余話:南からの手紙
この日は『未来を目指す乙女の会』が開催される日だ。正直に言えばディアナは最近、乙女の会に参加することが苦痛で仕方がなかった。
グラス村の周辺では、15歳になれば結婚を見据えた相手との付き合いを考え始め、20歳には結婚する。『未来を目指す乙女の会』は15歳以上の未婚女性だけで行われる集会なので、中心となる会話は当然のごとく恋愛関連だった。
ディアナは昨年の秋で20歳になっている。
もう結婚してもおかしくない年だというのに、結婚はおろか恋愛の話すら出ておらず、かといって親が取り決めている様子もない。そんなディアナに対して友人たちは乙女の会でいつも同じ質問をしてくるので、ディアナは辟易していた。
しかし今日は、質問の頻度がぐっと減っている。それもこれも、参加者たちの興味が他へ向いているからだった。
「ねえ、ディアナ。ベアトリクスとアーヴィン様が結婚するって噂は本当? お父様から何か聞いてない?」
「誰からも何も聞いてないわ。だから知らない」
表面上はにこやかにディアナが答えるが、周囲の娘たちはそれでも食い下がる。
「隠さなくてもいいのよ。もし村長から口止めされてるなら、私たち絶対内緒にするわ。だから教えて!」
「隠してなんかないったら。本当に知らないの。お父様だって噂を聞いてびっくりしてたんだから」
「えー、そうなんだ」
「そうそう。だから私に聞いても無駄よ」
そう言ってディアナが両手を広げると、娘たちは諦めて去って行く。彼女たちの後ろ姿を見たディアナはようやくほっとした。
数日前の酒場から出たというこの話は、乙女の会どころか、今や村中でもちきりだ。
村長の娘ならば何か知っているだろうということで、会う人会う人同じ質問をしてくる。本当に何も知らないディアナは、正直な話うんざりしていた。
気分を変えようと思いながらディアナは集会所を見回す。途端に苦い思いを抱き、眉を寄せた。
ディアナが思わず探してしまうのは、ひとりの娘。
以前ならば集会所のどこかに、鮮やかな赤い髪をした幼馴染がいたのだ。
(……またやっちゃったわ。ローゼはもういないんだっけ)
あの頃村の人たちは、ローゼのことを「変わっている」と言っていた。それでも当時の彼女は『村人』という括りから大きく外れていたわけではない。
しかし今のローゼは『聖剣の主』だ。立場も変わり、住む世界も変わってしまった。
(そしてきっと、考え方も変わった……)
つい先日届いた手紙を思い出したディアナの胸の奥に、また重苦しいものが生まれた。この気持ちはそう簡単に晴れると思えないし、皆が興味津々の会話も乗り気になれるものではない。
ため息をひとつ吐き、ディアナは立ち上がって周囲に声をかけた。
「ちょっと用があるから、今日はもう帰るわね」
えー、と残念そうな声を上げる娘たちに手を振って、ディアナは集会所から出て歩き出す。
途中でディアナの家へ向かう方面の道にひとりの少年を見たような気がしたが、おそらく見間違いだろうとディアナは思った。
ほどなく目的地である神殿へ到着する。建物の中には話題の神官補佐・ベアトリクスがいて、ディアナを迎えてくれた。
「こんにちは、ディアナ。今日は乙女の会があるんじゃなかったの?」
「うん。でも、神官様に用があって抜けてきちゃったわ」
「あら、じゃあ、急な用事ね?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
ディアナが口ごもると、それ以上尋ねることなくベアトリクスは笑みを浮かべる。
「分かったわ。アーヴィン様は今、手が空いておいでなの。すぐお呼びするから、そこで待っててね」
示された席に腰かけたディアナは、踊るような足取りで奥へ向かうベアトリクスを目で追った。
確かにベアトリクスは美人と名高かった。ただその美しさは、どちらかといえばこの世の人ではない、神の世を思わせる幽玄な美しさだった。
しかし最近ではその神秘性が薄れ、しっかりとした存在となってきたように思う。頼りなげな儚い光が、確固たる輝きを放ち始めたかのような。
(確かにベアトリクスの印象が変わってきたのは、神殿へ働きに来てからよね……)
体の弱さを理由にずっと独り身だったベアトリクスが結婚できるのなら、本当に喜ばしいことだ。
しかし彼女の相手として挙がるのがアーヴィンだったために、ディアナはベアトリクスの話を素直に喜べない。
(……だって、神官様がベアトリクスの相手なのだとしたら……)
「ディアナ」
考えに沈むうち、目線は下へ向いていたらしい。
名を呼ばれてはっと顔を上げると、いつの間にか穏やかな笑みを浮かべたアーヴィンが正面に立っていた。
「あ、す、すみません」
慌てて立ち上がろうとするディアナを、アーヴィンは優雅な仕草で留める。
「私に何か用事があるそうですね」
正面に座るアーヴィンに尋ねられ、ディアナはこくりとうなずいた。
「はい。……先日手紙を受け取りましたので、そのご連絡をと思いまして」
南からの手紙を受け取ったのは何日か前だ。
年配の神官補佐がにこにこしながらディアナの家まで届けてくれた。
「神官様に直接申し上げようと思ってたんですけど、遅れてしまってすみません」
「いいえ。わざわざありがとうございます」
いつものように微笑んだままアーヴィンは答える。つられてディアナも笑ったところで、神官は問いかけてきた。
「ところで、ディアナの用事はそれだけですか?」
ディアナはぎくりとする。
表情には出ていなかったはずだと思いながらアーヴィンを見れば、彼は穏やかな瞳をディアナに向けている。その灰青の瞳はディアナの心など容易に見透かしてしまいそうで、気まずくなったディアナは思わず目をそらした。
「他に話があるのなら、お聞きしますよ」
一瞬、ディアナは届いた手紙についてのことを言ってしまおうかと悩んだ。口を開きかけ、それでもやはりディアナは首を横に振る。
(言っても仕方ないわ。だってローゼはもう、以前のローゼとは違うんだもの)
次は手紙を出してよ、と言うディアナにうなずいてローゼは秋に旅立った。
だというのに、やはり手紙は届かない。
いつ来るのだろう、とそわそわしながら待つこと数か月。ようやく待ち望んだ手紙が来て、ディアナは弾む心のまま開封した。
しかし内容は、
『今は南にいる。大変だけど元気よ。今回はちゃんと手紙を書いたから、帰ったとき怒らないでね』
という短いものだった。
(……これだけ?)
到着を喜んだ分、ディアナの落胆は大きかった。
(ずっとずっと連絡なしだったのに、ようやく手紙が来たと思ったら、こんな……)
文面がじわりと滲む。手紙を持つ手がぶるぶると震えた。
(これだけのことしか書きたくないくらい、ローゼにとって手紙は面倒なことだったの?)
ディアナはいつも、心のどこかでローゼのことを気にかけていたというのに。
(……それとも私のことは、もうどうでもいいってこと?)
もしかすると、ローゼにとって自分は既に過去の人物なのかもしれない。
だとすれば手紙をくれという頼み自体が負担だったのだ、とディアナは思った。
(ローゼはもう、私とは違う世界の人になったんだわ。……そうよね。だって華やかな王都に何度も行くんだし。大神殿の偉い人や貴族とも付き合うし……)
聖剣の主となったローゼは、きっと忙しいのだ。ディアナにかまけている暇などないくらいに。
(どうして気が付かなかったのかしら……)
村で戦闘訓練があった際、刃を潰した剣を持ち、「案外重いね」と言いながら、慣れない手つきと引けた腰で振り回していたローゼはもう過去の話。
彼女はディアナが話にしか聞くことのない『南方』で、多くの魔物を相手に聖剣を振るう立派な人物になっているのだ。
そんなことを思い出しながらアーヴィンに向けて笑顔を作り、ディアナは頭を下げる。
「もう話はありません。貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました」
言葉を飲み込んだまま、ディアナは立ち上がろうとする。
するとアーヴィンが独り言のように呟いた。
「南は魔物が多く、未だに大神殿も連絡馬車を動かすことができずにいます」
思いもよらないことを言われ、ディアナは立ち上がるのをやめてアーヴィンを見つめる。
やがて、彼の言葉が理解できた時、思わず目を見開いた。
(止まる? あの連絡馬車が?)
大神殿からの連絡馬車は、月に何度か必ずグラス村にもやってくる。ディアナにとってだけでなく、村の人にとっても動いているのが当たり前の物だ。連絡馬車が止まるという状況など考えたこともないし、考えることもできなかった。
ディアナの様子を見たアーヴィンは、穏やかな声で話を続ける。
「もう少し時が経てば、現地の様子に合わせて対抗策もとれるようになるでしょう。しかし今は異変が始まってほんの数か月ですから、まだ色々なことが手探りの状態だと聞いています。先日届いた手紙も――」
手紙の話を聞くと心がざわつく。ディアナが南から来た手紙に良い感情を持っていないせいだ。
「なんとか一度だけ動かせたときに預かったものだそうです」
「でも! せっかく出してくれたのは分かりますけど、あんなに短い手紙!」
まるで誰かを擁護するかのような神官の言葉に反発したディアナは、つい手紙のことを吐露してしまう。
大変な中で手紙を出してくれたことは嬉しい。しかしあれほどまでに短い手紙は、自分がないがしろにされているようで、ディアナは悲しかった。
「神官様へ届いた手紙は、きっとすごく長かったんでしょうね」
嫌みたらしい口調になってしまったのは、そんな気持ちからだ。
しかしアーヴィンは気にする様子もなく、ゆったりとした様子で首を左右に振った。
「私に手紙は来ていませんよ」
彼の言葉を聞いたディアナはしばし唖然とする。
「……え? だ、だって、ローゼは神官様のことを、す……」
言いかけて、ディアナは口をつぐむ。
「……ええと、神官様に、すごくお世話になってるのに……」
改めて言い直すと、アーヴィンはくすりと笑った。
「本当に私宛ての手紙はなかったんです。今回届いたのは2通だけ。ローゼのご家族に宛てたものと、あなた宛てと」
「どうして……」
口にした言葉は返事を求めたものではなかったが、目の前のアーヴィンは笑みを浮かべたまま答えた。
「ローゼは私に、何を書いて良いのか分からなくなってしまったんでしょうね」
「何を書いて……?」
言っていることが分からなくてディアナは首をかしげる。
「普段通りを装おうとしたのにうまくいかなくて、結局書くのをやめてしまったんだと思います。……まったく、仕方のない」
小さく最後の言葉を付け加える時、アーヴィンの様子が変わったことにディアナは気付く。言葉とは裏腹な愛情深い表情は、ディアナが今まで見たことないものだ。
同時に、先ほど乙女の会で「噂は本当だと思う?」と問いかけてきた娘たちの声が思い浮かぶ。
(……噂は嘘ね。やっぱり神官様の相手はベアトリクスじゃないわ。間違いない)
ディアナが黙って見つめていると、アーヴィンは何かに気付いたのだろう。どこか慌てたように話し始めた。
「確かにローゼは聖剣の主となりました。今までとは変わりますし、変わらなくてはいけません。でも、ローゼはローゼなんです。本質は変わりません」
アーヴィンは一息ついた後、言葉を続ける。
「彼女はずっと、あなたが良く知るローゼのままですよ、ディアナ」
「……私が知るローゼ……」
アーヴィンの言葉を聞き、ディアナは思い至る。
ローゼは村の外に親しい知り合いがいない。遠くへ手紙を出したことも、また本人が遠くからの手紙を受け取ったこともない。
手紙を待つ気持ちや、受け取ったときの喜び、読んだ時の思いも良く分からないのかもしれなかった。
何を書こうかと首をひねった挙句、心配させないよう現状だけを淡々と綴るローゼの姿を思い浮かべたディアナは、なんだかとても彼女らしいな、と小さく笑った。
それでも完全に不安は拭えたわけではない。
「じゃあ……神官様。私はこの後、ローゼと今まで通りの付き合いをしても良いと思いますか……?」
おずおずとディアナが尋ねると、アーヴィンは柔らかく笑う。
「もちろんです。むしろローゼはそれを望むでしょうね」
アーヴィンの答えを聞いて、ディアナはもう一度今までのローゼのことを思い出す。
やがて顔を上げ、ディアナもまた微笑んだ。
「そうかな……ううん、そうですよね!」
出した声は思いの外弾んでいた。
ディアナの返事を聞いてうなずいたアーヴィンは、ふと思い出したように再度口を開く。
「……そういえば、ディアナの前にはテオが神殿に来ていました」
テオはローゼの弟だ。彼の名を聞いてディアナの鼓動が跳ねる。
顔に動揺が出てしまったかと思ったが、アーヴィンは気付かなかったらしい。特に表情を変えることもなく、灰青の瞳をディアナから出入口へと向ける。
「誕生を祝う寿ぎの聖詩を詠んだのです。終わった後にテオは、自宅の方向ではなく別の道へ向かいました。何か用事があるのでしょうね」
アーヴィンの言葉を聞いたディアナの脳裏に、先ほど見かけた少年の後ろ姿が浮かぶ。
(もしかして!)
ディアナは思わず立ち上がると、深く礼をした。
「神官様、お話していただいてありがとうございました! あと、失礼な態度をとって申し訳ありませんでした!」
急ぎ足で立ち去るディアナの背後から、アーヴィンの「気を付けて」という穏やかな声が聞こえる。
彼の声に押されるようにして前庭へ出たディアナは、「告白の返事、15歳になったらするからね」と答えた少年を追って走り出した。




