿は命の危険を伴うだろう。何か方法を考えなければいけない。
そんなことを思いながら町を歩いていたが、偶然すれ違った親子を見て俺はふと思った。
そうだ。この子どもの命を盾にすれば、親は金を払うんじゃないか?
いや。
いっそこの親子の命を奪ってしまえば、手っ取り早く金が手に入るじゃないか。
腰の小刀――聖剣では人を切ることは出来ない――に手を伸ばしかけて、俺ははっとする。
首を振って、町の外へと歩き出した。
まただ。
以前から多少なりともそんなことを考える日があったようには思う。
しかし、ここ最近は度を越している。
気を抜くと誰かの命を奪うことばかりを考えてしまう。
……きっと寒いせいに違いない。
やはり早くなんとかする必要があるな。
そしてそのまま入った森の中で、俺は思いがけない奴に出会った。
銀の森、という森の噂はちらほらと耳にしていた。
北の領地の中でも飛びぬけて広いその森には、大きな銀色の狼が住むと言う。
銀色の狼は銀の森の主であり、そして実は精霊なのだと。
精霊などおとぎ話だ。
誰も見た奴なんかいない。俺が旅している間に見たこともない。見たという奴の話を聞いたこともない。
なのにこちらへ来てから囁かれる銀色の狼や精霊の話。
それを聞いて俺は、北方には夢見がちな連中が多いものだと思っていたのだが。
目の前に現れたそいつを見て全てを理解した。
しかし。
「……銀色じゃないな」
大きな狼の体毛は噂に聞く銀色ではない。もう少し暗い、銀灰色をしていた。
ついでに言うなら、これは魔物だ。
……いや、魔物じゃないのか?
なんだこれは。良く分からない気配だ。少なくとも、今まで遭った魔物とは違う。
だが、魔物の気配がするなら倒す。俺は聖剣を抜いた。
すると狼は目を細め、なんだか楽しそうな様子で口を開いた。
『珍しい気配がしたので出迎えてみたが。なるほど、それが聖剣というものか。初めて見るな』
「そうか。俺も喋る魔物に遭うのは初めてだな」
くくく、と狼は忍び笑いを漏らした。
『なかなか面白いやつだ。儂は精霊だからな。精霊ならば会話も可能だろう?』
「残念ながら俺は精霊を見たことがないんでね」
そう、俺は精霊を見たことがない。
だが、魔物なら嫌というほど見てきた。
こいつからは魔物の気配がする。
『ほう。では儂も問おうか。そなたは何者だ』
「どう見ても人間だろうが」
俺が聖剣を構えたままそう答えると、狼はさも愉快そうに言う。
『それだけ魔物の気配をさせておるくせに、まだ自分を人間と言うか。髪が黒いぞ、己では確認せぬのか?』
「なに?」
慌てて結んだ髪を見る。
「……黒い……」
そんな馬鹿な。
いや確かに、ずっと髪が黒っぽい気はしていた。
しかし北は曇り空が多く、俺は森の影に居ることが多かった。そのせいだと思っていたのだが……。
動揺している俺を見て、狼は楽しげに笑う。
『気づいてなかったか』
「……なんで」
『この地の村や町には守りの力がある。瘴穴は弾かれる。しかし森にある精霊の守りは、残念ながら村や町ほどではないのだ。聖剣の持ち主よ、そなたは森で寝起きをしていなかったか』
「……していた……」
『噴き出す瘴気にあてられたのだろう。儂と同じよ』
いや、しかし、瘴穴があれば魔物が出る。そうなれば魔物が俺を襲いに来るのだから、いくらなんでも……。
そこまで考えて嫌な思考が巡る。
最初のうちはそれでも魔物には出会っていた。
そうだ。最近は魔物に会った記憶がない。
それは運良く瘴穴が近くにないからだと思っていたのだが、まさか――。
魔物同士は争わない。同士討ちはしない。近くに魔物がいれば、他の魔物は避けると聞いた。
そして最近の思考。黒くなった髪。
「……なるほどな」
口から出た声は、我ながら冷静だった。
おそらく自分でもずっと前から分かっていた。ただ目を背けていただけだ。
『理解できたか』
「そうだな。気づかせてくれたことに感謝する」
『不要だ。儂も今回はついに瘴気に染まった。いつかは分からぬがいずれそなたと同じ運命をたどるよ』
「さて、それはどうだろうな」
物問いたげな狼の視線を無視して辺りを見渡す。
心地良いと思う方向をみつけた。
「もしかして向こうに瘴穴があるのか?」
『そうだ。見えるか』
「見えない。でも、分かるな」
瘴穴や、瘴穴から噴き出している瘴気は人に見えない。
だが、魔物には分かるはずだ。
俺が魔物に近づいているならば、瘴気はとても心地良いだろう。
確かに野宿の場所を探していた時に心地よい場所を見つけることがあり、俺はそこで何度も寝起きしていた。
――そして急速に魔物へと変化していったわけだ。
深く息を吐く。
「お前は何故森から出なかったんだ?」
『愚問だな。儂はこの森の主。主は守護する場所からは出られない。瘴穴が消えるまで可能な限り瘴気を塞ごうとしてみたが、及ばずこのありさまよ』
なんだ? 自分の体でフタの役目でもするつもりだったのか?
俺は少し笑う。腰の物入れを開けると狼に近寄った。
「おい、口をあけろ」
『何をする』
「これさ」
中から『禁忌』を取り出した。
手の中にある神木の枝は金色に輝き、未だみずみずしさを保っている。
「大神殿にある神木の枝だ。詳しいことは知らないが、魔物を寄せ付けない力を持つらしいぞ。食ってみろ」
『……異質な力だ。儂が取り込めば、どうなるか想像もつかぬ』
「どうせほっとけば異質なもんになるんだから、活用できそうなものは活用しておけ。さっさと口をあけろ、これは地面に置けないんだ」
少し躊躇った後に狼は口を開く。
どこに置こうか迷い、舌の上に枝を置いてやった。置く時にぬるりとした触感があって少し眩暈がするが、すぐに治まる。
「食いたくなきゃ適当に処分しておけ。でも、そいつが地面に生えると神殿が掘り起こしに来るらしいから気をつけろよ」
『勝手なことを言う息子だ』
「誰が息子だ。まあいい。とにかくお前はもう瘴穴に近づくなよ。じゃあな」
手を上げると、狼は何も言わずその場で尻尾を一回振る。
それを見ながら瘴穴の方へと歩き出した。
ここらが潮時だろう。
それでも神殿に行く気にはなれなかった。
いや、もし行ったとしても、もうここまで染まっていては無理だろう。何せ魔物が同族だと認識してくれるくらいだ。
しかし完全に魔物になってしまう前に、やることがある。
瘴穴自体は俺には見えない。しかし、瘴穴だろうと思う場所はすぐ見つかった。
とても心地よい場所だ。
そう思う自分がとても腹立たしくて、少し切なかった。
――ああ、俺は本当に魔物なのかな。
一応見渡してみるが、周辺に魔物の姿は見当たらない。
代わりに、ちかちかする光が見える。これはなんだろう。
とりあえず魔物とは関係なさそうなので放置しておく。
とにかく、聖剣の主としてのお勤めをしようと思ったのだが……その必要はなさそうだ。
そのまま魔物としての感覚を頼りに、瘴穴と思われる場所へ聖剣を突き立てる。
見えないのでどうなったのかは分からないが、ややあって、心地よいと思う空間が消滅した。
なるほど。
やはり聖剣は魔物だけでなく、瘴穴を消すことも出来るようだ。
ずっと前からこれを試してみたかった。聖剣を使って瘴穴が消せればいいのに、と思っていた。
残念ながら瘴穴も瘴気も見えないので、今までは試せなかった。魔物に近づいたからこそできたなんて皮肉だ。
しかし後に繋げることができないのは残念だ。
誰かに伝えることはできないし、伝えられたとしても見えない以上はどうにもならないからな。
――さて、次は自分の始末だ。
瘴穴に刺した聖剣を抜いて右手に持ち、左手に小刀を持つ。
俺は人と魔物が混じった化け物になってるはずだ。
小刀でも魔物は倒せるが、果たしてどのくらい時間がかかるか想像もつかない。
俺の中の魔物の部分を確実に、しかも素早く消すためには、聖剣の力が必要になる。
しかし聖剣は人を斬れない。
さて、俺をどう認識してくれるか……。
とりあえず俺はいつものように聖剣に語り掛けた。
「なあ、聖剣。俺を倒してくれ。俺はもう人じゃない。魔物だ。分かるだろう?」
そう言って右手に力を籠める。
「お前が頼りなんだ」
その思いが届いたのか、それとも俺が聖剣に反応するくらい魔物化していたのか。
聖剣が動く。ゆっくりと胸に沈んでいく。俺の中にいる魔物の部分が悲鳴を上げる。
それを確認して左手の小刀も胸に突き立てた。聖剣が魔物の俺を殺すなら、小刀は俺の人の部分を殺してくれるはずだ。
赤い液体がばたばたと地面に落ち、視界が急激に暗転していく。
よし。これでいい。これが『俺たち』の終わりだ。
「……今までありがとな……」