45.ほどける
「……手紙、読んだ?」
ローゼが掠れた声で尋ねると、アーヴィンは首を横に振る。
「読んでいない。ただ持っていただけだ」
「え……何のために……?」
戸惑いながらローゼが呟くと、アーヴィンは申し訳なさそうな、そしてどことなく寂しげな表情を見せた。
「手紙をお守り代わりにさせてもらった」
言って小さく息を吐き、アーヴィンは視線を逸らした。
「私は臆病で弱い。何かしらの縁がなければ、ローゼに会う勇気を出せそうになかったんだ。――情けなくて、がっかりしたろう?」
囁くように言うアーヴィンは、いつしか自嘲するような笑みを浮かべている。
荷物の傍から立ち上がり、ローゼはアーヴィンを抱きしめた。
「しないわ」
腕に力を籠め、もう一度言う。
「がっかりなんかしない」
西へ向かう途中で会ったティリーからローゼは、「聖剣の主の相手として村の神官は良くない」と言われている。村の神官は、聖剣の主と共に旅へ出ることができないせいだ。
それもまた当然かもしれない。特に、ローゼはわざわざ危険に向かって行く立場だ。残される方の心労は並大抵のものではないに決まっている。
事実、見慣れた神官服姿を目にしたローゼは、アーヴィンが痩せたことに気が付いていた。見る機会の少ない私服姿では分からなかっただけだ。
しかし、とローゼは思う。
今回戻って来た時、自分の家族にはあまり心配の色が見受けられなかった。これは本人たちが能天気だと言うせいもあるだろうが、一番はアーヴィンが状況を知らせる際に言葉を選び、不安がらせないよう気遣ってくれていたために違いない。
ある程度の状況が分かる立場にあるアーヴィンは、家族たちとは心配の度合いも違う。だからこそ彼は何を伝え、何を伝えずにいれば良いのかが分かっていたのだろう。
確かにアーヴィンが不安を感じやすいことはローゼも知っている。だが彼が弱いだけの人物ならば、このような気遣いはできないはずだ。
「アーヴィンは、弱くなんてない。ちゃんと芯が通ってる人だって、あたしは知ってるわ。……でも、お願い、手紙は見なかったことにして」
ローゼがおどけたように言うと、アーヴィンからは「分かった」と一言だけ返事があった。ローゼはほっとしながらアーヴィンから離れて膝をつき、袋に手紙を入れて聖剣を鞘に戻す。
改めて立ち上がると、アーヴィンはローゼの背を軽く押して長椅子を示した。
深く考えることなく彼に従ったローゼは、並んで腰かけたアーヴィンに話の続きをしようと口を開きかけたのだが、穏やかな笑みを浮かべている彼の視線に何となく違和感を覚える。
怪訝に思いながら見返すうち、アーヴィンは表情と同じ穏やかな声で言った。
「ローゼ。髪はまだ結っておいた方がいいのかな」
ローゼの髪はきちんと結い上げてある。
村にいる頃は下ろしていることの方が多かったが、今は朝に結い、夜に下ろす生活をしている。もちろん、聖剣を振るう時に髪が邪魔にならないようにするためだ。
「んー、今はもう、下ろしても構わないんだけどね。何かあったらまた結うし」
「では、私が触っても?」
「アーヴィンが? ……うん、まあ、いいけど」
彼の意図が分からないなりにローゼがうなずくと、長椅子の上で体を捻ったアーヴィンはローゼの側を向く。手を伸ばしてローゼの体を抱き寄せ、結い上げたままの赤い髪を解き始めた。
(……え?)
彼の大きな手が、少しずつ髪を解き、丁寧に梳り、そして時々弄ぶ。
まさか彼が髪を下ろし始めるとは思わなかったローゼの中には、驚きと戸惑いが生じた。しかし髪を触られるくすぐったさが、だんだん心地良くなってくる。
思い切って体の力を抜き、アーヴィンの胸にもたせ掛けると、彼がほんのわずかに笑う気配がした。
やがて執務室に響くのはアーヴィンの衣擦れの音だけとなってしまい、ローゼは少し残念な気持ちになる。
(アーヴィン、何か話してくれないかな……)
実を言えば、ローゼはまだまだ話し足りない。
南方の話。王都での話。離れていた時間は長かった。話題はいくらでもある。
しかし今は自分が話すより、アーヴィンの声を聞いていたい気分だった。
頼んでみようかとの思いもよぎるが、この微睡むような心地よさを少しでも味わいたい気持ちの方が強い。口を開く気にすらならないまま彼の手に髪をゆだねていると、やがて頭上から穏やかな声が聞こえた。
「そういえば、ローゼが出かけてすぐ後のことだけどね――」
髪を解きながらアーヴィンが語り始めたのは、本来ならわざわざ聞かせるほどではないものばかりだ。もしローゼが村にいたのなら日々体験していたであろう、他愛もなく、そして馴染みの深いもの。
だからこそローゼはアーヴィンの声を聞きながら、まるで見ているかのように情景を思い描くことができた。
そんな話をいくつ聞いただろうか。
アーヴィンの声が止み、髪を解いていた手がそっとローゼの身を起こした。
離れたぬくもりを残念に思いながら見上げると、灰青の瞳はじっとローゼを見つめている。しばらくそのままだったアーヴィンはふと笑い、ローゼの髪を撫でながら慈しみの籠もった声で囁いた。
「おかえり、ローゼ。よく頑張ってきたね」
瞬間、ローゼの顔がゆがむ。瞳から熱いものがこぼれ落ちた。
「……うん」
彼が抱き寄せてくれたので、ローゼは広い胸にすがりつく。
「初めての所で、知らないことばっかりで、魔物もいっぱいで……本当はね、すごく、怖かったの」
震えながら言うと、彼はねぎらうように背を撫でてくれた。
「……でもね、あたし、頑張ったのよ。えらかったでしょう?」
「そうだね。ローゼの活躍は鳥文で読んでいたよ。すごかったね」
ローゼのくぐもった声に、アーヴィンはいつもの穏やかな声で褒めてくれる。
声を聞き、あたたかい手を感じながら、ローゼはようやく「帰って来た」ような気分になる。そしてアーヴィンにならきっと許される気がして、言うつもりのなかった言葉を口に出した。
「あたし、あたしのままでいてもいいのかな……」
せっかく夢にまで見た『村の外での暮らし』を始めたというのに、さすがに聖剣の主は村娘と立場が違いすぎた。
貴族や大神殿の重鎮たちと肩を並べて話をし、各地で頭を下げられ、魔物へ立ち向かう必要が生じる。
そのたびに「しゃんとしなければ」と自分に言い聞かせているうち、ローゼの心の中には「立派な聖剣の主になるためには、今までの自分が不要なのではないか」との考えが強くなっていた。
今のローゼは、村娘だった自分と聖剣の主になった自分、それぞれとどう付き合っていけば良いのかが良く分からなくなっているのだ。
ローゼが神官服の胸元を握り締めると、アーヴィンは撫でていた手を止める。
沈黙の後、思案する調子で呟いた。
「そうだな。……今まで通りというわけにはいかないだろう。ローゼはこれまでの生き方と違う道を選んだのだから」
でも、とアーヴィンは続ける。
「今までのローゼがあるから、今のローゼがいる。変わっていく必要はあるかもしれないが、これまでのものを捨てる必要はない」
ローゼが見上げると、アーヴィンもまた視線をローゼに向け、微笑む。
「村を出る時は必要なものだけを持って、レオンと共に行くと良い。残りはローゼが帰ってくるまで、私が村で預かっているよ」
ああ、と嘆息して、ローゼは泣きそうな気分で笑った。
(あたし、この人が好き)
もう一度彼の胸に頬を押し付ける。アーヴィンはまた、ゆっくりローゼを撫で始めた。
(この人が欲しい)
ローゼに必要なのは、他の人たちが言っていたような『聖剣の主と共にいてくれる人』ではない。
ただの娘が聖剣の主であることを理解し、聖剣の主がただの娘になることもまた理解している人。その上でローゼがすべてを曝け出すことができ、曝け出しても受け入れてくれる人だ。
そしてそんな人物が、アーヴィンの他にいるとローゼには思えなかった。
(でも……)
唇を噛んだローゼが神官服の胸元を握った時、静かな声に名を呼ばれた。
「ローゼ」
わずかに間を置き、声は続ける。
「私と結婚してもらえないだろうか」
ローゼは彼の腕の中で固まる。
何を言われたのか良く分からなかった。
「……え?」
小さな声で返すと、アーヴィンは優しく肩を押す。身を起こしたローゼが灰青の瞳を見上げると、そこには決意と、そして真摯な思いとがあった。