10.暗影
先ほどまで様々な声や音で溢れていたはずの部屋は、まるで違う場所のように静かだ。
その分だけ身の内からの声が響いてきそうになり、立ち尽くしていたローゼは、ひとつ首を振って強く一歩を踏み出す。石の床を踏み鳴らす音は、湧き上がってくるものを押さえつける音のような気がした。
(余計なことを考えちゃ駄目。ええと、そう、まずは当初の目的を果たさなきゃ)
リュシーが去ったということは、フロランに頼まれていただけの時間は稼げているのだろう。ならば話はもう終わっているかもしれないが、アーヴィンに会いたかったフロランのことだ。何らかの理由を付けてぐずぐずと残っている可能性もあった。
(もしフロランがいたら、まずは文句からよね。その後は話し合った内容を聞きだしてやるんだから!)
決意も新たにローゼは歩を進めた。
豪奢なドレスは想像よりも重かった。たっぷりと布を使っている上に、施された刺繍の糸の分だけ重量も増えているのだから当然かもしれない。
ただ、意外と歩きにくくないのはドレスの形状がローブに似ているからだ。フェリシアのおかげで、ローゼはこの手の衣装を着て行動することにだいぶ慣れていた。
扉を見ながら部屋の中を進んでいると、高らかだったローゼの足音は急に小さくなる。視線を落とすと、床には花を意匠とする絨毯が敷かれていた。同時に視界の端で反射するものがあってそちらを見ると、壁には大きな鏡が掛けられている。
そこに映っていたのがなんとも麗しい人物だったので、ローゼは思わず息をのんだ。
髪は一部が結い上げられ、残りはゆったりと背に流している。
黄金の髪飾りと首飾り、そして耳にも揃って緑色の宝石が輝いており、髪の赤との対比が美しい。
夏の朝日のように明るい淡黄色のドレスは、広く開いた袖周りと引いた裾に植物を模した細かな刺繍がなされている。上着の間から見える白いスカートで輝いているのは、ちりばめられた細かな宝石や金糸の刺繍だ。
上着にもスカートにも刺繍は多い。しかしごわついた感じがないのは、きっと熟練の職人が、上等な布と糸とを使って丁寧に仕立てているからだ。
さらに、化粧も素晴らしい。外にいることが多いローゼの肌はいつも日焼けしているのだが、今は貴族の女性だと言っても差し支えないほどに白く見えている。
そのためだろう、ふっくりとした形に仕上げられた唇は、強くない薄紅色なのにはっきり形と色を主張して妙に艶かしかった。
侍女が髪を結ったり化粧をしてくれたりする間にも鏡台で見ていたのだが、改めて全身を見てみると、すべてがきちんと調和しており、一層美しく見える。
(これが本当に、あたし?)
夢見心地のまま鏡に近寄ったローゼが手を伸ばすと、あちらのローゼもこちらへ向けて手を伸ばしてきた。
(すごい……本当にあたしだ……)
手袋越しに鏡に触れ、ローゼは頬を染めて笑みをこぼす。
(アーヴィン、何て言うだろう。褒めてくれるかな)
腰まで伸ばした自慢の赤い髪はもとより、日焼けした肌もボロボロにならないようそれなりに手入れはしている。だが、ここまできちんとした化粧をすることなど滅多にない。
儀式のときにアーヴィンは綺麗だと褒めてくれたが、今のローゼを見て何と言うだろうか。
(……このドレスが、アーヴィンの好みだったらいいんだけど)
鏡に映る全身をくまなく眺め、ローゼはため息を吐いた。
先ほどまであれこれと着ていたドレスは、どれもすべて素晴らしいものだった。
華やかなものはもちろん、一見地味に見えるものでも、ローゼが着てみると素晴らしく映える。装飾品を合わせると更に美しさが増した。これもすべてはリュシーがローゼの髪や瞳、雰囲気に合わせて引き立たせてくれるものを選んでくれたためだろう。
彼女の見立てがあまりに確かだったので、ドレス選びに気が乗らなかったローゼですら後半は少し楽しくなっていたくらいだ。
そんなリュシーが
「本当に素敵な衣装を用意するから安心して」
と言うのだ。
彼女はきっと、ローゼに良く合う結婚の衣装を用意してくれるはず――。
そこまで考えたところで、ローゼは、ひっ、と喉の奥で小さく音を鳴らす。
(……駄目)
鏡の中の自分は先ほどまでの笑顔から一転、怯えるような表情になっていた。
(それ以上考えちゃ駄目。思い出しちゃ駄目)
強く拳を握ったローゼは首を振って鏡から目を離そうとする。これ以上、余計なことを考えてはいけない。
ローゼの頭の中あるそれは、ふと気を抜いた時、幸せな気持ちになった時、そして結婚の話になった時に、隙をついてローゼを絶望の底へ落とそうとやって来るのだから。
だがローゼが他のことを考えるよりも、それが浮かんでくる方が早かった。鏡から目を離せないまま、ローゼは総毛立つような感覚と共に耳の奥で響くそれ――巫子長イメルダの声を聞く。
『身の内に何かを棲まわせてしまった者は――』
「やめて!」
叫んでローゼは耳を塞ぐ。だが、実際に聞こえているわけではないのだから、耳を塞いでも意味などない。
(とにかく何か違うことを考えなきゃ!)
じわじわと忍び寄る声を押しのけるため、ローゼは必死に違うことを考えようとする。
しかし、浮かんだのはリュシーの「今はきっと幸せな時よね。あと2年が待ち遠しいでしょう?」という言葉だった。
本来なら幸せな時期なのだという、その事実がローゼを打ちのめす。
(……でもね、リュシー様……あたしは今、全然幸せじゃないのよ……)
耳を塞いだままローゼはうつむく。
すべての原因は、理由の分からない神降ろしだ。
ローゼだって、本当は結婚の日を待ち遠しく思っていたかった。
青の神官服へ刺繍をするわけにはいかないが、旅の途中に紫の小物を作るくらいのことはできる。立ち寄った町や王都の店で色々な品を見ながら何を作るか考える程度の浮かれ方は、聖剣の主にだってきっと許されるはずだ。
祝ってくれる皆へ贈るための品を選んだり、素敵な飾りが見つかれば買ってみたい。新居の準備だって少しずつ進めたい。
確かアーヴィンは今、神殿の裏手にある離れの建物で暮らしていると聞いた。ミシェラが副神官として村へ戻って来て以降、神殿内の私室を彼女に譲って移ったそうだ。
ローゼが結婚後に住むのは、きっとその離れだろう。
離れには階段もある。足の悪いミシェラが住むには向いていない。しかしローゼとアーヴィンが住むのならば、広い離れはうってつけだ。
いつかはローゼも子どもを産む日がくるかもしれないのだから。
子どもが産まれても、ローゼはおそらく今と同じような生活を送るだろう。しかし村へ戻ったときにアーヴィンと一緒に子どもが出迎えてくれるのなら、きっと今より幸せになれる。
アーヴィンと、子どもと、そしてレオンと。皆で一緒に過ごす時間のため、ローゼは今以上に頑張れるはずだ。
――しかし、全てはローゼがこれからも時を刻むことができたらの話でしかない。
『身の内に何かを棲まわせてしまった者は、遠からず命を落としておる』
憂慮するような声を耳の奥で聞きながら、ローゼは押し殺した声を漏らす。
「……遠からず……」
大神殿で話したあの時、ローゼはイメルダからの答えが怖くて何も問えないまま逃げるように部屋を後にした。
以降はひたすらに「自分は大丈夫なはずだ」と根拠のないまま言い聞かせてきたのだが、理由の分からない神降ろしをするたび、自分に言い聞かせる声はどんどん小さくなっていく。やがて「大丈夫だ」と言い聞かせられなくなると、ローゼの中には不安ばかりが募り始めていた。
ローゼは顔を上げる。
イメルダの前で出せなかった言葉を、誰もいない部屋の中で叫んだ。
「遠からずってどのくらいなの!? 曖昧なことを言わないでちゃんと教えてよ!」
10年は大丈夫だろうか。5年は平気か。あるいは、再来年――結婚式の時までは。
「どうすれば棲み着いた何かは出て行ってくれるの!? 方法はないの!?」
北の領地に入る直前、神降ろしをしての2度目の戦闘の後にローゼは気を失った。あのときはアーヴィンがいてくれたおかげで町まで運んでもらえた。だがもし、今後ひとりで行動していて同じことになった場合はどうなる。レオンの守護だって限界があるのだ。
――運悪く遭遇した魔物に意識のないまま引き裂かれる自分と、その様子をなすすべもなく見続けるレオンの絶叫を想像して、ローゼは顔を歪める。
もしもローゼが斃れてしまえば、手にしていた聖剣は神々の世界へ戻るだろう。巫子たちはその事実を神から夢で告げられ、大神殿長に報告するはずだ。
大神殿長は巫子の言葉を大神殿中に伝え、国の方々にある神殿へも鳥を飛ばして伝える。
鳥のうち1羽は西の端にある村へと到着するだろう。
そして受け取った神官は、文を広げ――。
そこまで考えて、ローゼは思わず吹き出した。
何が可笑しいのか自分でも分からない。しかし押し寄せる笑いの波はどうしても止まらない。小さかった笑い声は波が揺り返すようにして少しずつ大きくなり、やがてローゼは体をのけぞらせて笑い始めた。
先ほどまで見つめていた絨毯の模様は花、見上げる天井には木と葉の彫刻。
いかにも北方らしい部屋の中で笑い声を高く響かせるローゼの頭の中では、ふたつの声が風のようにぐるぐると巡る。
ひとつはイメルダの声、もうひとつはレオンの声だ。
レオンはローゼによく「アーヴィンに神降ろしのことを言おう」と提案していた。「いつまでも誤魔化すのだって無理があるぞ」と。
だが。
「ま、まったく! レオンったら、本当に馬鹿よね!」
笑い声の合間に吐く悪態は甲高く、まるで悲鳴のようになった。
「ちゃんと考えて欲しいわ!」
神降ろしに関することをアーヴィンに伝えるのならば、同時に伝えなくてはならないことがある。
――父、母、妹を早くに亡くしたあなたは、新たに家族となるはずの人物も早々に失います。
この事実を聞いた途端、アーヴィンはきっと絶望に満ちた表情を浮かべてローゼに背を向ける。以降は二度と笑顔を見せてくれないだろう。
ローゼはアーヴィンという支えを失ったまま、いつか来る最期の日までレオンと共に怯えながら暮らすのだ。
「な、なのに、あたしはどんな顔して、アーヴィンに神降ろしのことを言えばいいのよ!」
だが言わなかった場合、アーヴィンは結婚式を無事に迎えられると信じて日々を過ごすことになる。大神殿から鳥文が届くその日まで。
彼のことを思うのなら、どちらにすべきかは明白だ。しかしローゼはどうしても、本当のことを言うだけの勇気が出せなかった。
「や、やだもう! あたしったら、本当にズルいんだから! あは、あはははは……! ……う、ああああああっ、ははは……!!」
崩れるように膝を折り、ローゼは絨毯に手をつく。瞳から零れるものが、織られた花の上へ雨のように降り注いだ。
その様子を他人事のように見ながら、ローゼは笑い声とも泣き声ともつかないものをひとり部屋の中に響かせ続けた。




