7.弟と姉 【挿絵有り】
北の城は丘の上にあり、門は麓にある。
壮麗ではないがどっしりとした構えの門はその昔、侵略者を防ぐのに十分役立ったことを思わせた。
門の前でローゼはアーヴィンと共に下馬する。
アーヴィンが名乗って指輪を見せると、衛兵は深く頭を下げて門を開いた。
門から城までは距離があるので、もう一度馬に乗って城へと進む。うねる道を上った先で最初に目に入ったのは、以前リュシーに案内してもらった広大な庭園だ。
入り口には出迎えの使用人が待っていたので、既に門からは連絡が行っているのだろう。
彼らの先導に従って玄関まで行くと、そこでもまた使用人たちが待っていた。馬を預けたローゼたちは使用人と共に2階の部屋へ入る。
こちらでお待ちくださいと言われ、示された椅子にアーヴィンと並んで座ったローゼは、室内を見回して囁いた。
「ねえ、アーヴィン。この部屋って客間とは違う……よね?」
ローゼは昨年城へ来た際に客間も使ったことがある。この部屋は記憶の中にある客間に比べ、ずっと広く豪華だ。どちらかといえば客間よりも、リュシーやフロラン、ナターシャの部屋と似ているような気がした。
ローゼの疑問を耳にしたアーヴィンは微笑んで答える。
「ここは公爵の家族が使う部屋だよ。この城の3階には公爵の私室や執務室があってね、2階に公爵の配偶者や子、それに兄弟姉妹たちの使う部屋があるんだ」
「そっか、ここは2階だもんね。でも……リュシー様の部屋とは違うでしょ? フロランは、じゃない、フロラン様はもちろん3階に移ってるんだろうし」
室内にある調度類の質はとても良さそうだが数は少なく、最低限のものだけを揃えているように見える。もしかすると、あまり使わない部屋なのだろうか。
「一体誰の部屋なの?」
問われたアーヴィンは口を開きかける。
その時扉が開き、男性の快活な声がした。
「やあ! 遠いところからようこそ!」
立ち上がって振り返ると、出入口にいるのは北方の領主フロランだ。
彼は数人の護衛、そして褐色の髪をした青年と共に部屋へ入ると、満面の笑みを浮かべてアーヴィンの正面にある椅子へどっかりと腰をかける。
ローゼと共に立ち上がって彼を迎えていたアーヴィンは、そんなフロランに向かって優雅な礼をとった。
「フロラン様。このたびはご結婚おめでとうございます」
(え? アーヴィン、フロラン「様」って言った? 今までそんな言い方してないと思うんだけど……)
不審に思いつつも、ローゼはアーヴィンに倣って「おめでとうございます」と言い、頭を下げた。レオンも調子を合わせ、ぼそりと【めでたいことだな】と呟く。
ローゼが再び顔を上げたとき、フロランは先ほどの笑顔が嘘だったかのように表情を失くしていた。
「……まあ、一応礼を言っておくか。……ありがと」
淡々と告げ、フロランは座るようにと身振りで示す。
ローゼとアーヴィンが再び腰かけると、フロランは瞬きほどのあいだ宙に視線をさ迷わせた後でローゼを見た。
「で? そっちの仲はどうなってるのさ、ローゼ?」
「え、あたし?」
フロランはアーヴィンと話をするだろう、と思い込んでいたローゼは、驚きのあまり声を上ずらせた。
「なんであたしに聞くんです? アーヴィンと話せばいいじゃないですか」
「別になんでだっていいだろ。どうなんだよ」
1、2度呼吸をして鼓動を落ち着かせたローゼは、なるべく平静を装って声を出した。
「……婚約しました」
「へえ、そうなんだ」
「なんですか、その反応は。大体、アーヴィンが手紙に書いたはずですけど。まさか読んでないんですか?」
「読んだとは思うんだけどさ。些末事はいちいち覚えてないなぁ」
笑うフロランはローゼに顔を向けているが、アーヴィンに視線が移動するのを止められていない。ちらちら兄を窺うフロランをローゼが訝しく思っていると、アーヴィンが穏やかな声を出す。
「フロラン様は忙しくていらっしゃるのですから、無理もないことです」
アーヴィンは城に入るまでフロランを呼び捨てにしていた。確か昨年、城にいる時もフロランを呼ぶときは敬称はつけていなかったはずだ。
(変なの。どうしたんだろう)
ローゼが首をかしげる一方で、フロランも唇を引き結ぶ。
しかしそれも一瞬のこと。ニヤリと笑ったシャルトス家当主は、右の肘掛けに体を預けて頬杖をついた。
「……そういうことだね。他に重要なことはたくさんあるからさ」
明るい調子の声だが、棘があるように思えるのはローゼの気のせいではないだろう。
「お察しいたします」
だが、アーヴィンは動揺することもなく微笑んでうなずく。
「そうか、分かってもらえて嬉しいよ、あに――」
言いかけたフロランは軽く咳ばらいをする。
「アーヴィン殿」
呼びかけに応えてアーヴィンは頭を下げる。フロランの表情はニヤついた笑顔のまま動かない。しかし頬杖をついた手の人差し指が一定の調子で頬を叩いている様子は、フロランが苛立っている証拠のように思えた。
(なんか変なの。去年はこんな雰囲気じゃなかったのに……)
ギスギスした空気の中でローゼが顔をしかめた時、侍女が机の上に茶を並べた。
茶の数は4つだ。
「ベルネス」
アーヴィンに目を向けたままフロランが声を上げる。
「お前も座れ」
確かに褐色の髪をした青年も部屋に入って来ていた。ローゼがフロランの背後に目をやると、護衛と共に立っていた青年は口を開く。
「私が皆様と同じ卓に着くなど、畏れ多いことでございます」
「別に構わないだろ。公式の場では私の隣にいることだってあるんだからさ。なあ、兄上」
ですが、と言いながら困惑した様子を見せるベルネスだったが、結局はローゼの正面にあった椅子に座る。居心地が悪そうに体を小さくするベルネスに向けて、アーヴィンは頭を下げた。
「私のせいでご迷惑をおかけし、申し訳ありません」
「迷惑だなんて、そんな。これは私がやりたくてやっていることなんです」
マリエラの護衛騎士だった青年は慌てて首を横に振る。
「おかげでナターシャ様は最近、マリエラ様への態度を少し軟化させてくださっているんですよ」
そう言ってベルネスは笑顔を見せた。
マリエラはエリオットの元婚約者だ。
子どもの頃からエリオットを慕っていたマリエラは、彼の妻になりたい一心で城へ来た。しかしマリエラの父クラレス伯爵は、エリオットを公爵にした後のシャルトス家を己の意のままに動かそうと画策しており、その計画の一環としてマリエラを城へ送り込んでいたのだ。
マリエラは父の計画を知らなかった。だが、彼女が父と共謀して城へ来たと思った人物は多い。中でも一番マリエラを疑ったのは、フロランの母ナターシャだ。
ナターシャは、銀狼によって北方の守りが安定した後も、クラレス伯爵がフロランを排除する可能性を考え、危惧した。
そのためマリエラは人質としてナターシャの監視下に置かれ、軟禁生活を送っている。
彼女の潔白を証明するためにもと、ベルネスはシャルトス家のために働くことを志願した。
髪の色がエリオットとよく似ていたベルネスにフロランは『エリオット』として動くことを提案し、今に至っている。
「むしろアーヴィン様にはお礼を申し上げたいくらいです。なにせ私がマリエラ様のお役に立つための機会をいただけたのですから」
言ってベルネスは嬉しそうに笑う。心の底からそう思っているらしい彼の表情を見て、アーヴィンはわずかに表情を緩めた。
アーヴィンはローゼのために、エリオットの名を手放した。
ベルネスはマリエラのために、エリオットを名乗っている。
ひとつの名はこのふたりの青年の間で奇妙に結びついている。その縁のためだろうか、ローゼには交わすふたりの視線に相通じるものがあるように思えた。
しかし部屋の空気が柔らかいものになったような気がしたのも束の間のこと。
「あーあー。ふたりしてそんな締まりのない顔しちゃってさぁ。まあどっちも、女に人生を左右されちゃうような奴だもんなぁ」
皮肉を纏った声が割って入り、室内はまたピリリとした緊張を帯びる。
「ベルネス、自身の話は控えろ。まだ私の話は終わっていない」
「は。申し訳ございません」
フロランに強く言われ、背筋を伸ばしたベルネスは頭を下げる。
彼らを見たアーヴィンが穏やかな声で言った。
「フロラン様、ベルネスに話を振ったのは私です。お叱りがございましたら、私に」
その声を受け、きゅっと眉根を寄せたフロランはアーヴィンに顔を向ける。
「ベルネスに話を振ったのは私、か。……そうだよな。楽しく盛り上がってたもんな。ならば邪魔者は退出しようか」
表情同様に若い公爵の声は険しいものだ。
フロランはなぜこんなにも不機嫌なのだろうか、と思いながらローゼが場を和ませるような話題を必死に考えていると、部屋の外から人の気配と声が聞こえ、扉の開かれる音がした。
「遅くなってごめんなさい」
聞くだけで場を華かにさせる声とともに室内へ入って来たのは、三姉弟の長子、リュシーだ。
ローゼが挨拶のために立つより早く、軽やかな足取りでリュシーは皆の横へ来る。
「ようこそ、イリオスへ。また会えて嬉しいわ。ローゼ、それにアーヴィン」
屈託なくアーヴィンの名を呼んだリュシーの顔には、春の陽光のような明るい笑みが浮かんでいる。
「お久しぶりです、リュシー様。お元気そうで安心いたしました」
立ち上がったアーヴィンが頭を下げて言うと、リュシーは瞳を見開いて「まあ」と小さく声を上げた。
「リュシー様、だなんて酷いわ、どうしてそんな呼び方をするの?」
「私は公爵家を後にした身です。今更、以前と同じようには――」
言いかけるアーヴィンに近寄り、リュシーは彼の手を取る。
「私たちは世に3人きりの姉弟よ。名前や立場が変わったって、あなたは私の弟。ね? 昨年、指輪を渡すときにそう言ったで――」
しかし話の途中でリュシーは不意に口をつぐむ。やがておそるおそるといった調子で口を開いた。
「……それとも……私やフロランの兄弟でいるのが、嫌なのかしら……?」
リュシーの声が躊躇いがちになるのは、アーヴィン――エリオットが負っていた『役目』をどうすることもできなかった後ろめたさがある他、彼女たちの母がナターシャだという理由もあるかもしれない。
だが、リュシーの曇った表情を払うかのように力強い答えが響く。
「そのことに関してだけならば――いいえ、と申し上げます」
「良かった。では、私のことは姉と呼んでちょうだい。ね?」
安堵したように微笑んだリュシーは、ふと小首をかしげる。
「……もしかしてフロランのことも『フロラン様』と呼んだのかしら?」
答えを返さないアーヴィンから視線を外し、リュシーはローゼを見る。ローゼがうなずくと、腰に手を当てたリュシーは大きくため息をついた。
「……もう」
ローゼは思わず忍び笑いを漏らした。
今のリュシーの様子は、誰かを叱責する時のアーヴィンの様子とよく似ている。
(やっぱり、姉弟なんだわ)
「アーヴィン、お願い。フロランにも敬称を付けず、弟として親しく接してあげて。この子ね、あなたのことが大好きなの。招待状の返事が来たときなんて大喜びで、しばらくのあいだその手紙を持ち歩――」
「姉上!」
顔を真っ赤にしたフロランが椅子から立ち上がる。
「そっ、そういう嘘を言わないでもらいたいな!」
「嘘?」
リュシーは戸惑ったように目を瞬かせる。
「私、何か嘘を言ったかしら?」
考え込む様子のリュシーに向けてフロランが言葉をかけようとする。しかしそれより早く、リュシーは何かを思いついたらしい。
「分かったわ。しばらく、のところでしょ? しばらくだけではなくて、今も持ち歩いてるのね? ごめんなさい、気が付かなくて」
声にならない叫びをあげるフロランは、まるで図星を指されたかのようだ。彼の様子を見ながらローゼはぽつりと呟く。
「なんだ。つまりフロラン様の態度が悪かったのは、他人行儀にされて寂しかったせいなのね」
【わざと突っかかった物言いををしたり、アーヴィンと仲良く話すベルネスに嫉妬したり、なぁ。まったく、子どもみたいな奴だ】
「そこの親娘! うるさい! 黙れ!」
怒鳴るフロランの方がよほどうるさいが、指摘しても事態を悪化させるだけだ。小さく息を吐いたローゼは言われた通り口をつぐみ、聖剣の柄を軽く叩いた。