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余話:紅雨 1

 神殿から出たアーヴィンの目に飛び込んできたのは、待ち焦がれていた娘の姿だった。


 南が落ち着いたことは大神殿からの連絡で知っている。

 以降は夜中に執務室で鳥文を確認することもなくなっていた。


 それでも不安な気持ちが消えたわけではなかったのだから、こうして戻ってきてくれる日をどれほど待っていたことだろう。


 胸が詰まって声が出せない。


 何度も深く呼吸をして、ようやく彼女の名を呼ぶと、赤い瞳がアーヴィンを捉える。

 喜びに湧き立つ心のまま歩み寄ろうとしたとき、視界の端にひとりの青年が目に入った。


 彼は赤い髪をした娘の背後に立ち、親しげに彼女を抱き寄せる。


 同時にアーヴィンは気が付いた。彼女が自分に見せている顔は、出発前とまるで違う。

 こぼれるような笑顔を向けてくれていたはずの彼女は今、(かげ)りのある表情でアーヴィンを見つめていた。


(これは、何だ)


 自問するが、もちろん答えなど分かっている。


 青年が娘の耳元で何事かを囁いた。

 信頼に満ちた瞳で彼を見上げてうなずいた後、ローゼは視線をアーヴィンへ戻す。


 彼女の瞳は青年に向けたものとは打って変わり、憂いに満ちていた。


「あのね、アーヴィン。あたし――」

「言わなくても良い、ローゼ」


 先ほどまで感じていた喜びが全て悲嘆と絶望に変わり、身の内で荒れ狂う。

 しかしそれらを押し込め、アーヴィンはいつものように笑みを浮かべた。


「良い人に巡り会ったんだね」

「……うん」


 頬を赤く染めたローゼは青年に寄り添い、彼の胸に手を置く。

 青年もまた、ローゼの手を握り返した。


 まるで、互いは互いのものだ、と宣言するかのように。


 目の前の光景に理性は弾けそうになる。

 みっともなく叫びそうになるのをそれでもなお堪え、アーヴィンは努めて穏やかな声を出した。


「もしかしたら、いずれローゼが誰かを連れてくるかもしれない、とは思っていたよ」

「そうなの?」

「もちろん。世界は広いからね。狭い村で暮らしていた時とは違う」


 だが本当はそんなことが起きて欲しくないと思っていた、と続けることは意地で耐える。

 彼女の中に、自分の未練たらしい姿を残したくはなかった。


「それに私は、ローゼが誰かを連れて来れば身を引こうと思っていたんだ。……どうか、彼と幸せに」


 しかし、この言葉に偽りはない。

 アーヴィンが望んでいるのは、ローゼが真に幸せであることだ。


 ほっとした様子のローゼに笑ってみせ、ふたりに背を向ける。

 ありがとう、との声を聞きながら拳を握り締め、そして。


 痛みと共にアーヴィンは目を覚ます。

 手のひらには今日も血が滲んでいた。


 視線を移すと、いつものように外はまだ暗い。己を不甲斐なく思いながら、アーヴィンは扉の外の気配を探る。


 いつもならこの神殿の夜は自分しかいないので気を使う必要はないが、今日は町からの客人が神殿内に泊まっている。もしも夢にうなされたアーヴィンが大声を出していたら、起こしてしまう可能性があった。


 しばらく待ち、特に何事もなさそうな様子にほっとする。

 それでもやはり眠れそうにはなかったので、小さく聖句を唱えたアーヴィンはいつも通り早すぎる身支度を始めた。



 ――今日は、ベアトリクスを町へ連れていく日だ。



   *   *   *



 実を言えば、ベアトリクスに結婚の話が持ち上がったのは昨年のことだ。


 秋の祭りが終わり、ローゼが王都へ旅立ってしばらくした頃に、若い副神官がグラス村へ挨拶にやってきた。


 王都出身だった彼は町の神官になりたいと希望を出し、先ごろ西の町へと来たばかりらしい。


「おかげで、新たな聖剣の主様ご出身の村へ来ることが叶いましたよ」


 そう言って彼は、茶色の髪を揺らして笑った。


 しかし2日程度の滞在予定だった町の副神官は、なぜか理由をつけてその後もグラス村に滞在を続ける。

 7日たち、さすがに訝しく思ったアーヴィンが問いただすと、彼はうなだれて呟いた。


「……実はこの村に、気になる女性ができてしまったのです……」


 彼女のことが気になって町へ帰ることができなかった、と副神官は言う。


 その女性がベアトリクス・タークだった。

 

 ベアトリクスのことを教えて欲しいと頼む彼に、アーヴィンは簡単な説明をする。副神官は、自身の2つ年上である彼女が独身なことを喜び、体の弱さを聞いて口を引き結ぶ。


 美貌の彼女はその体の弱さが欠点だ。

 アーヴィンは、副神官もまた諦めるのだろうと思っていた。


 だが意に反し、一晩考えたという彼はアーヴィンにきっぱりと告げる。


「やはり私は彼女が忘れられません。レスター神官、どうか私にベアトリクスをご紹介願えませんか」


 アーヴィンが彼をベアトリクスの家の連れて行くと、話を聞いたベアトリクスだけでなく彼女の両親も、驚きのあまりしばらくは何も言えなかった。


 無理もない。


 成長するにつれてずいぶん丈夫になったとはいえ、それでもベアトリクスは季節の変わり目に長く寝付くこともある。結婚相手を探すのはかなり厳しく、家族も本人も生涯独身であることを覚悟しているとアーヴィンも聞いていたのだ。


 しかし若い副神官は、情熱的な瞳をベアトリクスに向ける。


「すべてを承知でお願いします。どうか私の妻となっていただけませんか」


 会ったばかりの男性にいきなり妻とまで言われ、ベアトリクスも彼女の両親も逆に困惑したようだ。


 副神官をを宥めつつ、アーヴィンとベアトリクス、そしてベアトリクスの両親は話し合いを行い、いくつかの話をまとめた。


 まず重要なのは彼女の体のことだ。


 神官の妻や夫は神官補佐となるのが慣例となっている。実際にベアトリクスが神官補佐の仕事をこなせるかどうかを、グラス村の神殿で試してみようということになった。


 だがもし、ベアトリクスが雑務をこなすのが難しいならば、また話は少し変わってくる。そのため正式に決まるまでは結婚の話を黙っていて欲しい、とベアトリクスの両親はアーヴィンに頼んできた。


「一度は話がまとまりかけたのに結局は駄目だった、となれば娘が不憫です」


 しかし、困ったのはアーヴィンだ。


 もしも彼らの話を了承すれば、ベアトリクスは特に理由もないまま神殿に働きにくることとなる。

 噂話に目がない村人たちの口からどんな話が出てくるのかは容易に想像ができた。


 しかもその話を、村に戻って来たローゼがうっかり聞いてしまう可能性もある。

 彼女に余計な話を聞かせて思い煩わせたくなどない。


(もちろん、ローゼが私に心を残してくれていればの話だが)


 そんな自分勝手なことも考えつつ、どうしようか悩んだ末にアーヴィンはうなずいた。


「分かりました。ベアトリクスのことはまず、グラス村の神殿でお引き受けいたしましょう」


 自分が村を離れることはほぼない。帰って来たローゼが妙な噂を聞いたとしてもすぐに否定できるだろう、とアーヴィンは考えたのだ。


「ベアトリクスが雑務を行う真の理由は他言しません。今いる神官補佐たちにも言い含めておきます。――そして十分働けると判断した時は、改めて話を詰める、ということでよろしいでしょうか」


「もちろんです!」


 副神官と、両親の顔が明るくなる。


 4人の視線を受け、美しい顔に笑みを浮かべたベアトリクスもまた「よろしくお願いします」と副神官とアーヴィンに頭を下げる。


 そして年が改まる頃から、彼女は神殿に来るようになった。


 確かに体力に関しては多少の不安が残るものの、彼女はその聡明さを発揮し、神官補佐として十分な仕事をしてくれる。

 これなら大丈夫だろうと考えたアーヴィンは、ベアトリクスを神官補佐と認め、町の神殿とも何度かのやりとりを繰り返した。


 ――しかし。


 やはりアーヴィンとベアトリクスとのことは村で噂になっているらしい。


 らしい、というのはアーヴィンは面と向かって言われたことがないからだ。どうやら村人たちはこの噂を聞かせたくないようで、アーヴィンが近寄るとすぐに話題を変えるか、その場から去ってしまう。

 表立って言われればまだ何とか出来るのだが、影でこっそり言われてるだけの状態ではさすがに対処するのは難しかった。


 さらに面倒なこととして、出かける前のローゼからは関係を公にしないよう頼みこまれている。


「どうして?」


 アーヴィンが問いかけると、ローゼは顔を背けた。

 不審に思って無理に顔を覗き込むと、彼女は耳まで真っ赤にしている。


「……だって。みんなに知られるのは、なんかまだ、恥ずかしい……」


 恥じらうローゼの姿は珍しい。しかも思いのほか可愛かった。

 その姿を見ながら惹きこまれるように了承してしまったのだが、今となっては悪手だった、とアーヴィンはこっそりため息をつく。


(ローゼとの関係を言うことさえできれば、噂などすぐに消えるものを)


 今日明日と自分はグラス村を離れる。この間に運悪くローゼが帰ってくれば、村の中で噂を聞いてしまうかもしれない。


 そうなれば、彼女はどのような反応をするだろうか、とアーヴィンは考えた。


(怒るだろうか。悲しむだろうか)


 すぐに「誤解だ」と言うことができないのはつらい。


 それに、アーヴィンの心へ影を落とす事柄はもうひとつあった。


(噂を気にする必要があるのは、ローゼがレオンとだけ戻って来た場合の話だ。もし――)


「もし、あいつが別の奴を好きになってたら」


 まるで心を読んだかのような言葉に、アーヴィンはぎくりとする。

 顔を上げると、フォルカーがアーヴィンに視線を向けていた。


「俺はその場で姉さんを連れて帰りますよ」


 考えに沈んでいたアーヴィンは、とっさに言葉が出てこない。

 代わりにフォルカーの隣に座っていたベアトリクスが(たしな)めるような声を出した。


「フォルカーったら。前から言っているでしょう? アーヴィン様に対してそんな失礼な態度を取っては駄目よ」

「……ごめん、姉さん」

「私ではなくて、アーヴィン様に謝りなさい」

「……すみません」


 ベアトリクスに叱責されたフォルカーは、ぼそぼそとアーヴィンに謝る。

 彼に首を振って見せ、アーヴィンは小さく息を吐いた。


 今、3人がいるのは町へと向かう馬車の中だ。

 御者は町の神殿から来た、屈強な神官補佐が務めてくれている。彼が昨日、グラス村まで馬車を運んできていた。正式にグラス村の神官補佐となったベアトリクスを町で神官たちと会わせるために。


 彼女に関する最終判断は町の神官たちに委ねることになるとはいえ、アーヴィンが認めている以上はただの形式的なものにすぎない。


 つまり今日、ベアトリクスは副神官と婚約をするも同然なのだった。


 これにどうしても同行したい、と頭を下げたのがフォルカーだ。


「俺は姉さんが結婚を決める話し合いには参加できなかった。その分、姉さんが嫁ぐ場所っていうのをこの目で見て納得したいんです」


 町の神殿からも許可が出たため、彼は姉と共に町へ向かうこととなったのだが、アーヴィンは正直に言ってフォルカーの同行をあまり歓迎していなかった。


「だけど俺は不安なんだよ、姉さん」


 馬車の正面に座るアーヴィンの方をちらりと窺い、フォルカーは言う。


「誰かのことを好きだと思っててもさ、離れることが多かったら、近くにいる相手の方が良く思えるかもしれないだろ? ……あいつが心変わりしてるかもしれないじゃないか」


(またか)


 アーヴィンは湧き上がる不快な気持ちを顔には出さないよう、努めて平静を装った。


 フォルカーはこのところ、アーヴィンの前でいつも同じ話をする。

 それは、遠く離れている者同士が心変わりをしてしまうことに関する不安だ。


 確かに副神官が住んでいるのは隣の町、グラス村からは半日ほどの距離だ。村内ではないのだからベアトリクスとはそう簡単に会うことはできない。


 それでも副神官はベアトリクスに会うため、時々グラス村にも来ているのだ。

 フォルカーが言うほど不安に思える状態ではないはずだった。


「そんなことを言うものではないわ、フォルカー。だって副神官様は、頻繁にお手紙を下さるのよ」


 対してベアトリクスはそう言って毎回フォルカーを諫める。


「しかも、とっても長いお手紙なの。読むたびに、こんなにも長い文章を私のために書いて下さるんだ、って幸せな気分になれるのよ。……ね、アーヴィン様?」


 ベアトリクスが話すのも、いつもと同じ内容だった。


 弟が遠く離れている者同士の不安を言うと、姉は頻繁に届く長い手紙の喜びを語る。


 確かにふたりは、ベアトリクスと副神官の境遇を語っている。他には何の意味もないはずだ。


 だがこの姉弟の話を聞くたび、アーヴィンの心の中はざわめく。


「ええ、確かに。副神官殿はベアトリクスのことをとても思っていらっしゃいます。――ですからベアトリクスはきっと幸せになれますよ、フォルカー」


 そしてふたりに向けて微笑むたび、アーヴィンの心の中には少しずつ積もるものがあった。


(離れる不安。手紙)


 アーヴィンは以前、ディアナへ語ったことがある。

 きっとローゼは、アーヴィンへ何を書いて良いか分からなくなった。だから手紙を出さなかったのだと。


 ローゼを良く知るアーヴィンには、それに間違いはないはずだという確信がある。

 ただ、もうひとつの不安が大きくなってきているのも否定できない事実だった。


(もし、私への気持ちがなくなったために、ローゼが手紙を出さなかったのだとしたら――)


 町への道は悪路の部分に差し掛かっている。

 ときおり大きく揺れて軋む馬車の音を聞きつつ、アーヴィンは窓の外へ目を向ける。


 このところ西の天気は悪く、今日も空を覆う雲の色は暗い。


 おそらく町へ入る前には雨が降りだすだろう。

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― 新着の感想 ―
[一言] ぎゃあああ! い、行き違いですか!! しかも状況がうまくかみ合いすぎてて、お互いに疑いが出てる上、フォルカーが悪意ある噂をひろげてしまったから……! 拗れること必至……ですね。 フォルカーが…
[一言] アーヴィ〜ン!!!(´༎ຶོρ༎ຶོ`)(´༎ຶོρ༎ຶོ`)(´༎ຶོρ༎ຶོ`) なんて事だ!なんて事だ!なんて事だ!!! もう、やっぱりアーヴィンはローゼ一筋だったんじゃないか〜 。…
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