36.雨声 1
「ちょっと雲行きが怪しいね」
西の空に広がる黒い雲を睨んでローゼは呟く。
【まあ、村へ着くまではもつだろう】
「そうね。でも、少し急いだほうが良さそう」
【お前が急ぎたいのは別の理由だろう?】
揶揄するようなレオンの言葉に照れ笑いを浮かべ、ローゼは後ろを向く。
「ヘルムート」
後方にいた青年が横に並んだのを見て、ローゼは前方の分かれ道を指さした。
「あの道を北へ進めば町に着くわ。小さい道は無視して、大きな道をずっと行くのよ」
「分かった」
ここからグラス村まではそう遠くないが、町までは少し距離がある。
それでも迷うほどではないはずだった。
「じゃあ、ここでお別れ。気を付けてね。また大神殿で会いましょ」
そう言ってローゼが手を振ると、ヘルムートは一瞬何か言いたげな様子を見せる。
しかしすぐに微笑って片手を上げた。
「ああ。またな、ローゼ」
そのまま彼は馬を進ませ、分岐を北へ向かう。
ヘルムートの背を見送ったローゼもまた、西へ顔を向けて手綱を握りなおした。
明日は出かける予定もないのだからセラータにはゆっくりしてもらえば良い。そう考えたローゼは高く声をかけてセラータを走らせる。やがて、広がった森の先に村を取り囲む壁が見えてきた。その奥でひときわ高く、目印のようにそびえているのは神殿の鐘塔だ。
(やっと、帰ってきた)
ローゼの視界がじんわりと滲む。
村にいる時は、退屈で離れたくて仕方がなかった場所は、しかし離れてみれば、帰りたくて仕方がない場所となっていた。
南で、王都で。一体どれだけこの景色を夢に見ただろうか。
(今度こそ夢じゃない。あたし、ちゃんと帰って来たよ!)
喜びのあまり叫びだしたい気持ちを堪えながら、ローゼは更に強く手綱を握り締めた。
最初に目指す場所は、もちろん決まっている。
* * *
道は村の東門へ続いている。
門番として立っていたのは顔見知りの人物だった。
彼はローゼを見ると、満面の笑みで「おかえり」と声をかけてくる。
ローゼもまた身分証を見せることなく、馬上から「ただいま」と声をかけ、雨を避けるためにマントのフードを深く被った。
「神殿に着くまではもたなかったねえ」
【まあ、あとはそんなに距離もないんだ。着いたら拭くものでも借りればいいさ】
うん、と返事をしたローゼは、雨音を聞きながらセラータを神殿に向かわせる。
道行く人は降り出した雨を避けるために急ぎ足で、周囲には注意を払っていない。
おかげで今回は人々に囲まれることもなく、ローゼは神殿に到着した。
逸る気持ちを抑えながら下馬して表門をくぐると、来客を確認した神官補佐が雨避けを被って小走りにやってくる。やがて来客がローゼだと知ると、彼女は大きな声を上げた。
「ローゼ! すごいわ、本当にローゼね! おかえりなさい!」
「ただいま、アーヴィンはどこ!?」
平静を装いたいが、ローゼの胸は既に早鐘のようだ。合わせて気持ちも前のめりになっている。
もしも彼が神殿内にいないのならば村のどこへ居ても走る、と思うローゼからセラータの手綱を受け取る神官補佐はしかし、申し訳なさそうな表情になった。
「神官様は今、お留守なの。町へ行っておいでなのよ」
ローゼはぽかんとする。
「え……町?」
やがて神官補佐の言葉が飲み込めると同時に、ゆるゆると落胆の気持ちが広がった。
グラス村で町と言えば、先ほど別れたヘルムートの出身地でもある、あの町だ。
魔物が出れば周辺の神官に応援要請が来ることもあるが、神官補佐の様子を見る限り魔物の対応というわけではないらしい。
ということは、何らかの用事でアーヴィンが町へ行く日と、ローゼが戻ってきた日とが重なってしまっただけのようだ。
「えええ……なんでこんな時に……」
確かにアーヴィンは時折町へ行くこともあったが、行く頻度はそう高いわけではない。
自分の運の無さに、うつむくローゼは座り込みたくなるほどがっかりする。
そんなローゼがあまりにしょげた様子だからだろう、壮年の神官補佐は慌てて慰めるような声を出した。
「神官様も、ものすごくローゼのことを心配しておいでだったのよ。きっと出迎えができなかったことを残念に思われるでしょうね」
「……そう……」
それでも「アーヴィンがとても心配していた」と聞き、ローゼの気持ちはほんの少しだけ明るくなる。
我ながら単純だ、と思いながらローゼは顔を上げた。
「アーヴィンはいつ帰るの?」
「明日にはお戻りよ」
「そっか。じゃあ、明日また来るわ。あ、馬もあたしが入れてくる」
言って、ローゼは神官補佐から手綱を返してもらう。
セラータの首を撫で、ローゼは今来たばかりの表門から外へ出た。
「勝手でごめんね。……走ってくれてありがとう」
囁くとセラータは、気にしないで、と言いたげな優しい瞳を向けてきた。
表門の馬屋は訪ねてきた人が一時的に使う簡易なものだが、神殿にはもうひとつ、裏庭にも馬屋がある。
こちらは神殿の関係者たちが使う、もっときちんとしたものだ。
ローゼはアーヴィンから、村に戻って来た際はこの馬屋を好きに使って構わないと言われていた。
裏門を開けたローゼは裏庭を横切る。奥にある馬屋の扉を開けて、眉をひそめた。
――奥の馬房には葦毛の馬がいる。いつもアーヴィンが乗っている馬だ。
【どういうことだ? あいつは町へ行ったんだろう?】
レオンの声は訝しげだ。
ローゼもまた不思議に思う。もしかするとアーヴィンが町から戻ってきたのだろうかとも思ったが、葦毛の馬には帰って来たばかりだという様子が見受けられない。
「馬じゃなくて馬車で行ったのかもね。荷物が多かったんでしょ」
明るい声で言い、ローゼはセラータを馬屋に入れて馬具を外す。
彼女の濡れた体を拭き、水と飼い葉の用意をしてから自身の荷物を抱えると、裏の扉から神殿に入った。
裏扉から入れるのは関係者のみだ。日中は扉に鍵をかけていないが、この田舎の村に規則を破ってまで入ろうとする人物はいない。ましてやここは神を祀る建物、そんな不敬な真似をする人物など存在するはずもなかった。
案の定、廊下はしんとしており、人の気配は無い。
「ね、やっぱりアーヴィンはいないのよ」
【そうらしいな】
口では言うものの、もしかすると戻っていたのでは、とほんの少し期待した分ローゼはがっかりする。
それでも平静を装って廊下を進み、客間の扉を開ける。ここもまた、戻って来た時は好きに使って構わないとアーヴィンから許可をもらっている場所だ。
部屋に入ったローゼは机の上に荷物を下ろし、腰に手を当てて睨みつけた。
「まったく。思ったより邪魔だったわ」
置いたうち一番大きな荷物は、王都でフロランから『アーヴィン殿への贈り物』として預かったものだ。
滑らかな布でしっかりくるまれたこの荷は、その分重くてかさばった。
「さて。仕方ないから家に帰りましょ」
【自分の家へ帰るのに「仕方ない」って、お前な……】
「だって。今日はずっと、アーヴィンに話を聞いてもらうつもりだったの……」
おそらく夜になれば、彼は家へ帰るよう言っただろう。しかしローゼは、帰れと言われるまで神殿にいるつもりだったのだ。
ため息をつきながらローゼは一度置いた袋を手に取った。
持ってきた中で2番目に大きな荷物には、着替えや身支度用の小物などが入っている。着替えの中には洗濯が必要なものもあるので、神殿に置いていくわけにはいかなかった。
そして最後、一番小さな袋を見ながら、これをどうするべきかローゼは悩む。
中にあるのは雑貨の類だ。
フロランの結婚式の招待状や、ローゼがアーヴィンの誕生日を祝うために買ったもの。
そして『誰にも見せるつもりがない手紙』もここに入っていた。
南で書いたこの手紙は、本当なら帰るまでにどこかで焼き捨てるつもりだった。
しかし、気温が上がったために暖炉を使っているところがなくなってしまい、焼く機会を見つけられないままグラス村まで戻ってしまったのだ。
(うちなら焼くところもあるし、持って帰ろうかな)
そう考えて手に取りかけたローゼは、今は雨が降っていることを思い出した。
濡れてしまえば手紙は焼きにくくなる。それ以前に、贈り物や招待状が濡れてしまうことは避けたかった。
(ま、いっか。どうせこの神殿の客間なんて誰も使わないし。明日になって、アーヴィンに中身を渡したら持って帰ればいいわ)
結局、着替えの入った荷物だけを持ってローゼは客間を後にした。