46.結ぶ約束
呆然と瞬きを繰り返すだけのローゼに、アーヴィンはもう一度繰り返す。
「私と結婚してほしい、ローゼ」
「……結婚? あたしと……?」
戸惑うローゼの脳裏に、南のエンフェス村でヘルムートに言われた言葉がよぎった。
『そいつにとっての利点がなきゃ、ローゼなんて厄介な相手を選ぶはずがないだろ?』
ローゼは震える唇を開く。
「……だめ」
出てきたのは、断りの言葉だ。
「駄目よ。アーヴィンはあたしと結婚しちゃ駄目なの」
長椅子から立ち上がり、ローゼは後退る。
互いに「好き」という気持ちだけで動いている今は良い。しかし長い年月を共に過ごす相手として考えたとき、きっとローゼはアーヴィンに相応しくない。
その証拠に、南で、王都で、旅の道中で。ローゼは何度も『アーヴィンが自分を選ぶ利点』を考えたが、最後まで思いつくことはなかったのだ。
「あたしは聖剣の主よ。これからだって村にいられない。あたしと結婚したって、アーヴィンにいいことは何もないもの。ひとりで、村で待ってるばっかりで」
「ローゼ」
ローゼは早口で言い募る。
アーヴィンが立ち上がり、ローゼの方へ足を踏み出した。
「アーヴィンは村の神官様よ。神官補佐になれる人の方が結婚相手に相応しいって、みんな思うに決まってる。あたしだって、そう思う」
「ローゼ」
アーヴィンが近寄った分だけローゼは下がる。
「結婚したいって言ってくれたことは嬉しいわ。ありがとう。でも、アーヴィンは他の人を――」
下がるローゼの背中に壁が当たる。
これ以上は後ろに行けないと分かったローゼは左前方にある扉を目指そうとするが、それより早くアーヴィンに両腕を掴まれる。
振りほどこうとするが、ローゼでは抗えないほど彼の力は強い。
自分はこれでも剣を振るっているのに、と情けなさに歯噛みしたくなるが、よく考えればアーヴィンは人々の仕事を手伝うこともあるし、怪我人を運ぶこともある。彼もきっと、かなり鍛え上げられているのだ。
「ローゼが私のことを考えてくれたのは嬉しい」
断りの言葉を聞いたというのに、アーヴィンの瞳から光は消えていない。
「しかし今は、私のことを考える必要はないんだ」
声にもまた力がある。人々の前で話すことに慣れている彼の声は、ローゼの決意など容易く翻してしまいそうだ。
「ローゼが考えるのは、ローゼ自身が私と結婚したいかどうかだ。――ローゼの中にある気持ちを、私に教えてもらえないだろうか?」
しばらくの間、ローゼは揺るぎない輝きを持つ灰青の瞳を見つめていたが、やがて断ち切るように顔を背けて口を開く。
「やっぱり、結婚はできない」
「だとすれば、ローゼは私のことが嫌い、ということかな」
アーヴィンの声にうなずこうとしてローゼは動きを止め、口を引き結んだ。
――嫌いなはずがない。今は、嘘でも嫌いだと言いたくはない。
執務室の中はしばらく静かなままだったが、アーヴィンが沈黙を破った。
「……なるほど」
ため息をついて彼は呟く。
「良く分かった。ローゼは私が嫌いで、一緒に居たくはない、と。そういうことなんだね」
掴んでいたローゼの腕から手を離したアーヴィンは後ろへ下がる。
ローゼがちらりと窺うと、右手で口元を覆ったアーヴィンは横を向き、表情を見せないままくぐもった声を出した。
「気が付かなくて悪かった。私も、ローゼにそこまで嫌われているとは思わなかったよ」
「ち、違うっ!」
ローゼは思わず彼の腕に取りすがる。
「嫌いなはずないでしょ!」
アーヴィンは横を向いたまま、ローゼと視線を合わせることもしない。誤解されたくないと思いながらローゼは必死に言い募った。
「好きだから結婚できないの! だって考えてみて。もしもあたしと結婚なんてしたら、アーヴィンは待つばっかりの人生を送るわ。ね? それのどこが楽しいの? どう考えても不幸でしょ? あたしは、あたしの幸せがアーヴィンの不幸の上に築かれるなん――っ!」
そこでローゼは、はたと気が付いた。
アーヴィンの横顔からは「そこまで嫌われているとは思わなかった」と嘆くほどの負の感情は見受けられない。
(……あれ?)
訝しく思うと同時に、アーヴィンは力を失わない瞳を向けてくる。ローゼの表情を見て、彼は右手を外した。
その口元には、笑みが浮かんでいた。
「そうか。私との結婚はローゼにとって、幸せなんだね?」
「あ……」
アーヴィンの態度が本音を引き出すための演技だったと知って、ローゼは呆然とする。確かに今、「あたしの幸せがアーヴィンの不幸の上に築かれる」と言い切ってしまった。
小さく笑い、手を伸ばしたアーヴィンはローゼの両頬を包みこむ。
瞳を覗き込まれ、ローゼの鼓動が大きくなった。
「私はね。ローゼと結婚したら、自身が不幸になるとは思っていない。だから結婚を申し込んだ。――いいかい、もう一度言うよ、ローゼ」
鼓動でもかき消されないほどの距離に顔を寄せ、アーヴィンはローゼに囁く。
「私と結婚しよう」
低く響く声は情熱的な瞳と合わさり、ローゼの心の奥を震わせる。
早鐘のような鼓動に合わせて呼吸をしながら、ローゼは唇を開いた。
「あ……のね、アーヴィン。ええと……お願い。教えて」
ローゼはアーヴィンに尋ねたいことがあった。
声に含まれる雰囲気が今までと違うことを感じ取ったか、アーヴィンが手を下ろし、すっと瞳を細める。
「……アーヴィンは……」
こくりとつばを飲み込み、ぐっと表情を引き締めてローゼは尋ねた。
「大きい胸と小さい胸、どっちが好き?」
質問を聞いたアーヴィンは怪訝そうに眉を寄せる。同時に、ずっと黙っていたレオンの吹き出す声が聞こえた。
【おっ、お前っ、まだそれを――】
「大きい方が好きな誰かは黙ってて。……ねえ、アーヴィンは、どっちが好き?」
問われたアーヴィンはしばらく眉を寄せたままだったが、やがてふと笑う。
「……特にどちらということもないな」
「本当に? じゃあ、大きいのは嫌いって言って」
腰の辺りからまたしても吹きだす声を聞きつつ、ローゼが勢い込んで言うと、アーヴィンは笑んだままゆっくりと首を左右に振る。
「言えない」
「どうしてよ!」
ローゼは思い切り渋面を作った。
「本当は、アーヴィンも大きい方が好きなのね!」
「そういうわけではないよ」
笑ったまま、アーヴィンは諭すように言う。
「どちらかが好きなわけでも嫌いなわけでもないから、どちらかを好きと言うことも嫌いと言うこともできない。それだけだ」
答えたアーヴィンは問うような視線で見つめる。
「うーん……うん。だったらいいわ」
しばらく考えてうなずいたローゼは、改めて正面のアーヴィンに瞳を向けた。
今までローゼはいったいどれほど彼に助けてもらっただろうか。
そしてこれからも彼は村にいて、ローゼを助けてくれるというのだ。
彼の人生を、自分のために使わせてしまうのだと思うと申し訳ない。
(だからせめて……あたしは村を出たら必ず戻るわ、この人の元に。待たせっぱなしになんて、絶対しない)
心の中で誓い、ローゼは深々と頭を下げた。
「お願いします。どうか、あたしと結婚してください、アーヴィン」
頭を上げると、アーヴィンは一点の曇りもない晴れやかな笑みを浮かべていた。ただ喜びの感情しか見えない彼の様子に、ローゼもまた笑顔になる。傍らでも実に嬉しそうな声が聞こえ、次いでその気配はすいと途絶えた。おそらく彼は内に籠ったのだろう。
「ありがとう、ローゼ」
聞くだけで心が浮き立つような声でアーヴィンは言い、ローゼの頬にそっと触れる。
「あたしの方こそ、ありがとう、アーヴィン」
ローゼはアーヴィンの瞳を見つめる。
やがて小さくアーヴィンが吹きだした。
「……それにしても、今の質問は……」
喉の奥で笑い、アーヴィンは口角を上げた。見れば彼の瞳に宿る光は先ほどとは違っている。何かを求めるような潤んだ瞳で見つめられ、ローゼの鼓動がさらに速くなった。
アーヴィンはローゼの頬に当てた手を顎へすべらせ、上向かせる。彼の手の感覚にぞくぞくしているうち、熱い吐息をもらす唇が合わせられ、さらに柔らかいものがローゼの舌を絡めとった。
柔らかくうねる感触に初めはただ戸惑い、驚くばかりだった。しかしいつしか生まれた陶然とした感覚が体の中を満たしていく。
思わず腕を彼の首に回すと、彼もまたローゼを手荒くかき抱いた。今までと違うアーヴィンの様子にローゼの体が熱を帯びる。もっと、とねだる声が痺れる頭のどこかから聞こえてくるような気がした。
その時、廊下の奥で人の声がした。
アーヴィンが慌てて身を離す。彼は窓を振り返ると、深いため息をついた。
「……ここは執務室だったか……」
彼の呟きにローゼもまた窓に視線を向ける。来た時にまだ明るかった外は真っ暗になっていた。
日の出と共に開く神殿の表扉は、日が沈むと閉じられる。近づく複数の足音はきっと、表扉を閉めて退出の挨拶をしに来た神官補佐のものだろう。
ローゼはぴしゃりと頬を叩き、むず痒いようなもどかしさを振り払う。服や髪を整えて長椅子の横へ戻ったところで、予想通り執務室の扉が叩かれた。入り口近くへ移動したアーヴィンがちらりとローゼを振り返り、返事と共に扉を開ける。
外にいたのはやはり神官補佐たちだ。
いつもの神官補佐たちに加えてベアトリクス、そして見知らぬ神官補佐と、さらに神官服を着た人物の姿もある。おそらく彼らは町の神官補佐と神官だろう。彼らのことについては、町から村へ戻る道中でアーヴィンから聞いている。
アーヴィンは彼らに向けてにこやかに挨拶をする。神官補佐たちもまたアーヴィンにいつも通りの挨拶をし、室内のローゼを見て驚きと喜びの声を上げた。
さすがに無視することもできないので仕方なくローゼもまた扉の前まで行ったのだが、神官補佐と話をしながらも近くのアーヴィンが気になって仕方がない。
彼の声を聞くたび、姿が視界に入るたびに胸が高鳴り、頬に血が上りそうになる。
「改めてご紹介いたします。こちらが聖剣の主の――」
しかしアーヴィンは先ほどまでの様子が嘘だったかのように、きちんとした態度を見せている。負けてなるものか、とローゼも余裕のある態度を見せるべく必死に応対した。
やがてローゼと挨拶を交わした町の副神官は、
「後でぜひ、私にも南での話を聞かせてください!」
と言い残し、隅の方で申し訳なさそうにしていたベアトリクスと共に去る。
彼らに続いてグラス村の神官補佐たちが退出し、最後に町の神官補佐が「では、今日の夕食は私がお作りしましょう」と言って立ち去った。
執務室は再びふたりだけになる。
ローゼは安堵の息を吐いて、先ほどのように長椅子へ座った。わずかに遅れて横にアーヴィンが座る。
「それに、来客……」
まるで独り言のように呟く彼へ向け、ローゼは笑ってみせる。
「あの人たち、昨日から神殿に泊まってるんでしょ?」
特に意味があって言ったわけではなかったが、うなずくアーヴィンは複雑な表情だ。
ローゼが首をかしげるとアーヴィンは照れたように笑い、何でもない、とばかりに首を振った。
「ところでローゼ。できれば近いうちにご家族へ挨拶に伺いたいが、どう思う?」
「うちへ? 別に構わないと思うわ。えーと、近いうちっていうと、いつ? 明日?」
アーヴィンはきっと、ローゼが無事に帰還した件について家族と話したいに違いない。
そう思っての言葉だったが、黙って見つめるアーヴィンの瞳は何か言いたげだ。
「あれ? 明日じゃない方がいい?」
「……いや」
問い返すローゼに、アーヴィンは頬を緩める。
「そうだな。明日の夕刻に伺うと伝えておいてほしい」
「うん」
答えてローゼは、机の上にあった袋を手にした。
「……ところで、アーヴィン。あたし、アーヴィンに誕生日の贈り物を買ってきたんだけど……」
袋を開け、彼への贈り物を取り出した後に、ローゼは思い切って尋ねる。
「あたしが南で書いた手紙も、贈り物にしたほうがいい?」
「してほしい」
間髪入れずに戻った答えを聞き、うなずいたローゼは中から手紙の束も取り出した。
手紙を渡すのは、結婚を申し込んでくれたアーヴィンへ礼の意味も籠められている。しかし心の中を書き綴った『誰にも見せないつもりの手紙』を渡すのはやはり恥ずかしい。
葛藤の末、顔に血が上るのを感じながら、ローゼは床を向いてアーヴィンに差し出した。
「でもね、これ、あたしがいる時には、読まないで。……ひとりの時に、読んでね」
なぜかしばらく黙ったままのアーヴィンだったが、やがて「分かった」と返事があった。
続いて彼は立ち上がると、受け取った手紙を持って机へ向かったらしい。引き出しにしまう音、戻ってくる足音がしたかと思うと、ローゼは横に座ったアーヴィンに上向かされた。
「……可愛いな」
見つめる灰青の瞳が煌めき、やがて蠱惑的な輝きを湛えたかと思うと、何かに餓えたかのようなぎらりとした様子を見せる。上気したままのローゼの頬が更なる熱を持つと、悩ましい息を吐いたアーヴィンが笑みを浮かべ、唇を重ねた。




