遠く、近く
「やっぱり、ないなぁ……」
数ある本棚を見終わった後にローゼは呟いた。
ここはグラス村から王都へ向かう途中の町、その神殿にある書庫だ。
ローゼは各地にある神殿に寄った際、たまに書庫を覗いていた。
【今回は何を探してるんだ?】
「精霊に関する本よ」
【精霊の本? なんでわざわざ本を読む必要があるんだ? 精霊のことが知りたいなら、あいつに聞けば良かったじゃないか】
怪訝そうな声を出したレオンは、一度区切った後にぼそぼそと続ける。
【……それに、少しなら俺も答えてやれるし……まあ、ほんの少しだが……】
くすりと笑い、ローゼは聖剣の柄を撫でる。
「ありがと、レオン。でもね、あたしは別に精霊のことが知りたいわけじゃないの」
ローゼはもう一度書庫を見て回ろうと足を踏み出しながら、小さな声で言う。今の段階で書庫にいるのはローゼだけだが、いつ他の人が入ってくるか分からない。
「他の神殿にも精霊の本は置いてあるのかなって思っただけなのよ」
【ああ。そういえばグラス村の神殿には精霊の本があるんだったな】
「うん」
ローゼは子どもの頃からグラス村の神殿にある書庫へ通っていた。
本当に小さいときは絵本のようなものばかりを読んでいたのだが、ある程度の年齢になってからは難しめの本も読んでいるため、グラス村の書庫にある本はあらかた把握している。
「でも神官様……えーと、ミシェラ様がいらした時にはね、グラス村にも精霊の本なんてなかった気がするのよ」
【ということは、あいつが神官になってから精霊の本が増えたわけか?】
「そう。って言っても、数は多くないんだけどね。でも大神殿の書庫を見た時、何冊かグラス村のと同じ本があったのよ。もしもアーヴィンが一部の本を大神殿経由で入手したなら、どこか別の神殿でも精霊に興味を持った人が本を置いてたりしてないかなーって思ったんだけど……」
残念な気分が増すにつれ、ローゼの声はより小さくなる。そんなローゼを元気づけるつもりなのか、レオンはわざとらしく、ほほう、と明るい声を出した。
【つまり、大神殿の蔵書はさすがってことだな。で? 大神殿とグラス村と、どっちの方が精霊の本は多かった?】
「大神殿に決まってるでしょ。あそこには国中の知恵が集まってるんだもの」
広大な大神殿は、書庫もまた目を見張るほど大きい。独力で目的の本を探し出すのは難しく、ローゼもよく書庫専門の神官に助けてもらっていた。
「古い本は大神殿じゃないと手に入れるのが難しそうだし」
レオンと話しながらローゼは周囲に気を配る。昼間と言えど、書庫の中は薄暗い。
【なるほどな。確かにそういった本は貴重だし値も張りそうだ】
「でしょ」
この町の歴史を記しているらしい本を手に取り、ローゼは相槌を打った。
神殿の蔵書は基本的に神殿のものだ。その代の神官がいなくなっても次の神官にそのまま引き継がれる。
しかし中には神官の私物を置いている例もあるらしい。おそらく精霊に関する本はアーヴィンの私物のはずだ。
「でも精霊に関してなら、本よりもアーヴィンの方が知識は多そうなのにね」
アーヴィンの精霊の知識はかなりのもので、わざわざ本を読む必要があるとローゼには思えない。
大半の人々にとっての精霊は、おとぎ話とまで言ってしまうほど幻の存在だ。ほとんどの人が『いない』と思っている。もしかすると精霊に関する本が世にあるだけでもすごいことなのかもしれない。
そんな本が辺境の村に何冊もあるのだから、アーヴィンは本を手に入れるためにずいぶんと手を尽くしたのだろう。
そのためローゼは時々、アーヴィンが精霊の本を集めて神殿の書庫に置いた理由を考えることがあった。
アーヴィンは故郷につらい記憶を多く持っている。それでも精霊がいるということに関してだけならば北方は良い場所だったのだろう。子どもの頃のアーヴィン――エリオットは彼らの存在にずいぶん慰められたに違いない。
そんな精霊たちがよその地域でどのように書かれているのか興味があったのかもしれないし、あるいは自分の知らない知識があるのではないかと期待したのかもしれない。
私室ではなく書庫に本を置いたのだって、他の本と一緒に管理した方が良いと思っただけ。きっと深い意味は無いはずだ。
しかしその一方で、彼に違う意図があったのならどうだろう、ともローゼは考える。
(……本当は誰かに読んでもらいたかった、とか)
読んでもらって、少しでも精霊に親しみを持ったり、思いを馳せてもらいたかったりしたのかもしれない。あるいは「精霊は幻ではない」という彼なりの主張だったのだろうか。
そんなことを想像するたびローゼは少し切なくなるのだった。
(……アーヴィンがグラス村に来てくれて、本当に良かったわ)
手にしていた歴史の本を戻し、ローゼは再び書庫の中を歩き出す。
今回、グラス村を発つ前にローゼは、アーヴィンに伴われて北の森へ行った。
改めて見る北の森はとても美しく、そして心地よい場所だった。
柔らかな下生えに注ぐ木漏れ日や澄んだ泉などもローゼの目を楽しませてくれたが、やはり一番印象深かったのは精霊たちの存在だ。
確かに数は多くない。北方でたくさんの精霊を見た後では特にそう思う。しかし北方以外でこんなにたくさん精霊の姿を見るのが初めてだった上、故郷の地にいる精霊だということもあってローゼはとても感激したのだ。
森を出る頃にはローゼと、そしてレオンもすっかり北の森が気に入りの場所となっていたため、案内をしてくれたアーヴィンへふたりで口々にそう伝えると、元々北の森を気に入っていた彼はとても嬉しそうに笑ってくれたのだった。
アーヴィンの笑顔を思い出してあたたかい気持ちになりながらローゼは、森を出てからずっと抱いていた質問を口にする。
「でもさ。他の場所にはもう精霊がいないのに、どうしてあそこは精霊が残ってたんだろうね」
【おそらく主がいたんだ】
ローゼが思わず聖剣を見ると、レオンは少し得意げに続けた。
【精霊は地下にいる『闇の王』の力をある程度は防ぐことができる。つまり精霊がいれば付近に瘴穴ができにくくなるわけだ。精霊の数が多かったり、あるいは主がいたりすればもっとできにくくなるな】
そっか、とローゼはうなずく。
「精霊たちの力が増すから、その分だけ瘴穴を防げるってこと? 瘴穴さえできなければ瘴気も魔物も出現しないから、精霊だって瘴気に染まることがないもんね」
【その通りだ。主は守護すると決めた場を全力で守る。しかも強い精霊は弱い精霊を従わせられるからな。あの森にいた小さい奴らは元々、主の意向で森にとどまったのかもしれん】
そこでレオンの声は少し暗くなる。
【……まあ今は、奴らの意思で北の森にいるんだろうがな】
「どういうこと?」
レオンの言葉を聞いて首をかしげ、ローゼは違和感に気づく。
「……あれ? でもこの前は、森に主の姿を見なかっ――」
【主はもういない】
抑揚のない声で言われ、ローゼは口をつぐむ。
主が居なくなったということは、きっと銀狼と同じ状態になったのだ。主の力で防げないほど大きな瘴穴ができてしまい、瘴気に染まって魔物となった。
銀狼はレオンのおかげで精霊に戻ることができたが、もしあと何年か遅ければ彼も魔物となってしまったはずだ。
ローゼはしばらく黙って歩き、扉が見えてきた辺りで呟いた。
「北の森の主、会ってみたかったね」
【……ああ】
本棚の端、低い位置には絵本があった。
膝をついて背表紙を眺めながら、果たして北の森の主はどうなったのだろう、とローゼは思う。
最後まで森に留まったのだろうか。それとも長く親しんだ地を離れ、どこか他の場所へ行ったのだろうか。
いずれにせよ神殿の関係者や聖剣の主、もしかしたら精霊たちによって討たれてしまったことは間違いない。
長く森を守ってくれたはずの主が魔物となって消える。そのことを考えてやるせない気持ちになったローゼはふと、北でもらった絵本のことを思い出した。
レオンは今回の旅にも絵本を持って行きたがったが、彼のために何度もめくった絵本は短期間でかなりボロボロになっており、どう考えても旅に耐えられるとは思えなかった。
持って行きたいレオンと、無理だと主張するローゼは何度も言い合いを繰り返し、最後にはアーヴィンが預かるということで決着がついたのだが、絵本を持って行けないためにレオンはかなりしょげてしまった。
その様子を見たアーヴィンが「フロランの結婚式で北の城へ行った際、新しい絵本を準備する」と約束してくれたおかげで、レオンは何とか元気を取り戻したのだが、正直に言えばローゼは、新しい絵本をもらう必要はないと思っている。
ローゼ自身、何度も絵本を見たせいで内容を隅から隅まで記憶しているのだから、同じだけ見ているレオンが覚えていないはずはない。
「わざわざ旅の荷物に入れる必要はないじゃない。村へ戻ったとき読めばいいでしょ?」
ローゼがそう言っても、レオンは絵本を近くへ置くことにこだわった。
【毎回新たな感動が生まれるんだ。旅の間だって何度も読みたい】
レオンの主張は良く分からなかったが、彼にとっては特別な絵本なのだろう。ローゼは深く追求するのをやめ「じゃあ、北に行くまでは我慢しててよね」と言うにとどめておいた。
ローゼの脳裏に浮かぶのは、その絵本の一場面だ。
『ほかのばしょでは、もうだれも、せいれいを信じていません。だれにも知られず、まものとたたかい、消えていくのです』
古の大精霊はそう言ってシャルトスの女王の前で泣いたのだと書いてあった。
思い出したローゼの胸の奥がきゅっと痛む。
「魔物になったことや、消えてしまうことを悲しむ人が居てくれたら、精霊たちだってほんの少し救われるかもしれないのにね」
【……そうだな。……そうかもしれんな……】
寂しげな声を聞いて胸の痛みはさらに大きくなる。
(……寂しかった。悲しかった。だからみんな集めた。女王がそうしようって言ってくれたから……国には、信じてる人がたくさんいるからって)
痛みを堪えるように胸を押さえ、唇をかんだ。
(……ああ、女王はとっても優しい人だった。とっても精霊を愛してくれた人だった。……なのに、なのに。魔物が、女王を……)
【ローゼ?】
レオンに呼ばれてローゼははっとする。同時に眩暈に襲われ、思わず両手で目を覆った。
【どうした、ローゼ!】
「……なんか……目が回る……」
【まずいな。ここは少し暑いからあてられたのかもしれん。外へ出よう。涼みながら休んだ方がいい。どうだ、歩けるか?】
不安げなレオンの言葉を聞きながら、ローゼは深く息を吐く。
「一瞬だったからもう大丈夫よ。ほら」
立ち上がり、ローゼはその場で軽く跳んでみせる。
【そうか……でも無理はするなよ】
「うん」
レオンに笑って見せるとローゼは扉を開け、そのまま書庫を後にした。