4.諷喩
意識の底でローゼが思い出していたのは、少し前の出来事だ。
* * *
「ないなあ……」
大神殿にあるいつもの客間で本をめくりながら、ローゼはため息をついた。
「大神殿の書庫にもないんじゃ、どうしようもないわ」
本の内容は神降ろしに関するものだ。
このところ、魔物と出遭ったローゼは無意識に神降ろしをしている。しかも毎回同じ『何か』を降ろしているようなのだ。
正直に言えばローゼは困っていた。あと数日で、フロランの結婚式へ向かうアーヴィンと合流する。
婚約した後に村を発って以降、王都やその近辺での用事があったローゼは彼と一度も会っていない。久しぶりにアーヴィンと会えるのが嬉しくて仕方ない反面、神降ろしのことを考えると気が重くて仕方がない。
なんとか神降ろしを止める手立てがないものかとローゼは大神殿の書物を読み漁ったのだが、残念ながら徒労に終わっていた。
「しょうがないわね。北と王都を往復する間だけだし、今回は誤魔化す方向で頑張るわ」
【できるのか?】
「するしかないでしょ」
本から顔を上げたローゼは、机の上にある白い鞘へ視線を向ける。
「アーヴィンには絶対言えないもの」
【だが今回の神降ろしは、今までと違ってお前が望んでやってるわけじゃないだろ? あいつに話して、補佐してもらえば――】
「駄目」
ローゼはぴしりと言い切る。
「あたしの行き先が西ならそれでも良かったわ。でもね、これから行くのは北なの。アーヴィンはきっと自分のことで手一杯になる。余計なことを背負わせるわけにいかないのよ」
レオンからの返事はない。静かになった部屋の中は気まずさが支配している気がして、ローゼは次の言葉を冗談でも言うかのように明るく口にした。
「まあ、今回の旅はなんとか気合で乗り切ることにするわ。だからレオンも協力してくれると嬉しいな」
【……分かった】
「よろしくね」
レオンからの返事をもらったことでほっとしたローゼは、午後の日が眩しく照らす窓の外へ視線を移す。
季節は既に夏を迎えた。ローゼが南にいたのは4か月ほど前の話になっている。王都は国の中央部にあるとはいえ、位置は南寄りだ。南ほどではないにせよ、日差しは強かった。
(南の異変も遠い話みたいな気がするなあ。あのときはエンフェス村の瘴気跡に、変な薬草があって、そして……食人鬼と瘴穴が)
エンフェス村の外にあった瘴穴の前でルシオが暴走した際、ローゼは1体の食人鬼を切り捨てた記憶がある。
ただしそれはしっかりとした記憶ではなく、霞がかったようにぼんやりとしている。あのとき食人鬼を倒したのはローゼではなく、神降ろしで呼んだ何者かであるせいだ。
ローゼの意思を無視して勝手に何かが降りてくる今の状況は、あの南の時と似ている、とローゼは思う。ならばずっと近くにいたレオンは分かることがあるのではないかと思うが、尋ねても彼から戻る答えは「否」だった。
【お前が困ってるんだから何とかしてやりたい。だが、俺にも分からないんだ】
とは言うものの、詳しく踏み込んで質問すると彼は沈黙する。
おそらく、レオンは何らかの推論を持っているのだ。
ただ、ある程度の確証がない状況だとレオンは自分の意見を述べたがらない。ローゼに格好良いところを見せたいレオンは、間違っていることを言いたくないのだ。
正直に言えばローゼはこれが不満だった。
(何でもいいから言って欲しいな。そしたら、あたしだって一緒に考えられるのに……)
しかしレオンが完全に黙ってしまうと、ローゼにはどうすることもできなかった。
小さくため息をついたローゼは、沈んだ気持ちを払うように首を振って立ち上がる。
書庫へ行き、読んでいた本を返却し、念のためもう一度関連の本棚を見るが、望む答えをもらえそうなものはない。仕方なく手ぶらで書庫を出ると、正面に白い衣装を着た人物が姿を現した。
意外な人物を目にしてローゼは固まる。
彼女は巫子たちから長と呼ばれていた人物だ。
「ご機嫌よう、ローゼ・ファラー。もし時間があるのなら、我と少し話をせぬかや?」
巫子長はそう言ってにこりと笑い、ローゼに向かって手招きをした。
ローゼは巫子たちと関わることがない。せいぜい、南から戻ったときに少し立ち話をした程度の付き合いしかないのだ。そんな巫子たちの長が自分に何の用なのか、とローゼは訝しく思う。
巫子長はそのようなローゼの反応も織り込み済みなのだろう。特に気を悪くした様子はなく、微笑んだまま答えを待っている。ローゼは彼女の金の瞳を見ながらしばらく迷った後にうなずいた。付き合いのない巫子長がわざわざ来たのだ。彼女はきっと、ローゼに伝えたいことがあるのだろう。
巫子長はローゼの前に立ち、廊下を歩き出す。着いて行くと、そこは今まで訪れたことのない区域だった。
王都に住居を持っていないローゼは、大神殿に滞在する時間が長い。
基本的には神官区域の客間にいるが、神殿騎士の区域にも顔を出すし、セラータを預けている馬場や広大な薬草園へ訪れたこともある。儀式のために大聖堂へも足を踏み入れた。
他にも洗濯場や炊事場などに行ったことはあるが、巫子たちの居住区域は今まで知るどの場所でもなかった。
神官の区域の東に建っている大聖堂の背後には、金色味を帯びた大樹、神木が静かに佇んでいる。その神木を大聖堂の反対側から眺めるような位置に作られているのが巫子たちの区域だった。
巫子長に促され、ローゼは初めての場所に足を踏み入れる。中にあったのはしんとした空気だ。
もちろんここも他と同じ様式だ。白い石で造られており、上階はなく、建物と建物は渡り廊下で繋がれている。
だが、巫子の区域には他と違って人の気配がほぼない。神官も神殿騎士も、用事がないとこの場所へは来ないのだろう。
声を出すのも憚られる静寂の中、来る最中もほとんど話をしなかった巫子長は扉が並ぶ廊下を黙って進む。
石がむき出しのままなら靴音はかなり響いたかもしれないが、敷かれた青い絨毯がかなり飲み込んでくれたのでローゼはなんとなくほっとした。
やがて巫子長は、一番奥にある扉を開く。促されたローゼがおずおずと室内へ入ると、中は明るくこざっぱりとした部屋だった。
「かけて待つが良い」
巫子長が示したのは、質の良さそうな机と共にある4脚の椅子だ。軽く頭を下げ、ローゼは扉に一番近い椅子に手をかける。引こうとしたところで左の壁にある絵に目を向け、思わず動きを止めた。
描かれていたのは新緑の木立だ。額の中には柔らかな色合いの葉をつけた立派な大樹や未だ低い木々が、遠く、近く、幾本もある。
さらに、射し込む木漏れ日と、いくつかの丸いもの。
丸は白系の色を基調として、たくさんの色が複雑に混じりあっていた。
(これ、は)
椅子の背に手を置いたまま、食い入るようにローゼは壁の絵を見つめる。
丸い形の色合いは、まるで左腕にある銀の鎖のようだ、と思ったところで右手側から声がした。
「あの絵が気になるのかや?」
声をかけられてはっとすると、微笑む巫子長がローゼの前に茶を置いていた。ローゼは慌てて椅子を引き、腰かける。巫子長もまたローゼの正面にある椅子を引いて座った。
「あの絵はな。アストランの東方と言われる場所と、北方と言われる場所の境目にある森を描いたものじゃ。我が故郷の町は、その森の近くにあってのう。――描いたのは、我じゃ」
目を見開いたローゼは机の下で腕飾りを握る。
(北方に近い森の絵。……描いたのは、この人……)
巫子長は瞳をローゼから絵に移して話を続ける。
彼女はイメルダ・リヴェリと名乗った。
アストラン東方の中でも、最も北方に近い町で生まれた巫子長――イメルダは、ある日町の近くの森で不思議なものを見た。
それは絵にも描かれている、銀色をした丸い光。
光の大きさはまちまちで、手に乗るくらいのものから頭ほどの大きさのものまであったのだ、とイメルダは語った。
「向こうは我が見ておることに気付いておったようでの。近くへ寄ってきてくれたのじゃよ」
近寄ってきた光はイメルダの傍で何かの音を出した。しかしそれが何の音なのか、イメルダには分からなかったという。
(音、というかきっと声ね。精霊の声。精霊は巫子長に何かを話しかけたんだけど、でも巫子長は精霊の言葉が分からないから、聞こえても理解できなかったんだ)
きっとイメルダは精霊に関する力を持っているのだろう。もしも北方で産まれていれば、今頃は巫子ではなく術士と呼ばれていたのかもしれない。
ローゼはレオンやアーヴィンが精霊と話しているのを横で聞いていたが、残念ながらレオンは『見せて』くれるものの『聞かせて』はくれないので、小さい精霊たちの声はまだ聞いたことがなかった。
イメルダをうらやましく思いながらローゼは彼女の話に黙って耳を傾ける。
「この光に会ってしばらくしてから、我は大神殿へ居を移した。……あの絵は」
話すイメルダは遠くを見ているように思えた。彼女は絵を通して、故郷の森を見ているのかもしれない。
「当時の記憶を思い出しながら大神殿で描いたものじゃ」
「大神殿で……」
ローゼが深く考えずに呟くと、イメルダは顔を絵からローゼに向けた。
「どうやら我は、人ならざるものを身に宿しやすい性であるらしくての」
イメルダの黄金の瞳がローゼを見つめる。
「何かの折に意図せぬものが体を支配する。悩んだ両親が神殿に相談をして、大神殿の使いが迎えに来た。当時の巫子長が我を見て巫子の素質ありと判断なされ、以降は大神殿が我が世界じゃ」
意図せぬものが体を支配する、と聞いてローゼはごくりと唾を飲む。
――近頃は魔物と遭遇した際、時々『何か』が勝手に体を支配する。
口元を緩めたイメルダは話を止め、ゆっくりと茶を飲み始める。ふいにできた静かな時間は質問を許すためのような気がして、ローゼは思い切って尋ねた。
「今はもう、体を支配されることはなくなりましたか?」
イメルダはカップを机に戻す。
「相応の修行を積んだおかげで我は平気じゃ。したが、そうではない巫子もおる」
「そうではない巫子?」
「例えば、身の内に何かを棲まわせてしまった巫子」
わずかに首をかしげるローゼの前で、イメルダは憂いを含んだ瞳でカップの中へ視線を落とす。
「巫子とはな。魂に穴が開いておる者よ。例えるならば、山に洞窟があるようなものかの」
魂に穴、とローゼは心の中で繰り返す。それはなんだか少し怖い気がした。
「手順に従ってその穴へ神や他者の魂を呼び、一時的に体を貸す。これが神降ろしじゃ。――しかし」
イメルダはカップを手に取る。そのまま小さく揺すった。中の液体が波立つ。
「稀に、穴へ棲み着いてしまうものがおる。棲み着いたものは時折穴から出てきて、体を勝手に支配する」
「……どういったときに、体を支配するんですか?」
「さて、それは棲み着いたものの都合次第じゃな」
ローゼの背を嫌な汗が伝う。
――魔物と遭遇した時というのは、棲み着いたものの都合として当てはまるだろうか。
イメルダはローゼを見ることなく話を続ける。
「何が、どういった時に、どういう条件で棲み着くかは分からぬ。ただ、切っ掛けはある」
「……今までは、どういう切っ掛けが?」
「色々じゃな。神降ろしのときに帰らなかったこともあれば、降ろしたものへ自ら体を差し出した巫子もおる。じゃが――」
イメルダは顔を上げる。ローゼと視線がぶつかった。黄金の瞳は何かを見透かしているようだとローゼは思う。
「棲み着いたものが勝手に体を支配するのも、神降ろしと同じじゃ。体力をかなり使う」
ゆえに、とイメルダは続けた。
「身の内に何かを棲まわせてしまった者は、遠からず命を落としておる」
ローゼは口を開く。しかし、乾いた唇からは、どうしても言葉が出てこなかった。