42.光芒
ローゼが思わず「嫌」と言うと、目の前にいるヘルムートは動きを止めてぽかんとする。
一方腰からは、これまで沈黙を守ってきたレオンの声が聞こえた。
【馬鹿か、お前は!】
苛立ちを隠しきれない様子でレオンは叫ぶ。
【神殿へ行けば詳しい状況が分かるのに、どうして行かないんだ!】
「だって!」
レオンの文句にうっかり反応してしまったローゼは、彼の声が聞こえていないヘルムートにも不自然にならないよう、言葉を選びながら続ける。
「……ええと。あたし、元はと言えばうちの母親が言った『アーヴィンの結婚話』が信じられなくてね。アーヴィン自身に否定して欲しくて、町まで来たの」
実を言えば、母親の話が信じられない、というのは少し誤りがある。
ローゼは信じられないというより、信じたくなかったのだ。
「だけど目の前で噂を裏付けるような光景を見たから、これは絶対間違いないって思ってね。アーヴィンは否定じゃなくて肯定するだろうなって考えたら、話をする勇気も無くなっちゃって……」
ローゼは膝の上で拳を握る。
「でもね。ヘルムートが神殿で聞いた話をしてくれたから、あたしも村の噂は嘘かもしれないって思えるようになってね。また話をする勇気も出てきたわ」
見上げると、琥珀色の瞳は心配そうな光を宿してローゼを見ている。
「次こそちゃんとアーヴィン本人から話を聞きたいの。……だから神殿には行かなくてもいいのよ」
ローゼが言いきると、しばらく悩んでヘルムートは口を開く。
「……確かに、ローゼたちの問題だしな」
彼の表情に「自分はお節介が過ぎたのではないか」と書いてあったので、ローゼは慌てて付け加えた。
「あのね。あたしひとりだったら何も分からなかったし、そんな風に思えなかったはずよ。これはヘルムートが神殿で聞いてくれた話をしてくれたおかげなの。――ありがとう」
ローゼの言葉を聞いたヘルムートは黙って風に髪を遊ばせていたが、やがて表情を緩める。
「俺が少しでも役に立てたなら、良かった。……で、ローゼはこの後どうするんだ?」
「今日はセラータを休ませたいから町に残るわ。明日は……」
ローゼは強く拳を握る。
「明日は村へ帰る」
「そうか。じゃあ、村で仲直りできるといいな」
笑うヘルムートにうなずいて、ローゼは長椅子から立ち上がった。
「ところであたし、お腹空いてきちゃった」
「確かにもう昼過ぎだな。食事でもしようか」
「いいわね! おすすめの店なんてある?」
ローゼが尋ねると、ヘルムートは首を捻りながらうなる。
「もちろん。と言いたいところだが、ちょっとあやふやなんだ……」
ヘルムートは大神殿で修業をする8年ほどの間、町を離れていた。大まかなことは覚えているだろうが、さすがに店の案内までは心もとないのかもしれない。ましてや彼は貴族なのだから、出歩くことも多くはなかったはずだ。
「じゃあ、食事ができる辺りへ案内して。あたしが良さそうな店を決めてあげる」
「ローゼに任せると、また露店になりそうだな」
「大丈夫よ。ちゃんと座れる店を選ぶから」
笑いながら馬の綱を解いていると、黒い鞘から小さな声が聞こえて来た。
【……だからあの時、話し合えと言ったじゃないか。まったく、俺を無視するから……】
レオンの声には悔しさと、不満と、そして安堵が含まれている。謝罪の意を籠め、ローゼは聖剣の柄を軽く撫でた。
* * *
ローゼは宣言通り、座って食べられる店を選んだ。
「本当に座れる店を選んだ!」
それだけで妙に嬉しそうなヘルムートを見ながら、ローゼは思わず顔をしかめる。
「どんだけ露店の昼食が嫌だったのよ。不味い店なんてなかったでしょ?」
「まあ、確かに、どれも美味かったな。でもさ、忙しない飯は食った気がしなくて、すぐ空腹になるんだ」
「あれだけ食べてたのに? どういうことよ」
眉尻を下げる大柄な青年を見て、ローゼは呆れた声を出した。
昼を過ぎていたため、店の中は人も少ない。ゆったり食事を終えた後、ローゼはまたヘルムートに町を案内してもらう。店を覗いたり、有名な建築物を見たりした後にヘルムートは前方を示した。
「あの辺りが宿の集まる区域だ。……どうする?」
ヘルムートが問いかけてくるのは、広場で話をする前にローゼが「明日以降も町にいるから、屋敷を出て宿へ移る」という話をしたためだろう。
「ちなみに」
馬上で振り返ったヘルムートは、ローゼに視線を向ける。
「うちの家族へ気を使う必要はないからな」
昨夜の記憶はあまりないにせよ、ヘルムートの家族には朝にも会っている。
ヘルムートの両親でもある、男爵とその妻。
そしてヘルムートの兄、彼の妻、ふたりの間に生まれた幼い娘。
全員がとても気さくだったのは、おそらく当主である男爵の影響が大きいのだろう。
町や村の視察をする際に民との交流もあるのだという彼は、ローゼが平民出身であっても気にすることがなかった。きっと、結婚して家を出たというヘルムートの3人の姉も同様なのに違いない。
(最初に会ったときにヘルムートはあたしに頭を下げたくなさそうだったし、てっきり家族も偉そうで嫌な奴だって思い込んでたけどなあ)
もしかすると、最初に会ったヘルムートが嫌な感じだったのは、彼にとってローゼが『ローゼが身分制の象徴』のように思えたからなのかもしれない。
(平民出身のあたしだけど、聖剣を持った今は伯爵相当の身分があるんだもんね)
そしてヘルムートにとって身分とは、ひとりの女性との間に立ちはだかる忌まわしい高い壁なのかもしれなかった。
小さく頭を振って余計な考えを追い出し、ローゼは宿のある区域と、ヘルムートとを見比べる。
「えーと、そうね。明日には町を出発することにしたから、もう一晩だけお世話になってもいい?」
「もちろん」
「ありがとう。――でもなんで、昨日は屋敷に呼んでくれたの?」
「ん? ああ……その、王都から道案内してくれた礼に、うちで持て成そうかと思ってさ」
「ふうん」
取り繕うような笑みに変わるヘルムートを見ながら、嘘だな、とローゼは思った。
本当は、落ち込むローゼが何かするのではないかと不安だったために違いない。
「ありがとう」
それでも余計なことは言わずに礼だけを述べると、ヘルムートは「いいって」と言いながら片手を上げる。
「俺も助かったからな」
「昼は露店か携帯食だったけどね」
「……まあ、それも良い経験だった」
ため息をつくヘルムートにローゼは思わず吹き出す。合わせて照れたように笑ったヘルムートは馬首を返した。
「そろそろいい時間だな。屋敷へ戻ろうか」
「うん」
うなずき、ローゼも宿のある区画へ背を向けた。
* * *
ローゼの右横にずっと続くのは石造りの塀だ。塀の上からは見えるのは生い茂る木々、その向こうに茶色い屋根がちらちらと顔を覗かせる。門はもう少し先なので、まだしばらくは石壁を見ながら馬を進ませる必要があった。
ヘルムートの屋敷がある区域はとても閑静で、この辺りへ来ると人影はほぼ見ない。考えてみれば用のない人たちは屋敷へ来ることもないのだから当り前かもしれなかった。
だからといって人の姿がないわけではない。屋敷の周囲は兵士たちがきちんと警戒しているのだ。
馬に乗ったままローゼは空へ視線を向ける。雲の合間からは茜色の空が見え、射し込む光もあった。
「今日は雨じゃなくて良かった。できれば明日も晴れて欲しいわ」
「そうだな。村へ戻る間だけでも降らなきゃいいが」
「うん。雲が多いのはしょうがないけど、雨はちょっと困るもの」
言いながら、ローゼは視線を空から横のヘルムートに戻す。
「そういえば、ヘルムートは……」
いつ王都へ戻るのか、と尋ねようとしたとき、雲間から射した一条の光がさっと正面方向を照らす。何の気なしにそちらへ顔を向けたローゼは、思わず息をのんだ。
正面の道に、馬に乗った人がいた。
ローゼは屋敷を右に見ながら進んでるが、屋敷を正面に見ながら来たであろうその人物は、石壁の前で馬を止めて屋敷を見上げている。
羽織っているのは金糸で縁に刺繍が施された黒いマント。着ているのは柔らかな光沢のある白いシャツと灰色のベスト、黒いズボン。通り過ぎる風が彼の短い褐色の髪を揺らす。
乗っている葦毛の馬も含めた様子は古い石壁にも素晴らしく調和しており、そして射す光の影響もあって、1枚の絵のようにどこか現実離れしている。
だからローゼは、目の前の光景が幻なのだと思った。
彼の私服姿を見ることなど滅多にない。そもそも町を去ったはずの彼がこの場にいることはありえないのだから。
やがて、屋敷を見上げていた人物はふと右手側を見る。灰青色の瞳がローゼの姿を捉えた。
「ローゼ」
馴染み深い声がローゼの名を呼ぶ。
この低めの声は、詩を紡ぐときなどに、静かに深く、心へと響く。しかしただ名を呼ぶだけでも沁みることがあると、胸を押さえながらローゼは思った。
その時ローゼの前進が止まる。横から手を伸ばしたヘルムートがローゼの馬を止めたのだ。
彼は馬から降りろ、と身振りで告げる。頭が働かないローゼが指示通りにすると、ヘルムートは笑みを浮かべた。
「馬は俺が屋敷まで連れていく」
言って、彼は前方を示す。彼の意図をうまく把握できないローゼが立ち止まったままヘルムートと、そしてアーヴィンとを見比べていると、ヘルムートはアーヴィンに向かって軽く頭を下げる。
礼を返すアーヴィンの横をヘルムートは馬を牽いたまま通り過ぎ、振り返ることなく門の方へと向かって行った。
場に残されたのはローゼとアーヴィンだ。
ローゼは呆然としながら馬上のアーヴィンを見つめる。アーヴィンもまたローゼを見つめていたが、やがてふわりと笑って馬から降りた。
彼の顔に曇りは無かった。
「ローゼ」
もう一度名を呼ばれ、立ち尽くしていたローゼはわずかに足を動かす。よろめくように進むと、笑顔のアーヴィンが両腕を広げた。
滲む視界の中、ローゼが彼の胸に飛び込むと、あたたかい腕が背に回る。ローゼもまたアーヴィンの背に腕を回した。
香るのは神殿の香。しかしどこか他のものとは違う。これは間違いなくアーヴィンの香りだ。
このあたたかさからも、この香りからも、何年も離れていたような気がする。さまざまな思いが押し寄せる中でローゼは何かを言いたいのだが、何から言えば良いのか分からない。
空回りする思考をまとめ、短い呼吸を繰り返し、ようやく出てきた言葉は
「アーヴィン。け、結婚、おめでとう」
だった。
頭上では一度息をのむ気配がする。やがて、密やかに笑う声があった。
「さて」
笑みを含んだ声でアーヴィンは続ける。
「私は一体、誰と結婚するんだろうね?」
彼はローゼの背に回した腕に力を籠めた。
「ローゼ。私はね、『待っている』との約束を違えていないよ」
アーヴィンの言葉を聞き、ローゼも腕に力を入れる。
――やはり村の噂は嘘だったのだ。
「あっ、あ、あたしだって」
アーヴィンの胸に額をつけ、しゃくりあげながらローゼはやっと声を出す。
「や、約束通り、年が明ける頃には、か、帰りたかったのよ。でも、南で……」
うまく続かず、言葉は途切れる。
それでも気持ちを伝えたくて、うぐ、や、ひっく、といった声を挟みながら、ローゼはわななく唇をなんとか開いた。
「……ほ、本当は、早く、帰りたかった……」
息を整え、ローゼは必死に絞り出す。
「アーヴィンに、会いたかったの……!」
以降は言葉にならない。
アーヴィンの温もりを感じながら、ローゼは感情のままに、ただ涙を溢れさせた。