2.嘘
誰かが部屋に入ってきた音と気配でローゼの意識は覚醒した。
しかし頭の半分以上は未だ眠ったままのようで、何があったのかを思い出そうとしても途切れがちの思考ではうまく考えがまとまらない。
仕方なく覚醒したわずかな部分だけで周囲の様子を探っていると、抑えた足音で近寄ってきた人物がローゼの顔を覗き込んだように思う。
同時に香ばしい香りがローゼの鼻腔をくすぐって空腹を覚えたのだが、それでも閉じた瞼はまるで貼り合わせたかのように開かず、体もまたぴくりとも動かなかった。
「様子はどうですか」
小さな声はアーヴィンのものだ。彼の問いには、ローゼの頭の方から答える声があった。
【変わりない。まだ眠ってる】
そうですか、と答えてアーヴィンはローゼから離れる。ついで机の上だろうか、何かを置いた音がした。
(……ええと……)
ローゼは懸命に頭を働かせ、何とか今日は2回魔物に出遭ってしまったことを思い出した。
(あぁ……そのせいかぁ……)
このところローゼは、魔物との戦闘の際に神降ろしをしているらしい。
らしいというのは、ローゼ自身に神降ろしをしようとの意思がないせいだ。『何か』はローゼの思惑と関係なく勝手に降りてくる。そして魔物を倒し終わると、降りて来た時と同じく勝手に去るのだった。ひどい倦怠感だけを残して。
正直に言えばローゼは困っていた。しかもアーヴィンとは『もう絶対に神降ろしをしない』と約束している。なのに北方へ行く道中で同様のことが起きたらどうすれば良いのかと悩み、止める方法を大神殿の書庫で調べてみたが、残念ながら望む答えは得られなかった。――代わりに他方から、あまり嬉しくはない情報だけは手に入った。
いずれにせよ分かったのは、すぐに何とかできるようなものではないということだけだった。
このままアーヴィンと一緒に行けば、きっと魔物と遭遇した時に神降ろしをしてしまう。そうなれば彼に神降ろしの件が知られてしまうだろう。約束を破ったローゼに対してアーヴィンが一体どういう態度に出るのか、ローゼは考えることさえしたくなかった。
(それにアーヴィンはきっと、あたしを心配するだろうし……)
レオンと相談を重ねたローゼは、アーヴィンと別行動をとることも考えた。
北方は精霊の守護する地だ。そこまで行けば魔物と遭遇する確率はかなり低くなる。北方の入り口でアーヴィンと待ち合わせるというのもひとつの手ではないかと思ったのだ。
だが結局、この案は採用しなかった。
北方はアーヴィンにとってつらい場所だ。確かに今はフロランが領主となって少しずつ変わり始めているし、アーヴィンも過去の問題を乗り越えつつある。しかしローゼは、何かのきっかけでアーヴィンが昔を思い出す可能性を危惧していた。
ローゼがフロランの結婚式に行くことにしたのはもちろん招待されたためだが、アーヴィンが心配だったというのも多分に含まれている。もし彼に何か起きた時、自分が近くに居ればできることもあるだろうと考えたのだ。
最終的にローゼは王都からアーヴィンと一緒に北へ向かい、もしも神降ろしをした際は気合で乗り切るという、なんの解決にもならない方法を採ることにしたのだった。
それでもここに来るまではレオンの協力もあってなんとか誤魔化すことはできていた。しかし運の悪いことに、今日は2回魔物に遭遇して2回とも神降ろしをした。そのせいで体力の限界を超えてしまい、戦闘の後に倒れてしまったのだろう。
今、ローゼが寝台に横たえられていることを考えると、きっとここは宿だ。アーヴィンが町まで連れてきてくれたに違いない。
少しずつ頭が回り始めたが、ローゼの瞼はまだ開かない。
やがて枕元から、密かなレオンの声が聞こえた。
【……何も聞かないのか】
彼の声からはわずかな迷いが感じ取れる。
「聞いたら教えて下さるのですか」
対してアーヴィンの声には感情が無い。
【……それは……】
口ごもり、レオンは黙る。
続いてアーヴィンは何か言ったようだが、そこで意識が途切れたローゼは内容を聞くことができなかった。
眠りと覚醒を繰り返し、何度目かに覚醒したときにようやく意識がしっかりしたのを感じる。
試しに体を動かしてみると、すんなりと命令に従ってくれた。
【ローゼ】
寝台の中でごそごそしていたのが聞こえたのだろう。レオンが名を呼ぶ。同時に、こちらへ近寄る足音が聞こえた。ローゼの瞳に最初に映ったのは、もちろんアーヴィンだ。
「気分は?」
問いかける彼の表情も声も優しく穏やかで、怒りの感情は見えない。ほっとしたローゼは返事をしようと口を開いたのだが、それよりも早く腹が小さく返事をした。
「……う」
赤面したローゼは思わず頭の上まで布団を引き上げる。ふたりぶんの笑い声が聞こえた。
「夕食を買ってきてあるよ」
寝台に重みがかかった。どうやらアーヴィンが横に座ったらしい。そろそろと布団から顔を出すと、予想通りアーヴィンの顔は先ほどよりずっと近くにあった。
「アーヴィンは食べなかったの?」
「ローゼが目を覚ますかもしれないと思ったからね。……それにしても」
探るような瞳を向け、アーヴィンは問いかける。
「魔物を倒した後、急に倒れるから驚いたよ。もしかして、どこか体の具合を悪くしているのかな」
「そ、そういうわけじゃないわ」
不自然にならないように努めながら、ローゼはにっこりと笑う。
「1日に2回も戦うなんて、ええと、久しぶりだったから。張り切っちゃったのよ。それにほら、アーヴィンにもいいところ見せたかった、し……」
灰青の瞳がわずかに険しくなった気がしてローゼの語尾は小さくなる。
それでも黙って笑んだままでいると、やがてアーヴィンは雰囲気を柔らかくした。
「……そうか」
顔を覗き込むアーヴィンはローゼの頬に触れる。手のひらから伝わるあたたかさが嬉しい。
「食べられそうなら、夕食にしよう」
「うん」
どうやら彼はそれ以上の追及をする気がないようだ。
安堵したローゼが上半身を起こすと、寝台の横に立ったアーヴィンが手を差し伸べてくれる。掛布団を剥ぎ、ローゼは彼の手をつかんで床に立った。少し怠いが、特に眩暈なども起きないので心配はなさそうだ。
アーヴィンもまたローゼの様子を見ていたようだ。
ローゼがしっかり動くさまを見ると、アーヴィンは小さくうなずいて机の傍に行く。彼の動きを追ったローゼは、窓の外にまだほんの少し茜色が残っていることに気が付いた。どうやら眠っていたのは思ったより短い時間のようだった。
「ローゼの好きな包み焼きを見つけたから買っておいたよ。あとは焼き菓子も。この果物を使ったものが好きなんだったね?」
「あ! それ! 美味しいの! 覚えててくれたのね、嬉しい! アーヴィン大好き!」
ローゼの弾む声を聞いたアーヴィンはくすりと笑う。彼の元へ行こうと靴を手にしたローゼは、ふと気が付いて動きを止めた。
(あれ? あたし、寝間着を着てる……)
もちろん今日1日を寝間着で行動していたわけではない。ローゼは宿に入るまで間違いなく旅装を着ていたはずだ。
【どうした?】
動きを止めたローゼを不審に思ったのだろう、小さな声でレオンが問いかけてくる。
「あ、あのね。あたし、旅装を着てたはず……」
そこまで言ったところでローゼは、水を入れた桶と使った形跡のある布を部屋の隅に見つけて絶句する。一方で、ああ、と呟いたレオンは、小さな声のままで答えた。
【俺は見てないからな】
「そうじゃなくて」
「ローゼ?」
ひそひそと話すローゼに、夕食の支度を終えたアーヴィンが怪訝そうな顔を向けてくる。
「やはり具合でも?」
「う、ううん。なんでもない!」
ぱたぱたと手を振り、急いで靴を履いたローゼは立ち上がって机に向かった。
* * *
食事の後に湯を使うと言ってアーヴィンは部屋を出て行く。
彼を見送り、ローゼは聖剣を手にした。
「ねえ、レオン。さっきあたしが寝てる間、アーヴィンと何か話した?」
【何も】
「何も?」
【いや、何もってわけじゃないか。まあいずれにせよ、大した話はしていない】
「……本当に?」
【なんだ。疑ってるのか? だったらあいつにも聞いてみろ】
レオンの言葉にローゼは首をかしげる。どこか釈然としない思いは残るものの、ローゼは彼の言葉を受け入れることにした。
明日もまだ魔物が出る可能性があるのだし、そして明後日にはいよいよ北方の領地へ入る。
魔物の出現は格段に減るのでローゼ自身に関することはほぼ心配がなくなる代わりに、アーヴィンの様子に気を配る必要が生じるのだ。余計なことに気を取られているわけにはいかなかった。