28.白き言葉
話に聞いていたので覚悟はしていたものの、気温の上がった南方は、北寄りのグラス村で育ったローゼにとって思った以上につらいものだった。
それでも乗り切ることができたのは、嬉しそうな人々の姿を見ることで、ローゼもまた幸せな気持ちになれたからだ。
異変が終息した旨の通達はまだ神殿から出ていない。
しかし気温が例年通りに戻り、魔物の出現が減ったことは誰の目にも明らかだった。
始めのうちは疲労の色が濃く、外へ出ても「また魔物が出るのではないか」と言いたげに身を縮めていた人々だったが、普段通りの日々が続くにつれて顔つきはどんどん晴れやかになる。
やがて南方と呼ばれる最後の街へローゼが着く頃には、すっかり元通りどころか、祭りでも行われているのかと思うほどの浮かれぶりを見せるようになっていた。
そんな南の雰囲気が伝播したのかと思うほど、王都もまたローゼが知る限り一番の賑わいを見せている。いつも華やかな王都がより華やかに思えるのは、人々が見せる明るい表情の影響も大きいだろう。
「みんな楽しそうだね」
セラータに乗ったローゼが周囲を見回しながら言うと、横のフェリシアが楽しげに答える。
「本当に。これもローゼのおかげですわ」
「だから違うってば。たまたま時期が重なっただけよ」
「ええ、ええ。そうでしたわね」
気温が上がるのを確認して以降、フェリシアはずっと「今回の異変が終わったのは、ローゼがエンフェスの問題を解決したからですわ」と言い続けている。ローゼは毎回否定するのだが、フェリシアはまったく聞く気がない。
今回も軽くいなす横顔をローゼがじっとり睨んでいると、白い鞘からくつくつと笑い声が聞こえた。
【大神殿の連中からも同じことを言われるはずだぞ】
「嘘でしょ。嫌よ、あたし」
大神殿へ到着するということもあり、ローゼは鞘を黒から白へと替えている。
黒い鞘の時はずっと「暑い」と文句を言っていたレオンだが、白い鞘となった今日は少し涼しいようで、いつもよりずっと機嫌が良かった。
【エンフェスの件が終了したのと、南方の異変が終息した時期が近すぎるからな。おそらく各地とやりとりをした大神殿も、この娘と同じ判断を下すだろうよ。……先に戻った神殿騎士連中もそう証言してるだろうしな】
ジェラルドやルシオ、それにヘルムートたちは、ローゼより2日早くエンフェス村を発っている。
王都へ向かいながらも様子を見ていたローゼと違い、彼らは王都へ早く着くことを目的としていた。おそらく何日も前に大神殿へ戻っているだろう。
【俺も、エンフェスの一件が南方の異変に無関係だったとは思えない】
「……でも……」
【つまり、南方の終息に関してお前はかなり貢献しているんだ。……そんな顔をするな。もっと堂々としてろ】
レオンは単純に、この後ローゼが称賛されるかもしれないということが嬉しいようだ。
だがローゼはフェリシアやレオンからいくら言われようと、自分が何かしたという気はない。
(あたしは、ただ思いついただけ)
ローゼにとってみれば、本当に称賛されるべきはレオンとマティアスなのだ。
* * *
広大な王都の東側は一帯が緩やかな丘となっている。この広い丘の上すべてが、いくつもの建物を有する大神殿の敷地だった。
もちろん門もあちこちに設けられている。
参拝者のための門は言うに及ばず、関係者用の門もいくつかあった。
そんな関係者用の門のひとつにフェリシアと共に向かったローゼは、下馬して順番を待つ。やがて門番に促されたローゼが身分証を提示すると、彼は小さく息をのんだ。
何かあったかと身構えるローゼだったが、門番は丁寧に一礼をした後に神官たちの主要区域へ行くように指示してきただけで、他に何かあるわけでもないらしい。
確かに今はハイドルフ大神官がローゼと大神殿との窓口になっている。大神官がいるのは神官たちの区域なのだから、門番の指示はうなずけるものだった。
セラータを門番に預け、神殿騎士の区域へ戻るフェリシアとはまた会う約束をして別れる。入って来た門は敷地の南寄りにあったので、北寄りにある神官の区域へ向けてローゼは歩き出した。
大神殿の道はすべて白い石でできている。
歴史を重ねているはずだが、石はくすむことなく元の色を保っていた。みずみずしい草の緑の中、くっきりと白い線を描く道はとても美しい。
王都の街中ではじっとりと汗ばんでつらかったが、人が少ないためか大神殿は涼しく感じる。ときおり優しく吹く風もまた心地よく、ローゼは歩きながら深く呼吸した。
「なんか、帰って来たーって気がするわ」
【お前もすっかり大神殿に馴染んだな】
「そういうレオンだって同じでしょ。前なら大神殿にいる時は、すっごく不機嫌だったくせに」
ローゼの言葉を聞き、レオンはバツが悪そうに小さくうなる。
彼の声に笑ったローゼが青い空を見上げたところで、雰囲気を変えようというのか、わざとらしいほどに明るい声が聞こえた。
【ま、まあ、とにかく。南方の件は終わったし、あとは報告して帰るだけだ。お前もあいつに会うのが楽しみで仕方ないだろ?】
「……うん」
だがレオンの言葉とは裏腹に、ローゼの心はほんの少し翳る。
アーヴィンは確かに待っていてくれると言っていた。
しかし本来、ローゼが帰ると言ったのは年が明ける頃だ。約束の時からはずいぶんと経ってしまっている。なにせ季節はもう春なのだ。
(今後同じことが起きる可能性を考えたら、不安なままあたしを待つより、近くにいる他の人を選んだ方がずっといい、って思ったんじゃないかな……)
町や村に赴任した神官が住人と恋に落ちる例は珍しくないそうだ。
神官の伴侶となった人物は神官補佐として神殿に務め、夫や妻の手伝いをすることが多いと聞く。実際に今までに立ち寄った神殿でも、神官と神官補佐の夫婦は何組もいた。
――そして彼らの姿を直視できず、ローゼはそっと視線を逸らすことが多かった。
(あたしは、神官補佐になれない)
思い出して唇を噛んだ時、優しい風がローゼの頭からマントのフードをそっと揺らす。門に入る前、髪を隠すために被ったものだ。
周囲の注目を浴びたくなかったからなのだが、どうせ大神殿の建物に入れば脱ぐものだ。改めて被る必要はないと判断したローゼは完全に後ろへ落とす。結い上げた髪をあらわにしたところで、レオンが小さく声を上げた。
【あれは……】
彼の声に周囲を見回すと、ローゼの左側にある渡り廊下を集団で移動する人たちの姿が見えた。
集団の後ろの方には何人かの神官がいる。
そして神官たちの前を歩くのは、揃いの白い衣装を身にまとった10名の人々だった。
年齢はまちまちだが、先頭を行くのは50代前半の女性のように見える。どうやら彼女がこの中で一番年かさのようだ。
(でも……あんな衣装の人、今まで神殿や大神殿にいたっけ?)
白い衣装と言えば真っ先に浮かぶのは町や村の神官補佐だが、大神殿に神官補佐はいないし、おまけに神官補佐の衣装は簡素な上、やや硬めの素材で作られている。
しかし今見ている衣装は柔らかい布で作られているようで、ほんのわずかな体の動きににもよく馴染んで優しく動く。また、光沢のある美しい布は光によって微かに色を変えるため、白一色の衣装はそうとは思えないほど色鮮やかな気がした。
なんとなく精霊を見ているようで、ローゼは惚れ惚れする。
そのとき視線に気が付いたのか、先頭の女性がローゼへ顔を向けた。
目が合ってしまったローゼは慌てて頭を下げる。急いで立ち去ろうとしたのだが、後ろから声が追いかけてきた。
「お待ち」
優美な声に思わず振り返ると、先頭の大柄な女性がローゼを指し示し、後ろの人々もまたローゼを見て何やら話している様子が目に入った。
気まずさを感じているうち、渡り廊下の切れ目に設けられた階段から女性が降りてくる。後ろの人々も彼女に続いて全員がローゼの方へと向かってきた。
滑るように草を踏み、近くまでやってきた彼女たちの姿を見たローゼは、思わず息をのんだ。
白い衣装の人々は全員、珍しい色合いの瞳や髪をしていた。
集団の先頭に立つ女性は、今まで知る誰よりも黄金色をした瞳をローゼに向け、にこりと微笑んだ。
「そなたは見習いか? はて、連絡はなかったように思うが……」
ローゼは首をかしげる。見習いというからには、神官や神殿騎士だろうか。
「鮮やかな赤の髪と瞳。ついぞ見ぬ美しい色じゃ。しかも佩いた剣がほんに珍しいこと。これはそなたの友か? なればやはり、見習いとして参ったのであろう?」
(レオンのことが分かるの?)
「長。彼女は違います」
目を見開くローゼの前で、女性に小柄な男性が話しかける。
彼は青と緑、左右違う色の瞳をローゼに向けた。
「俺はあの夢で姿も見たから知ってます。この人は、ローゼ・ファラーです」
その瞬間、白い衣装を纏う人々の反応はふたつに分かれた。
驚きの声を上げる人と、大きくうなずく人と。
「そなたがローゼ・ファラーかや!」
女性の反応は前者だった。近くへ寄ってきた彼女はローゼの前に立ち、全身をしげしげと見つめる。
「さすれば、その剣は……」
次いで聖剣にも視線を向けた女性は、わずかに目を細めた。
何かを見透かそうとするような彼女の瞳に、ローゼは体を固くする。
(確か北方で聞いたんだっけ。レオンのことが分かるのは、精霊が見える術士。それと……)
ローゼの背を汗が伝うが、これは暑さのせいばかりではないだろう。
やがて、浅い呼吸を繰り返すローゼを見た女性はころころと笑う。
「いかがした。別に我はそなたを取って食ったりせぬぞ?」
周囲からも小さな笑い声が聞こえた。
なんとなく緊張が解け、ローゼもほんのわずかに体の力を抜く。
その様子を見て取ったか、長と呼ばれた女性はローゼの頬にそっと触れた。
傾きかけているとはいえ、日差しは強く、気温も高い。なのに彼女の手から伝わる温かさはとても心地よかった。
「……ああ、既に巣くっておる。……これは、この剣のためだけではない……。時期が時期であれば、そなたは我らの身内として大神殿へ来ておったかもしれぬのに、不憫なことよ……」
痛ましそうな女性の声を聞きながら、彼女はいったい何を言っているのか、とローゼは怪訝に思う。
そんなローゼの心の内に気付かないのか、それとも頓着しないのか。ローゼの瞳を覗き込み、彼女は励ますように微笑んだ。
「気を強う持て。……それこそ、取って食われぬようにな」
女性はローゼの頬から手を離すと、聖剣と、そして左腕から零れる銀鎖に目を向ける。
何か言いたげな表情を浮かべるが、結局は何も言わずに渡り廊下の方へと踵を返した。
他の人々もまた、彼女に従って去って行く。
全員が廊下の奥へ消えるのを見て、ようやくローゼは完全に緊張を解いて口を開いた。
「……ねえ。今の人たちって、もしかしたら……」
夢、と言っていた。そして人数は10人。しかもレオンのことが分かっていたようだ。
だとすれば彼女たちこそが、神からの託宣を夢に見て、その身に不思議なものたちを降ろすこともあるという人物。――大神殿にいるという『巫子』に違いない。
「なんか変なことを言われた気がするけど、どういう意味だろうね」
【さあな。だが、どうせ大したことない話に決まってる】
レオンの声は諭すような調子だ。
【ああいうのは、どんな小さいことでも勿体ぶった言い方をするもんだ。何を言ってるか分からないから印象に残る。それだけだ。気にする必要はない】
そうかな、と思いながらローゼは彼女たちが消えた先を見つめる。
【そんなことより、早く行くぞ】
「……うん」
どこか急くようなレオンに促され、ローゼもまたその場を後にした。




