余話:雨夜の星 2 【挿絵あり】
謀られていたのは気分が悪い
しかも下手をすれば数か月の間、アーヴィンは何も気づいてなかったことになる。さすがにこの事実に思い至った時は己に嫌気がさした。
今は来客もなく、神殿に関する用事はなさそうだ。
とにかく執務室で考えをまとめようと、アーヴィンは礼拝堂の奥にある扉を開ける。この先には目的とする執務室の他、倉庫や私室、客間へと通じる廊下があった。
アーヴィンが廊下へ出ると、何かが落ちる音がする。訝しく思いながら音がした方へ行き、曲がった廊下を覗くと、奥にいた人影が床に散らばった荷物の中からアーヴィンの方を見る。
「あ……」
呟き、青い顔で立ちすくむのはベアトリクス。彼女がいるのは客間の前だ。
そして彼女が持っていたらしい荷の持ち主が誰なのかを、アーヴィンは瞬時に理解した。
アーヴィンはローゼへ客間の使用許可を与えている。神官補佐たちにもそのことを伝え、客間に彼女のものと思しき荷があった場合はアーヴィンに声をかけるだけで何もしないようにと念を押してあった。
荷があるということは、ローゼはこの神殿を信じて、つまりはアーヴィンを信頼して荷を置いているということだ。
――なのに。
アーヴィンはぎり、と奥歯を噛む。
――信頼を裏切らせるような真似は、許さない。
「何をしている!」
声を荒げたアーヴィンはベアトリクスへ近寄り、乱暴に手首を掴む。
「客間の荷には何もせぬよう言ったはずだ!」
ベアトリクスは口を開いたものの、言葉が出ないらしい。漏れ出すのはあえぐような短い呼吸ばかりだ。
「その荷をどうするつもりだった? ――言え、ベアトリクス!」
手にはさらなる力が加わり、掴まれているベアトリクスが小さく悲鳴をあげる。
アーヴィンが尚も言い募ろうとしたとき、背後で扉が開いた。
「わ、私がお願いしたのです、レスター神官」
上ずった声と共に小走りでやって来たのはカーシーだ。彼はベアトリクスの横でアーヴィンに膝をつき、頭を下げる。
「今回はどうしても、この荷がある部屋へ泊まりたかったのです。私が彼女に我が儘を言いまして、荷の移動をお願いしました」
「副神官様……」
ベアトリクスが呆然と呟く。
カーシーはアーヴィンを見上げ、こわばった笑みを浮かべた。
「勝手なお願いをいたしましたのは私です。ですからどうか、ベアトリクスをお許し下さい」
しばらくカーシーを見下ろしていたアーヴィンは、ベアトリクスへ視線を移した。
「本当か」
「あ……」
「本当です、レスター神官」
「私はベアトリクスに聞いている」
怒りのおさまらない目で睨むと、カーシーはわずかに震えた声でアーヴィンに言葉を返す。
「私が、頼みました」
言ってカーシーは立ち上がり、細い手首を掴むアーヴィンの右手の上に自身の手を重ねる。冷たい手は彼の声と同様に震えていた。
「どうか、ベアトリクスをお許しください」
「ベアトリクスが何を考えて何をしようとしたのか、私は知らない」
「ですから、私がお願いして――」
「理由を知らねば、ベアトリクスはまた同様のことを繰り返す可能性がある。それでも何も聞かずただ許せと、そう言うのか?」
アーヴィンの言葉を聞き、何か言おうとしたカーシーは口をつぐむ。
その時、彼に代わるかのように小さな声が聞こえた。
「荷物をどこかへ隠そうと思ったのです」
ベアトリクスは白くなった顔をアーヴィンへ向けていた。
「一度隠して、後でローゼの家へ届けようと思っていました。――本当です」
ベアトリクスは真っ直ぐアーヴィンに視線を向けている。表情を険しくしてもそれは変わらない。
「なぜ、隠す必要があった」
「フォルカーの嘘がばれてしまうからです。ローゼは村へ帰っていない、という嘘が」
嘘、と心の中で繰り返すアーヴィンに、ベアトリクスは続ける。
「フォルカーはアーヴィン様とローゼを別れさせようとしていました。私も、加担しました」
「理由を聞こうか」
「……恋慕していたからです」
「誰が誰に」
「それは……」
言いよどんだベアトリクスはちらりとカーシーに視線を向けて俯く。
カーシーは不安そうな表情のまま、ベアトリクスとアーヴィンとを見つめていた。
アーヴィンは大きく息を吐く。
握っていた手首を放すと、ベアトリクスはわずかによろめいた。彼女の体をカーシーが支える。
「荷は私が片付ける」
アーヴィンがそう言って小さく手を振ると、意を汲んだカーシーがベアトリクスを促す。
頭を下げた後に立ち去るふたりの足音を背中越しに聞きながら、アーヴィンはベアトリクスから聞いた話について考えた。
やはりフォルカーは「ローゼが村へ戻らなかった」という嘘を言った。
昨日のローゼはまず先にグラス村へ戻り、その後に町へ行ったのだ。
先ほどまで考えていたことの確証は取れたが、まだ分からないことがある。
ローゼが町へ行った理由は何だろうか。
――村についたローゼはアーヴィンに関する何がしかの噂を聞き、真相を問うため町まで馬を走らせた。
しかしそれでは、神殿騎士がローゼと共にいる理由が分からない。どう考えても『ローゼは神殿騎士に会うため町へ行った』とする方が理にかなっている。
――結局はそこに帰結するのだ。
ため息をつき、希望を追い出すように首を振ったアーヴィンはその場にかがむ。散乱するものを拾おうと手を伸ばした時、意外なものを見つけて動きを止めた。
どうやらベアトリクスが抱えていた荷はふたつあったようだ。
ひとつは大きい包み。こちらはしっかりと布に包まれており、崩れた様子がない。
もうひとつはあまり大きくない袋。こちらは口が開いている。周囲に散らばる物はこの袋に入っていたのだろう。
見える範囲にあるのは小さな箱やいくつかの小物。そして。
(……手紙)
しかも1通や2通だけではなく、何通もある。そして封筒の表にはローゼの字で一言だけ書いてあった。
『アーヴィンへ』
これはなんだ、と心の中で呟きながら、アーヴィンは1通を手に取った。
ローゼは南からアーヴィンへ手紙を出していない。神殿に届いたのは、ローゼの自宅とディアナへ宛てた2通だけだ。しかしここには何通もの手紙があり、すべてがアーヴィン宛てだった。
手紙を見つめながら、アーヴィンはもう一度、これはなんだ、と心の中で呟く。
手紙は封筒に入っているものの、封はされていない。中身を読むことはできるが、アーヴィンは拾った手紙を開くことなく袋の中に戻した。
やがて荷も手紙もほぼ拾い終わり、廊下に残るのは最後の1通だけになる。
その1通を拾い上げて袋に入れようとし、アーヴィンはふと手を止めた。
――ローゼが何を思って手紙を書いたのかは分からない。だが、気持ちが無いはずの相手にこれほどの手紙を書くことがあるのだろうか。
しばらくの間、封筒に書かれた字を見つめた後、袋には入れずアーヴィンは立ち上がる。
大きな包みと袋に加えて1通の手紙を持ったまま私室へ向かい、机の上に置く。時計に目をやると、時間は昼をわずかに過ぎた程度だ。
(今なら、まだ)
ここで考えていてもローゼが町へ行った理由は分からない。もちろん、神殿騎士との関係も分からないのだ。
手早く神官服を脱いだアーヴィンは私服への着替えを終わらせ、最低限の荷を用意する。最後に先ほどの手紙を入れて口を閉めた。
念のため私室には鍵をかけた上で表へ向かうと、神官補佐たちは私服のアーヴィンを見て驚きの声を上げた。
彼らに向かい、アーヴィンは口を開く。
「申し訳ありませんが、忘れたものを思い出しました。もう一度町へ行ってきます」
神官補佐たちは初め、戸惑う様子を見せた。
それはそうだろう。帰って来たばかりの神官が再度町へ向かうと言い出したばかりか、着ているものは私服なのだ。つまり町へ行くのは神官としての用ではないということになる。なのに、忘れたものがある、とは。
だが、アーヴィンの顔を見つめて神官補佐たちはうなずいた。
中でも例の女性神官補佐は得心のいったような笑みを見せて口を開く。
「ええ、ええ。神殿はお任せ下さいな」
前任の神官ミシェラが大神殿へ戻り、アーヴィンがこの村へ来るまで、神官がいなかった期間は約半年。町にいる神官たちの手も借りつつも村の神殿をなんとか支え続けたのは、今いる5人の神官補佐たちだった。
「でも私たちはあくまでただの神官補佐ですからね。神官様と違って、こなせないことはたくさんあるんです。だからちゃあんと帰ってきてくださいよ」
「もちろんです」
感謝と謝罪の両方を含め、アーヴィンは頭を下げる。
お気をつけて行ってらっしゃいませ、との声を聞きながらもう一度廊下を通り、裏庭への扉を開けると、草の上に座っていたベアトリクス、そして彼女の横にいたカーシーが驚いたように立ち上がった。
「どうされたのです、レスター神官。その格好は」
「町へ行きます」
「町へ? でも、村へ帰って来たばかりなのに」
首を捻りながらも、何かを思いついたらしいカーシーはひとつ手を打つ。
「でしたら、レスター神官が留守の間、私がこの神殿の皆さんをお手伝い……」
言いかけて、先ほどの気まずい空気を思い出したのだろう。カーシーははっとしたような表情を浮かべてもごもごと口ごもる。その様子を見てアーヴィンは、和解の意も籠めて頭を下げた。
「おそらく神殿のことは心配ないと思います。ですがもし、私のいない間に何かあれば、神官補佐たちの力になっていただけませんか?」
「――分かりました! お任せ下さい!」
破顔し、カーシーは力強く請け合った。
続いてアーヴィンは、カーシーの横で不安そうにするベアトリクスへ視線を向ける。
「ベアトリクス」
腕を組みながら彼女の名を呼ぶ声は自然と険しいものになった。おそらく表情も同様だろう。
しかし、とアーヴィンは思った。
ベアトリクスやフォルカーに対しての怒りはもちろんあるが、今の段階で一番強いのはすべてにおいて不甲斐ない自分に対しての怒りだ。その怒りまで彼女たちに向けるのは間違っている。
そもそも今回の件は、アーヴィンがしっかりしてさえいれば、違った展開になったかもしれないのだ。
少しの間悩み、アーヴィンは小さく息を吐く。
「後日、フォルカーと共に詳しい話を聞かせてもらいます。処遇はその時に。……だからといって嘘や偽りを述べることは許しません。良いですね」
言うと、アーヴィンの目を見ながらベアトリクスは「はい」と答える。横に立つカーシーが彼女の手を握った。
ふたりの様子を見てほんの少し頬を緩ませ、アーヴィンは裏庭にある馬屋へ向かう。
「アッシュ」
葦毛の馬の名を呼び、軽く首筋を叩いた。
「お前の足ならきっと間に合う。どうか町まで頼みます」
アーヴィンの言葉に、北方から来た牡馬は傲然と顔を上げる。彼の様子はまるで「任せろ」と言うかのようだった。
笑みを浮かべたアーヴィンは馬の支度を終えて外へ出る。雲は厚いが、わずかに空は明るい。今日は雨に降られることがなさそうだ。
馬に乗ったアーヴィンは大きく声をかけて町を目指す。
ローゼよりも体が重い分だけ到着までの時間はかかるだろうが、出発する時間はローゼより早いはずだ。
だとすればアーヴィンも、今日の夕方までには町へ着くに違いない。
昨日のローゼと同じように。