27.日差し
瘴穴を消した日、ローゼはパウラの家から退出するつもりでいた。
魔物が手を加えたものだったとはいえ、大切にしていた薬草が枯れる原因となったのはローゼだ。そんな自分が家にいるのは嫌な気分になるだろう、とローゼは思っていた。
応接室はマティアスたちの宿泊場所として充てると聞いていたので、ローゼはこの夜を礼拝室で過ごそうと思い、許可をもらうために神官の執務室を訪ねた。
話を切り出すと、部屋にいた正神官は心底不思議そうな顔をした後に答える。
「パウラ……モディーニ神官はまったく嫌がっておりませんが」
意外に思ったローゼは瞬く。
それでも退去するべきだろうと思い、重ねてその旨を口にすると、逆に正神官は不安そうな顔つきになった。
「もしや聖剣の主様は、モディーニ神官に対しお怒りでいらっしゃるのでしょうか? 薬草を育てていた者の家になど泊まることはできない、と」
ローゼが慌てて否定すると、正神官は安堵の笑みを浮かべて言う。
「では、聖剣の主様さえよろしければ、どうか家はそのままお使いください」
そこまで言われしまったので、神殿を出たローゼは、冷える前庭で辛抱強く待ってくれていたフェリシアと共に家へと戻ったのだ。
神降ろしの怠さが抜けないままに種の浄化を終え、話し相手として付き合ってくれたフェリシアと共にそれぞれの部屋へ戻ったのは明け方近くのこと。
夢も見ずに眠っていたのだが、日が昇っていくらも経たないうちに、何度も鳴らされる呼び鈴の音がした。
先に起きたらしい隣の部屋のフェリシアが早すぎる来訪者への文句を言いながら階下へ行く。彼女が応対する声をまどろみながら聞いていたのだが、結局2階へ戻ってきたフェリシアはローゼが寝ている部屋の扉を叩いた。
「ローゼ、お兄様が参りましたわ。昨日の件でお話があるようですの」
昨日の件とは、瘴穴や魔物に関することだろう。
ローゼも神殿騎士たちの話を聞きたかったので、眠い目をこすりながら手早く身支度を整えてジェラルドが通されていた部屋へ行くと、彼は「おはよう、ローゼちゃん」と朗らかに声をかけてきた。
「朝早くにごめんな。早めに話したくてさ」
ローゼが椅子に腰かけると、フェリシアが淹れた茶を持って来てくれる。3人の前にカップを置き、彼女も腰かけたところでジェラルドは口を開いた。
「ザレッタ殿のことでは迷惑かけちまったなあ」
言われて、ローゼは様子のおかしかったルシオのことを思い出す。血走った眼でフェリシアの腕を握る彼からはそこはかとない狂気も感じた。
「フェリシアちゃんからもざっと説明は受けたけどさ、ヘルムートからも話は聞いたんだ」
ローゼとフェリシアがあの場から立ち去った後、神殿騎士たちはルシオと、彼と一緒にいたヘルムートの元へ集まったらしい。
人によっては彼が「瘴穴を消すな」と叫ぶ声を聞いていた。魔物の出現を望んだルシオの発言は、神殿騎士たちから大いに非難されたそうだ。
「確かに俺は、ずっと魔物と戦いたかった。さっきはその気持ちが溢れて、抑えきれなくて、どうしようもなかったんだ……」
ルシオはそう言ってすべての発言を認め、謝罪したそうだ。
「だからといってザレッタ殿をこのままにしちゃおけねえ。神殿騎士は、魔物と戦い、殲滅することが役目なんだ。魔物の出現を望んで人々を危険に陥れる真似は許されねえよ」
「まったくですわ。お兄様、ザレッタ様はこの後どうなりますの?」
「取り急ぎ今日、状況を伝える鳥を大神殿に飛ばしてもらう。その返答次第だが、まあ十中八九、ザレッタ殿は大神殿に戻されるだろうよ。それまではこの村の神殿で軟禁だな」
大神殿に戻って後は審議にかけられるだろうというジェラルドの言葉に、フェリシアは改めて当時の様子を話しだす。
彼らの様子を見ながら、ローゼもまた「瘴穴を消すな」と言ったルシオのことに思いを巡らせた。
ルシオはずっと「魔物と戦って、上の地位につきたい」という気持ちを抱えていたのだろう。あの場に漂っていた甘い香りの瘴気はその暗く強い思いに反応して、彼の心の熾火を燃え広がらせたのではないだろうか。
結果、ルシオは暴走してしまった。
今回はたまたまルシオだったが、もしあの瘴気を放置しておけば、同じように暗い思いを暴走させる人が出たかもしれない。だとすればやはりあの薬草は、人々にとって害でしかなかったのだ。
* * *
パウラが尋ねてきたのはジェラルドが帰った後だった。
もしかしたら神殿に戻ったジェラルドを見てすぐに来たのかもしれない。
扉を開けたローゼが何といえば良いのか惑っていると、パウラは深く頭を下げる。
「私の種のせいで、申し訳ありません」
ローゼは慌てて首を横に振る。
「いいえ、パウラのせいではないんです」
それでもパウラは頭を下げたままだ。困って、ローゼはその場にしゃがみこむ。
下から顔を覗くと、目が合ったパウラはきょとんとした後に吹き出した。
「もう! 何をなさってるんですか!」
「だって頭を上げてくれないから」
しかし笑ったのはほんの一瞬、パウラはすぐ沈んだ表情になる。
「……私が植えた種のせいで、色んな人に迷惑をかけてしまったんです。神官様や村の人にも。神殿騎士の皆様にも、ローゼ様とフェリシア様にも」
うつむくパウラは、自責の念にかられているように見えた。
「『1』はともかく、『2』の種は確かに普通の場所には生えなかったんです。……ぜったいに根付かせるって、あちこちに種をまいて、やっと芽が出た時は本当に嬉しかった」
強くにぎりしめた彼女の手は色を失くし、白くなっている。
「……でも、私、なんでもっと考えなかったんだろう。どこにでも生えるわけじゃなくて、ごく一部でしか芽吹かない種。しかも生育すれば普通とは違う点を持ってる。……絶対おかしいって、すぐに分かるじゃないの。なのに、なのに……」
歯を食いしばるパウラの喉が小さく鳴る。
「……母は何か違うって分かってたから、数字を振ったに決まってます。……なんで分かったの? なんであんな種を持ってたの? ……もしかして……」
ローゼはパウラの手を取り、そっと開いた。
「まさか魔物が関与する種があるなんて、誰も思わなかったんです。……二家の当主ですら思い至らなかったはず。あの人達に分からないんじゃ、誰も分からないに決まってます。もちろん、パウラのお母さんも」
「でも……」
「多分、パウラのお母さんは、あれが生えてるところを偶然見つけたんじゃないかな。で、香りがすごく良かったから場所を覚えておいて、時期を見て種を入手した」
パウラは何も言わない。ただ、潤む彼女の瞳は頼りなげな光をたたえてローゼへ向けられている。彼女に向かってローゼは微笑んだ。
「うん。きっとそうです。だからお母さんだって、人に害を及ぼそうと思ってたわけじゃない。香りがいいからたくさん育てて、みんなに喜んでもらおうって考えたに決まってる。パウラが同じことを思ったみたいに」
ローゼが握った手のひらに雫がこぼれ落ちた。
「パウラのお母さんは悪くない。もちろんパウラも。……それに、大事なお母さんが遺した謎の種なんだもの。あたしがパウラだったとしても、きっとどんな秘密が隠されているのかと思って――」
言いかけたローゼの脳裏に自分の母が思いだされる。
あのお喋りな母は、妙なものを見つければ周囲にべらべらと話しまくるはずだ。きっと一片の秘密すら残すことはない。
嬉しげに「ほら、こんなものがあったの! ちょっとご近所にも見せてくるわ!」と言いながら駆けだす母を想像したところで、ローゼは小さく咳払いして面影を追い出し、改めて涙に濡れるパウラの顔を見つめた。
「えーと……そう。ということで、パウラも、パウラのお母さんも、誰も、悪くなんてないわ」
もう一度言って、ローゼは近くに置いてあった『2』の袋を取り、パウラの手に乗せる。
「この種はもう浄化したんです。だからどこに植えても平気。せっかくお母さんが遺してくれた種だもの、大事に育ててあげて」
ローゼが言うと、パウラはうなずき、そっと『2』の袋を抱きしめた。
良かった、と思うと同時に、腰から吐き捨てるような声がする。
【まったく、魔物はどこまでも忌々しい。ぜんぶあいつらのせいだな!】
(――魔物のせい)
ローゼの心、それより深いところにある部分がざわりと揺れた。
(魔物なんて嫌い)
またひとつ言葉が静かに積み重なる。
(魔物は、みんな、敵)
* * *
マティアスがラザレスを連れて出立の挨拶に来たのは、パウラが帰ってからもう少し後のことだ。
「今回は私も大いに学ばせていただきました、ローゼ嬢」
言ってローゼの顔をしばらく見つめたマティアスは、真面目な様子で口を開く。
「……今からでもぜひ、我が家へお越し願いたいものですが……」
お越し願うというのは、もちろんただ『行く』ことではないだろう。
何も言わずローゼがマティアスの灰茶の瞳を見つめていると、やがて彼は、ふ、と微笑う。
「……これ以上はやめておきましょう。スティーブに抜け駆けだと文句を言われるのも面倒ですし、何よりあなたの心は決まっている。まったくその気がないのに誘っても仕方ありませんね」
おどけたようなマティアスにローゼが表情を和らげると、ラザレスが横からひょいと顔を覗かせ、マティアスに向かって指を振った。
「そりゃそうさ、父上。この後ローゼは大神殿で報告もしなきゃいけないし、のんきにうちへ遊びに来てもらうわけにはいかないよ? 少しは状況を考えなきゃ」
まるで言い聞かせるかのような息子の声を聞き、わずかに顔をしかめたマティアスはこめかみを押さえる。
「お前は……」
「……え、何?」
きょとんとするラザレスを見て、ローゼは思わず笑い声をあげた。
* * *
薬草が消えた翌日から、瘴穴は出現しなくなった。
さらにその翌日からは気温が上がり始め、またその翌日になれば平年通りの気温となり、村にも人の姿が見られるようになってきた。
そしてその翌日はエンフェス村に滞在していた神殿騎士のうち、半分の5名ともう1名、合計6名が大神殿へと引き上げた。
帰還する神殿騎士5名のうち1名はルシオだった。つまり、大神殿から彼への召還命令が届いたのだ。
「俺も一緒に戻ることになったんだ」
アーヴィンとのことを揶揄されて以降、まともに会っていなかったヘルムートは出立前の合間を縫ってローゼの前に現れた。
「ローゼも召還されたんだろ?」
彼は何事もなかったかのように話しかけてきたので、ローゼもまた普通に話をすることにした。
「うん。今回の話を詳しく聞きたいって」
「そっか。じゃあまた、大神殿で会おうな」
手を振るヘルムートと別れたのは一昨日だ。
そして今日、周囲が落ち着いたことを確認したローゼもまた、大神殿へ向けてエンフェスを発った。大勢で見送ってくれた村人の先頭にいたのは、正神官とパウラだ。
「また来てくださいね。絶対ですよ」
そう言って明るい笑顔を見せてくれたパウラは、薬草茶を渡してくれた。『1』の薬草だけで作った薬草茶だった。
セラータの上で最後にもう一度エンフェスを振り返ったローゼは正面に顔を戻す。
見上げる空は晴れ渡っている。かかる白い雲は筆でわずかになぞった程度、どこまでも続く青は道程の不安がないことを告げているようだ。
「今日も暑くなりそうね」
右手をかざして目を細めたローゼが言うと、ゲイルに乗った横のフェリシアはため息まじりに答える。
「鎧が熱くなりそうですわ……」
「脱いじゃえば? 来る前には暑くなったら脱ぐって言ってたじゃない」
ローゼの言葉にフェリシアは顔を輝かせて何か言おうとするが、すぐにぐっと表情を引き締める。
「……確かに、そんなことも言いましたわね。でも、やはり着たままにしますわ。だって、わたくしは、神殿騎士見習いなんですもの!」
こぶしを握り、フェリシアは力強く宣言した。
本当に元気になったな、と嬉しくなるローゼの腰から、今度は対照的に弱い声がする。
【……黒い鞘というのは……】
ぼそぼそとしたレオンの声はとても情けない様子だ。
【……ものすごく暑いな】
「この鞘にしたのは400年前のレオンでしょ? 文句言わない」
ローゼが笑いを含んだ声で柄を弾くと、小さくうなってレオンは黙りこんだ。
結局、南方にいる間は「暑い」と言うたびにローゼがこの話を持ち出したので、王都に着く頃にはレオンの口数はかなり少なくなってしまっていた。




