43.焦がれたともし火
ローゼが屋敷に戻ると、着替えを済ませたヘルムートが出迎えてくれた。
「良かったな」
言って笑う彼に、ローゼも笑ってうなずく。
「ありがとう」
「旅装は客間に置いてある。洗って乾かしてあるからな」
「本当? なんか申し訳ないわ」
ローゼが言うと、ヘルムートは手を振る。
「気にするなよ。まあ、その服は良く似合ってるし、ローゼが気に入ったなら着たままでも構わないぞ。姉も多分文句は言わないと思う」
ということは、とローゼは思う。
今着ているこの薄紫の服は、ヘルムートの嫁いだ姉のうち誰かの物なのだ。
「そう言ってくれるのは嬉しいし、服はとっても素敵だけど、ちゃんとお返しするわ。……でも」
ローゼは首をかしげる。
「旅装を着ていいの?」
旅装は名の通り旅用の服で、動きやすい分、簡素な見た目をしている。
ただしローゼが着ている旅装は大神殿で作られており、魔物の攻撃を通しにくい素材でできているために意外と高価だ。確かに値段だけで言えば借りている服より高いだろうが、場に応じた装いがあるということはローゼにだって分かっている。
確認のつもりで聞いたところ、ヘルムートは困惑した様子を見せた。
「……ローゼが良ければ、いいんじゃないか?」
「そう? じゃあ、この後は旅装にさせてもらうね」
「なんで俺に言うんだ?」
ますます困惑したらしいヘルムートを目にして、ローゼも戸惑う。
「だって、ヘルムートはこのお屋敷の人でしょ?」
「そりゃまあ、一応はそうだが……」
一応、との言葉を耳にしてローゼは気が付く。確かに何度か里帰りをしているとはいえ、ヘルムートは8年の間屋敷から離れていたのだ。おまけにこの後はまた王都へ戻る。彼はもう、屋敷内での権限があまりないのかもしれない
「もしかして、ヘルムート以外の人に言った方がいいの? でもあたし、ヘルムートのご家族がどこにいるか知らないし、勝手に会っていいのかどうかも分からないわ」
「ああ」
ローゼの言葉を聞いたヘルムートは納得したらしく、表情を緩めた。
「挨拶のことなら気にするな。俺から言っておく」
「挨拶?」
しかし今度はローゼが戸惑う。
「挨拶って何? 夕方のご挨拶っていうのがあるの?」
朝起きて「おはよう」と声を交わすように、貴族の屋敷では夕方に挨拶を交わす習慣があるのかもしれない。そう思いながら返したローゼの言葉で、ヘルムートはもう一度困惑した様子に戻った。
少しの間玄関には沈黙が降りていたが、やがてヘルムートがおそるおそるといった具合に口を開く。
「……なあ。ローゼはこの後、どうするんだ?」
「どうするって……言ったでしょ。今日は町に泊まるって。で、明日、村へ帰るのよ」
「いやそうじゃなくて、えーと、なんだ。つまり、どこへ泊まるんだ?」
ヘルムートの言葉を聞いてローゼは目を見開く。
「えっ……だってさっき、ヘルムートが屋敷に来ればいいって……あ、そっか。夕食の話までしてなかったもんね、ごめん! あたし、外で――」
「いや、そうじゃなくて!」
慌てて踵を返すローゼの腕をヘルムートが掴む。
「だから、その、ローゼは宿へ泊まるんじゃないのか?」
「え? なんで?」
ローゼは首をかしげる。
「もしかしてご家族は、あたしを泊めることに反対だった?」
「それはないが……」
「じゃあ、何?」
「……いや……」
歯切れの悪いヘルムートの表情を見ながらローゼが混乱していると、ヘルムートは小さく息を吐く。
「まあいいや。えーと、もう少ししたら夕食になる。着替えを持っていくから、客間で待っててくれ……で、いいんだよな?」
「いいけど……旅装は?」
「旅装のことは気にしなくていい」
「……そう?」
頭を押さえながら玄関を去るヘルムートの背を見送り、ローゼも首を捻りながら客間へ戻った。鏡を覗き込むと、目は赤い。
「……明日、目の周りが腫れなきゃいいけど」
呟き、朝に座っていた椅子へ腰かける。
「ねー。レオンー? どうせ籠ってるんでしょー」
机の上にある聖剣の柄をばしばし叩くと、レオンから返答がある。しかし彼はすぐに黙り、しばらく間をおいて声を上げた。
【なんでこの部屋にいるんだ!】
「なんでって……ヘルムートが泊めてくれるって言ったからに決まってるでしょ。レオンは聞いてなかった?」
【聞いてた。聞いてたが……】
一度絶句し、再度レオンは叫ぶ。
【だからってどうしてまた屋敷に泊まる!】
「馬鹿なの? 今言ったじゃない。ヘルムートが――」
【そうじゃない! ああくそ、アーヴィンはどうした! どこへ行ったんだ!】
「アーヴィンなら宿へ向かったわ」
言いながら、ローゼはマントから取り出した小さな板をそっと両手で包む。
「明日の朝にね。待ち合わせてるの」
* * *
しばらく泣いていたローゼの声が小さくなると、待っていたかのようにアーヴィンの馬が低い声を出す。
ああ、と言ってアーヴィンはローゼの背から手を離し、傍らの葦毛の馬を撫でた。
「ここまでほぼ駆け通しだったからね。……良く頑張ってくれた。宿へ行ったらゆっくりしよう」
「そうなんだ。ええと、ありがとう」
アーヴィンにとも馬にともつかない調子でローゼが言うと、葦毛の馬がぐいと顔を上げ、覇気の衰えない瞳で見下ろす。その様子を見ながらローゼはふと気になった。
昨日の昼過ぎ、この葦毛の馬はグラス村にいた。しかしその時にはもう、アーヴィンは町にいたはずだ。なのに今、アーヴィンと馬が一緒にいるということは。
「ねえ。アーヴィンはもしかして、一度村へ帰った?」
うなずくアーヴィンを見ながらローゼは眉を寄せる。
「ええと……村へはきっと、今日帰ったのよね? なのにまたすぐ町へ来たってこと?」
「そう」
「……どうして?」
「どうして?」
目を丸くするローゼを見てアーヴィンはおかしそうな様子で問い返す。
「ローゼが町にいるからに決まっているだろう?」
「……もしかして、あたしに会いに来てくれたの?」
まさか、と思いながら問うと、アーヴィンは微笑んだ。
「……私はね、ローゼ。村に戻ってようやく分かったことがあったんだ」
「分かったこと? 何?」
「色々とある。……その中のひとつが、ローゼと私はお互い誤解していることがあるらしい、ということだ。だから町へ戻って来た」
アーヴィンは左の手でローゼの頬に触れる。
「私が誰かと結婚するという話を聞いたなら、それは間違いだ。さっきも言ったように、私はずっとローゼを待っていたよ」
「良かった。嬉しい」
再び潤み始める視界を瞬きで澄ませ、ローゼもまた微笑む。
「あたしも一緒よ。……えーと、その、心変わりなんてしてないからね?」
恥ずかしいな、と思いながらもローゼが思い切って言うと、アーヴィンは優しく瞳を細める。
彼は左手でローゼを上向かせ、馬から離した右手で自身の黒いマントを高く引き上げた。アーヴィンのわずかに身をかがめた姿を見てローゼが瞳を閉じると、唇に柔らかいものが触れる。
ただし時間はごくわずかだ。離れたぬくもりを残念に思いながら目を開けると、身を起こしたアーヴィンはどこか名残惜しげな表情を見せている。
きっと自分も同じような顔をしているのだろうと思いながらローゼが余韻に浸っていると、先にアーヴィンが口を開いた。
「私は明日の朝に町を発つ予定にしているんだが、ローゼはどうする? もしまだ、町に用があるのなら――」
「あ、あのねっ、あたしの用も終わったの! だから、あたしも明日、村へ帰る! アーヴィンと一緒に!」
勢い込んで言った後、ローゼは嬉しそうに笑うアーヴィンを見ながら頬を緩ませて続けた。
「でもあたし今日は、ヘルムートの屋敷に泊まる約束をしてるの。だからアーヴィンとは、明日の朝に待ち合わせする、ってことでもいい?」
言うと、笑みを浮かべていたはずのアーヴィンは驚いたように目を見開く。彼の様子を見てローゼは狼狽えた。
「……ええと、待ち合わせは駄目だった?」
宿まで迎えに行くと言うべきだったか、と思いながら問い返すと、アーヴィンはくすりと笑って首を横に振った。
「なんというか、ローゼらしいな。まあ、レオンもいるし……。分かった。では明日の朝、町の南門で会おうか」
「うん!」
アーヴィンの言葉の意味は良く分からなかったが、承諾してくれた以上は構わないのだろう。
浮き立つような気持ちで大きくうなずいたローゼだったが、途端に不安が襲ってきた。
「……ね、アーヴィン。アーヴィンはちゃんとここにいるのよね?」
村へ帰って、心の底から安堵して喜んで。
でも朝が来れば夢だったと知って涙する。
手放しで喜んでしまえばその分だけつらくなるのだと、ローゼは南で何度も経験し、学んでいた。
「あたし、西にいるよね? 本当に戻ってきたのよね? ……今回は夢じゃないよね?」
自身を見上げながら呟くローゼにアーヴィンは何か言おうとしたように見えたが、少しの逡巡の後に小さく首を振って口をつぐみ、代わりにといった様子で服の内側から何かを取り出した。
「では、これを預けておこうか。夢かどうかを疑いたくなったとき、これを見れば少しは安心できるだろう?」
差し出されたものを目にして、ローゼは思わず叫ぶ。
「駄目よアーヴィン! こんな大事なものをほいほい人に渡しちゃ!」
アーヴィンが出したのは神官の身分証だ。
昨年アレン大神官が村に来た時、アーヴィンはローゼに会うためこの身分証をジェラルドとフェリシアに託し、ローゼに持たせた。
あの時は重要性が良く分からなかったが、今のローゼには身分証がどれほど大切なものかが分かっている。これを失ってしまったら、神官は要ともいうべき神聖術が使えなくなってしまうのだ。
慌てて押し戻そうとするローゼの手を取り、アーヴィンは逆にそっと身分証を持たせる。
「そう、大事なものだ。だから明日、必ず持ってきてくれるね?」
囁く彼の声に籠められている想いを感じ取り、しばらく考えた後にローゼはうなずく。
「……分かったわ。明日の朝まであたしが預かる。絶対、持っていくからね」
身分証を胸に抱いたローゼが見上げると、アーヴィンは微笑み、もう一度マントを引き上げて身をかがめた。
* * *
金色味を帯びた板の表には所属神殿の焼き印。裏には階級と、名前がある。その名前を指でなぞりながら、ローゼは笑みをこぼした。
(明日持っていく。南門へ。絶対に)
その時、扉が叩かれた。聖剣の横へ身分証を置き、ローゼは立ち上がる。扉を開けると、立っていたのは使用人だ。ヘルムートの言った通り、着替えを持ってきてくれたらしい。
服を受け取ったローゼは使用人に礼を言って室内に戻る。ローゼに気を使ってくれているのだろうか、服はひとりでも着られそうなものだった。
「じゃ、あたしは着替えるわ。レオンは箪笥の中にいて」
大仰なため息を聞きながら、ローゼは笑う。
「箪笥から出した後は、昨夜みたいに出窓の張り出しに置いてあげるから」
【いや】
しかし意外なことに、レオンからは断りの言葉が戻ってきた。
【出窓はもういい】
「え、なんで?」
ローゼは思わず瞬く。
「外はもう暗いから? ……あれ? でも昨日出窓に置けって言ったのも夜よね?」
【……昨日は置いてほしかったんだ】
「今日はいいの?」
【ああ】
聖剣から小さな笑い声が聞こえた。
【見たかったものは見た。だからもう、出窓に置く必要はないんだ】
呟くレオンの声は、とても慈愛に満ちていた。




