29.大神殿の長
神官たちの主要区域へ到着したローゼを待っていたのは、数人の神官を従えたハイドルフ大神官だった。ローゼが近寄ると、彼らは恭しく頭を下げる。
「ご無事のお戻りを心からお慶び申し上げます」
「ありがとうございます」
ローゼが礼を述べると、ハイドルフ大神官は頭を上げる。彼の顔には笑みが浮かんでいた。
「ファラー殿は南方で大層ご活躍をなされたそうですね」
「……いえ……」
複雑な心境のローゼが曖昧な返事をすると、腰からは「ほらみろ!」という弾んだ声が聞こえた。
「よろしければ私もお話を伺いたいと思っております。大神殿の滞在中にお時間がございましたら、ぜひ私の執務室へもお越しください」
にこやかに話すハイドルフ大神官の言葉に、ローゼは思わず瞬く。
「……あの、私はこの後どこへ行くのでしょうか?」
てっきりハイドルフ大神官の部屋で報告をするのだと思っていたローゼが尋ねると、彼はもう一度、きっちりとした動作で頭を下げた。
「大神殿長の部屋へご案内するよう、仰せつかっております」
* * *
大神殿長とはもちろん、大神殿の最上位にいる人物だ。
爵位で言えば侯爵相当であり、子爵位相当の大神官はもとより、伯爵位相当の聖剣の主より上位にあたる。
もちろん、各国の大神殿にひとりしかいない。
つまり大陸でも5人しかいない人物だった。
現在の大神殿長は男性で、名をラッセル・デュランという。年齢は確か62だとローゼは聞いていた。
ハイドルフ大神官より10以上も年下の彼は、一昨年、大神殿長の座についている。
大神殿長は前任の人物が死去や辞任などで空きができた際に大神官の中から選ばれる。
デュラン大神殿長は60の年に大神殿長になったわけだが、これは異例の早さだったそうだ。
そんな大神殿長にローゼは3回会っている。
昨年初めて大神殿に来た時。
儀式の時。
そして南へ発つ前に行われた会議の時。
彼への印象として残っているのは耳に心地良い静かな声、そして柔和な表情だった。
ハイドルフ大神官に案内され、ローゼは今まで足を踏み入れたことのない区域へと進んだ。白い石造りだった廊下には青の絨毯が敷かれ、左右の壁には神話を模した絵が飾られている。
ローゼがなんとなくシャルトス家の城を思い浮かべていると、やがてハイドルフ大神官は奥まった場所にある扉の前で立ち止まった。
ハイドルフ大神官が扉を叩くと、応じた神官が開く。奥には大神殿長の姿があった。
挨拶に続いていくつかの言葉を交わし、ローゼだけが中へ通されると、案内のハイドルフ大神官だけでなく、扉を開けた神官も退室する。
部屋の中にいるのがふたりだけとなったところで、デュラン大神殿長はローゼの前へ来て膝を折り、頭を下げた。
「このたびのご活躍は聞き及んでおります。南方の異変を退けて下さったこと、大神殿はもとより、全神殿の者になり代わりまして御礼を申し上げます、ローゼ・ファラー様」
「やめてください!」
ローゼは思わず叫び、その場に両手と両膝をつく。
「あの村の事だけが終息した理由であるとは限りません! きっと色々なことが重なった中のひとつに違いないんです! それにエンフェス村で何かしたのは私ではなく、ブレインフォード家のマティアス様や……」
レオン、とはさすがに言えないので言葉を濁す。
「……とにかく、私はそんなに大層な人物ではないんです」
「例え仰る通りだと致しましても」
口を開いた大神殿長は、頭を下げたまま続ける。
「己の世に関わる出来事だというのに、人は異変が始まった理由も、終息した理由も分かりません。だとすれば、一番分かりやすい話を以て『これが原因であった』とするのは理にかなっていると思われませんか」
「そうかもしれませんが……」
何と答えて良いのか分からないローゼは、困って視線を落とす。
「でも、私は、本当に……」
ローゼは南方を何とかしたかった。人々が困っているからという理由があったのはもちろんだ。
だが、自分が早く帰りたいという気持ちだって多分にあったことは間違いない。
(あたしは、自分自身に何の能力もないくせに、偉そうなことを言って自分勝手なことばっかり考えてる。……高潔でも、高邁でもない。頭を下げられる価値なんて、どこを探したってない……)
泣きそうな思いのまま下を向いていると、正面から小さな笑い声が聞こえる。
「そのように卑屈になる必要はないが、どうやらこれ以上の言葉はあなたを困らせるだけらしい」
わずかなぎこちなさを見せつつ立ち上がった大神殿長は、背を屈めてローゼに手を差し伸べる。
出された手をおずおずと握ると、彼は力強い腕でローゼを引き上げた。
「今お茶を淹れるので、あちらに掛けて待っていてもらえるだろうか」
困惑するローゼの前に立つ大神殿長は、上背もあり、体躯もがっしりとしている。
しかし思ったより威圧感がないのは、目じりの下がった顔に浮かべている柔和な笑みのおかげだろうとローゼは思った。
「王都でずっとやきもきしていた私に、あなたが見てきた南方の話を聞かせて欲しい」
引き込まれるようにローゼがうなずくと、大神殿長は椅子に向かってローゼの背をぽんと叩いた。
* * *
部屋へ来た時は夕刻になるずっと前だったというのに、射し込む陽が茜色になってもまだエンフェス村の話までは到達していない。
「あなたはずいぶんと素晴らしい話し手だ、ローゼ・ファラー。もうこんな時間になってしまった」
大神殿長は笑いながら言うが、ローゼは知っている。話が長くなってしまったのは、大神殿長の方こそが素晴らしい聞き手だったためだ。
余計なことを言わず耳を傾け、欲しいところで欲しい反応や相槌をくれる。言葉に詰まればさりげなくまとめて先を誘導してくれるので、ローゼも思わず話しすぎてしまったのだ。
「話をして喉が渇いたろう」
先ほども手ずから茶を淹れた大神殿長は、今回もローゼを制して立ち上がる。
その時ふと、ローゼは彼の動きが少し不自然なことに気がついた。
(さっき立ち上がる時も様子がおかしかったっけ。そういえばミシェラ様もこんな感じの動きをなさってたな)
きっと足が悪いのだろう、とローゼは心の中だけで呟いたのだが、横の台で茶を淹れる大神殿長は何気ない調子で話し出す。
「あれは私が30歳をいくつか過ぎたころだった。――魔物に足をやられしまってな」
ぎくりとしたローゼは、うっかり無遠慮な視線を送っていたのだろうかと赤面した。
「その時は東方で異変が起きていた。1年近く現地にいたのだったかな。……私の部隊は何体もの強い魔物を倒すことができていたので、つい調子に乗ってしまった」
大神殿長の話を聞いて、ローゼは内心で首をかしげる。
大神殿長は大神官から選出されるのだから、デュラン大神殿長も元は神官であるはずだ。なのに彼が話す内容はまるで神殿騎士のように思える。
(どういうこと?)
ローゼが怪訝に思う傍ら、大神殿長は淡々と話を続けた。
「普段ならば魔物同士が近くにいることはない。神殿の書にはそう記されているし、私も複数を同時に相手取ったことはなかった。……その時は何故か5体も小鬼がいたというのに、私は深く考えなかったのだ。それどころか、所詮は小鬼、我らの敵ではないとすら思った」
しかし、想像以上に小鬼は強かった。部隊の仲間は神聖術での治療が間に合わないほど次々と負傷し、自身もまた足に深手を負ってしまったのだと大神殿長は語った。
「結果、足には後遺症が残ってしまってね。神殿騎士は辞めざるを得なかった」
(やっぱり神殿騎士だったんだ)
彼の話を聞いて、ようやくローゼは納得する。
一方で茶器を持って戻って来た大神殿長は、ローゼの表情を見て、おや、と言いたげな顔になった。
「詳細はともかく、私が神殿騎士だったということはご存じかと思ったが」
ローゼが首を横に振ると、カップに茶を注ぎながら大神殿長は口元に笑みを浮かべる。
「そうだったか。……今の話の通り、私は足の傷が元で神殿騎士を辞してな。直後、神官の区域へ行って希望届を出し、神官見習いとなった。もちろんきちんと8年の修行も積んだ。神官となったのは41歳の時だ」
「え?」
ぽかんとするローゼの前にカップを置いた大神殿長は、ゆったりとした動きで向かいの椅子に座った。
神官や神殿騎士の見習いとして入る年齢の下限は10歳だが、上限は設けられていない。
確かに30歳を超えても構わないとはいえ、神殿騎士として名を上げてきた人が神官見習いになるのだから、相当な葛藤があったのではないだろうか。
ローゼがそう口にすると、大神殿長は面白そうな笑みを浮かべて「いいや」と答えた。
「葛藤などなかった。あったのは……そうだな。あえて言うならば憤りか」
カップの中に視線を落とし、大神殿長は言う。
「神殿騎士として学んだ。ある程度の実践も積んだ。故に自分は一人前だ、と思い込んでいた己の驕りに対しての憤りだ」
彼の表情はとても静かだった。
「神官となったのは、自分の認識に偏りがあったとの思いからだ。神殿と呼ばれる場所で学ぶことのできる知識や見方をすべてを身につければ、何か分かることもあるかもしれないと思ったのだが……」
「……それでも足りなかったんですね」
ローゼの言葉に大神殿長はうなずく。
「考えてみれば当たり前のことだ。神殿騎士でも神官でも、元となるのは神殿にある知識。いくら見方を変えようとも、神殿にある以上のものを手に入れることなどできない」
彼はカップを手にし、中身を一口飲む。
「……異変とは何だ? 起こる理由は? 防ぐにはどうしたらいい? 終息させるために必要なことは? ……あの時複数の魔物が共にいたのは、妙に強かったのは、異変のせいなのか?」
大神殿長の口調も静かだ。しかし彼が手にしているカップの中身が、ほんのわずかではあるが波立っていることにローゼは気が付いた。
「神官となった私は、神殿騎士たちからの強い後押しもあって大神官となり、さらには大神殿長にまでなった。……だというのに私は、未だ知りたいことを何ひとつ掴めずにいるのだよ」
言い終わった大神殿長がほんの一瞬だけ浮かべた表情は、悔しさともどかしさだった。
同時にローゼは、彼とよく似た表情を浮かべた人物を思い出す。
「……一方向からしか見ようとしない世界には限界があると思います。特に、前提があればあるほど、違う視点から物を見ることは難しくなるのかも……」
大神殿長はわずかに首をかしげる。
ローゼは小さく笑ってみせた。
「大神殿長がまだお持ちではない知識というものがあるんです」
「ほう、興味深いな。それはいったいどのようなものだろうか」
これは好機だと思いつつ、ローゼは彼の薄紫色をした瞳を見ながら答える。
「聖剣の二家に残されている話です」
ローゼの言葉を聞いた途端、大神殿長の瞳が輝いたように見えた。




