40.蒼然
椅子に座ったローゼは、出窓から外を眺めていた。
張り出し部分には聖剣が置いてある。
確か昨夜、レオンがここに置けと言ったのでその通りにした気がする。しかしなぜ、張り出し部分に置いて欲しいのかまでは聞いていない。
いや、もしかすると聞いたのかもしれないが、実を言えばローゼは昨日のことをあまり覚えていなかった。
神殿から出て馬に乗った後、ヘルムートが自邸へ案内してくれたという記憶はある。しかし彼の家族に紹介され、客間を用意してもらった辺りになるとかなり曖昧だ。
食事も出してもらったはずだし、朝の状態から考えると昨夜は湯も使わせてもらったらしいが、この辺りの記憶は全くない。
おまけに着の身着のままでグラス村を飛び出してきたローゼは着替えもないが、起きると寝間着を着ており、部屋には着替えの服も用意がある。
おそらくラウフェルズ家で用意してくれたものだろうが、これらに関してもやはり覚えはなかった。
ただし、ローゼは覚えていなくても、レオンは覚えているはずだ。
彼に聞いてみれば良いのだが、朝のそっけない挨拶から察するに、どうやらレオンはかなり機嫌を損ねているらしい。それでも尋ねたことには答えてくれるかもしれないが、今は気が滅入るようなやり取りをしたくない。
レオンの方も同じ気分なのだろう。お互い朝の挨拶をして以降は何も話していない。結局、身支度を終えたローゼは他にすることもないので、静かな部屋でただぼんやりしているところだった。
時間から考えると日は昇っているはずだが、灰色の雲が厚いせいだろう、外は朝とも夕ともつかない様子で、陽の光も部屋に射し込んでこない。
今の心の中によく似ていると思いながら、重い息を吐いたローゼは力なく机に額をつける。動きに合わせ、結っていない髪も一緒にだらりと垂れた。
(全部夢だったら良かったのに……)
ローゼは目をつぶる。
(あれからまだ、1日経ってないなんて。……村へ到着したら、アーヴィンがいなくて。……お母さんが、変な話を……)
そこまで考え、ローゼは目をつぶったまま眉間に力を入れた。
母の話は嘘ではなかった。
頭の中に浮かぶのは昨日の夕方、町の神殿で見たアーヴィンとベアトリクスの姿だ。
途端に行き場のない悲しみがまた押し寄せ、胸の奥が締め付けられるように苦しくなる。せめて泣くことができれば少しは楽になれるのかもしれないが、昨日の村で泣いたのを最後に涙は出なくなっていた。
どうにもできない気持ちを抱えて瞳を閉じていると、廊下から部屋の扉が叩かれる。
「おはようございます」
ローゼが黙ったままでいると、もう一度遠慮がちな女性の声がした。
「……あの、お客様?」
逡巡していたらしい彼女の靴音が急ぎ気味に遠ざかる。やがてふたつの靴音が近づいてきたかと思うと、今度は強めに扉が叩かれた。
【ローゼ】
沈黙を守ったままだったレオンが低い声を出す。
【礼儀は守れ。お前はこの屋敷の客人だ】
仕方なくローゼは姿勢を変えずに返事だけをする。レオンのため息が聞こえた。
返事を聞いたからだろう、右手側から扉の開く音がする。女性のあげる小さな声が聞こえ、同時に誰かが部屋へ入って来た。
「ローゼ、どうした。大丈夫か!」
慌てたような声はヘルムートのものだ。
(……あたしはヘルムートの招きに応じて、この家の客人になった)
ローゼはレオンの言葉を反芻する。
(しっかりしなきゃ。しゃんとしなきゃ)
体を起こして顔向けると、ヘルムートはローゼの横に膝をついたところだった。
「おはよう、ヘルムート。ごめん、なんでもない」
不自然にならないよう気をつけながら、ローゼは不安そうなヘルムートへ精一杯の明るい声を出す。
「今しがたまではちゃんとしてたんだけどね。みっともないところ見せちゃったな」
「本当か? 実は具合が悪いんじゃないのか?」
「ぜーんぜん。あたしの体は頑丈にできてるの。何の問題もないわ。でも性格は、ぐうたらだから、つい、ね」
ローゼが冗談まじりに言うと、少しの間様子を窺っていたヘルムートは小さく息をついて体の力を抜く。もう一度、ごめんね、とローゼが言うと、ヘルムートは首を横に振った。
「平気ならいいんだ。朝食はどうする? 食べられそうか?」
「もちろんよ。……って、いただいてもいいならだけど」
図々しかったような気がしてローゼが付け加えると、ヘルムートは笑いながら立ち上がる。
「当たり前だろ? ローゼは俺が招いたんだからさ」
言って入り口に向かって手を上げる。ローゼが顔を向けると、頭を下げて女性の使用人が廊下の奥へ去って行くところだった。
先ほど部屋へ来たのはきっと彼女だ。ローゼを起こしに来たが反応がないため、ヘルムートを呼んだのだろう。
「朝食は部屋へ運ばせる。で……その」
言いよどむヘルムートに首をかしげながら、ローゼもまた椅子から立ち上がる。
「なに?」
「……もしローゼがこの町へ来るのが初めてなら、せっかくだし、朝食の後にでも案内しようかと思うんだが……」
ジェラルドほどではないにせよ、ヘルムートも一般的な男性より大柄だ。顔立ちも凛々しい。しかしまごつく彼の様子は、どことなく小動物を思わせた。
見た目に合わず可愛い、と微笑ましく思いながらローゼは笑みを浮かべる。
「あたしね、町へ来たことはないの。話に聞いたことがあるだけ。だから案内してもらえると嬉しいわ」
ローゼの言葉を聞き、ヘルムートはぱっと顔を輝かせた。
「そうか! じゃあ朝食の後、迎えに来る!」
嬉しげに部屋を出ていく姿を見送って、ローゼは壁際に向かう。
客が女性だから用意してくれたのか、それともこの屋敷の客間に必ずあるのかは分からないが、今いる部屋には鏡台があった。
鏡台の前には、いつもローゼが腰につけている小さな物入れがある。昨日グラス村を出る時に唯一持ってきた、というより腰につけっぱなしだった荷物だ。
中にあるのは主に薬や路銀だが、身支度用の品もいくつか予備として入っている。
鏡台の前にある椅子へ腰かけたローゼは、物入れから道具を取り出して髪を整え始めた。
* * *
「朝、髪を下ろしてただろ?」
強い風が吹いた後、なびく髪を払いながら、いつもの馬に乗ったヘルムートが声をかけてくる。
「実を言えば俺、髪を結ったローゼの方が好きだ。凛としていて綺麗だと思う」
屈託なく笑うヘルムートに向け、ローゼも笑みを返した。
「そう? ありがと。でもね、村にいた頃は流してる方が多かったの。家の手伝いをする時に結んでたくらい。きちんと纏めるようになったのって、実は聖剣を持ってからなの」
「ああ、分かる。魔物と戦う時、邪魔になるよな」
アストラン王国の西方で多く見られる赤みがかった髪の中でも、ローゼのように鮮やかな赤はかなり珍しいということもあり、ローゼは髪を密かに自慢としている。長く伸ばしていたのも実はそのためだ。
「……でもね、最近はもっと短くしてもいいかなって思ってるの」
魔物に近づくことが多いため、神殿の関係者は髪を伸ばす決まりになっている。瘴穴や魔物の発する瘴気に染まって黒くなった時、分かりやすいというのが理由だ。
それでも肩の下くらいまであれば問題ない。今のように腰まで伸ばす必要はないのだ。
「切るのか? 勿体ないな。せっかく綺麗なのに」
「んー、でもちょっと長すぎる気がするのよ。……なんか重くなってきたから、すっきりしたいし……」
小さな声で呟いた後半部分は彼の耳に届かなかったようだ。ヘルムートは物問いたげだったが、それには気付かないふりをしてローゼは話を続ける。
「でも、ヘルムートだって長いよね。あたしとあんまり長さ変わらないでしょ。神殿騎士でそこまで髪が長い男の人ってほぼ見ないけど、なんか理由でもあるの?」
「……最初に大神殿へ行った時、褒められたんだ。いい色だ、こんな色を見るのは初めてだ、って」
「だから長くしたの? ヘルムートって時々、可愛いところあるよね」
ローゼが笑うと、ヘルムートはわずかに顔を背ける。
「で、誰に褒められたの?」
ヘルムートのような赤みがかった金も、西方以外ではあまり見ない。
この色を褒めるということは西の人ではないのだろう、と思いながら尋ねると、ヘルムートは完全に横を向いたので、ローゼからは表情が窺えなくなった。
「神殿騎士見習いの同輩」
ようやく聞こえるくらいの声で言った後、声を普段通りに戻してヘルムートは前方を指さす。
「ほら、あれがこの町の商業地区だ。グラス村から来た人が良く行くのはあの辺だと思うぞ」
「え? あ、そうなんだ」
どうやらヘルムートはこの話を続けたくないらしいと悟り、ローゼもまたヘルムートが指し示す方向へ顔を向ける。
「ねえ、宿もあの辺にあるの?」
「宿? 宿はまた違う区域になるが……どうした?」
「うん。今日の宿はどこにしようかなと思って」
ローゼが今乗っている馬はセラータではない。さすがに昨日は無理をさせたようで、今日のセラータは大層疲れている様子だったため、ラウフェルズ家にいる馬の一頭を借りている。
ローゼが自分以外の馬に乗ると知ったセラータは大いに不機嫌な様子を見せたが、それでも今日は疲労の色が濃い彼女を休ませようとローゼは決めたのだ。
(だから、村へは帰らない……ううん、帰れないのは、仕方ないよね)
アーヴィンは今日、間違いなくグラス村へ戻る。村に神官はアーヴィンしかいないのだから、長く神殿を空けるわけにはいかないためだ。事実、昨日グラス村で会った神官補佐もそう言っていた。
つまり、ローゼは町にいる限り、アーヴィンに会わずに済む。
ただ、村の神殿には荷物を置いてきている。
フロランから預かった品々や、なにより『誰にも見せるつもりのない手紙』をなんとかしなくてはいけない。分かっているのだが、ローゼはまだアーヴィンに会いたくなかった。
(荷物はしばらく神殿の客間に置かせてもらおう。どうせ誰も泊まりになんかこないし、アーヴィンは意味もなく人の荷物を開けたりしないから平気……)
彼のことを考えるたびにずきりと痛む胸を押さえたところで、ヘルムートの声がする。
「うちの者たちが何か失礼でも?」
視線を戻せば、ヘルムートは眉を寄せている。
彼の見せている雰囲気は、友人に対するものではなく、客に向ける主の様相だ。
ローゼは慌てて首を横に振った。
「そんなことないわ。親切にしてもらってる。ただ、今日からは宿に移ろうと思って」
「どうして。やっぱり何かあったのか?」
「違うわ。人の家に何日もいるわけにはいかないからよ。それだけ」
「……何日も?」
怪訝そうにヘルムートは問いかける。
「馬を休めるために今日は村へ帰らないだろうと思っていたが……もしかすると今日だけじゃなく、明日以降も町にいるつもりなのか?」
「……うん」
ローゼが小さく返事をしたところで、馬は開けた場所に出る。町中に設けられた広場のようだ。
間隔を置いて植えられた木は緑の葉をそよがせ、木陰には長椅子の置かれている場所もある。しかし今日のように天気の悪い日はあまり人気が無いのだろう、座っている人の姿はほとんどなかった。
そんな長椅子のひとつをヘルムートは示す。どうやら彼は落ち着いて話をしたいようだ。仕方なくローゼは馬から降りて近くに繋ぎ、先に座るヘルムートの横に腰かけた。
「なあ、ローゼ。ローゼは、アーヴィン・レスターがいるから町へ来たんだろ?」
アーヴィンの名を聞いてローゼの胸が再び痛む。
「グラス村にあいつがいないから町へ来たのかと思ったが、それにしては昨日の神殿から……」
言葉を濁して、ヘルムートはローゼに顔を向ける。
「おまけに何日も町にいるってことは、ローゼは村へ帰りたくないってことだよな」
「……うん」
ローゼの返事を聞き、ヘルムートはため息をつく。
「昨日俺と別れた時は『村へ帰ることができる』ってあんなに嬉しそうだったのに。――一体どうした。何があったんだ?」
彼の声に含まれているのは好奇ではなく、ただ案ずる響きのみだった。