25.残光
地面に広がるのは光すら吸い込みそうな黒々とした影だ。
そこに突き立てられた強い力からは、何物にも負けないであろう神々しい黄金の輝きが現れ出でている。
だというのに、光は影に向かって広がる気配がない。
一抹の不安を抱えながらよく見ると、どうやら黄金は広がらないのではなく吸い込まれているようだ。瘴気から忌々しい香りがしていたことを考えれば、この瘴穴は村の中にあった畑と繋がっているのだろう。だとすれば今、光はそちらを浄化しているのかもしれない。
考えを裏付けるかのように、吸い込まれ続けていた光はやがて影に向かって広がる。わずかに様相の違う光も共にあるようだ。きっと畑から呼んで来た力なのだろう。
見守るうちに、瘴穴を満たしたふたつの輝きはくるくると円を描く。まるで手を取り合って踊るかのように。
光に満たされた黒い影は霧散し、また同時に輝きも余韻を残さず消えた。
残ったのは瘴穴の傍にいる食人鬼だけだ。
(魔物は嫌い。あんな変な香りまで作った。ううん。そうじゃなくても魔物はみんな敵。嫌い)
光の源を地面から抜いて立ち上がる。忌々しい香りが無くなった今は意識を縛るものが何もなく、敵のこともはっきりと確認できる。
そういえば先ほどまで何かに追われていたような気もしたが、魔物に比べれば全てはどうでも良いことのように思われた。
顔をしかめながら食人鬼へ近づくうち、ふと気が付く。魔物しか目に入っていなかったが、周囲には人間がいた。
(大変。守らなきゃ)
酷い言葉をかけられても、無視をされても、やがて誰も信じてくれなくなっても、それはしなくてはならないことだった。
人間たちは戦っているようだ。魔物には未だ大きな傷を与えられていないようだが仕方ない。彼らが持つのは人の手によって生まれた力、魔物を倒すための純粋な力とは威力が違うのだ。
(今、持ってるの。すごい力。この力さえあれば、魔物なんていくらでも倒せる)
手に馴染む力は、まるで己と一体化したかのようだ。嬉しくなって思わず笑みをこぼした。
素早く近寄り、魔物が動くよりも早く手にした力を一閃させる。風を切る軽やかな音に続き、魔物の腕が地面で重い音を立てた。
そちらを見ることなく、続いて力を思い切り振るう。この力は人を傷つけたりしない。周囲に人がいても躊躇する必要はない。
(大きな魔物は本当に愚鈍。取柄は、ずば抜けた耐久力と力だけ。そんなもの、何の意味もない。弱い)
滑り落ちた上半身に力を突き立て、未だ立ったままの下半身にも力を振り下ろす。動かなくなった姿に一瞥をくれると、油断なく周囲を見回した。
手前は言うに及ばず、見える限りの遠くも。
(魔物はいない。瘴穴もない。……もう大丈夫)
深く安堵の息をついた。
(出てきたのが小さな知恵者たちでなくて本当に良かった。あいつらがいたら、また厄介なことになった)
――変な花を作り出すとか。
安心したせいか、小さく笑みがこぼれる。
そのとき手にした力から、優しい、本当に優しい声がした。
【ローゼ】
首をかしげると、声は優しい響きのまま続けた。
【終わった。もう平気だ】
(変なの。そんなの、言われなくても知ってる。ちゃんと確認した)
不思議そうな表情を見たか、優しい声は諭すような調子を帯びた。
【だから戻ってくるんだ】
言っている意味が良く分からない、と思いながらさらに首をかしげる。
【……俺が分かるか? ローゼ?】
分かるか、と尋ねているその声に、もう一度、変なの、と思った。
今自分が話している相手が何なのかはもちろん分かっている。
【では、銀の飾りはどうだ? それは分かるか?】
何のことを言っているのだろうと思いながら視線を動かすと、精霊とよく似た色を見つけた。
銀を基調に様々な色を織りなすこの輝きは、なんと美しいのだろう。
しかし。
(誰も来ない。……もういない)
仕方ないことだと言い切るにはあまりに寂しかった。
視界が滲み、零れ落ちるものがある。思わず左手で拭おうとしたとき、手にした布からふわりと香りが漂ってきた。
清涼感のある香りは覚えのあるものだ。
何の香りだろうと考え、すぐに思い出す。
(神の香り。神殿の香り)
同時に腕の動きに合わせ、銀色が、しゃらら、と涼やかな音をたてた。今しがた「分かるか」と言われた飾りはこれだろう。尋ねられたからには思い出そうと記憶を探り、ようやく関連する情報を見つける。
(……飾りは、もらった。この香りの人に。お祝いだって言って、渡してくれたの)
あのとき青の衣装を着た彼は恥ずかしそうな表情をしていた。
(……アーヴィンのあんな顔を見たのは初めてだったかも)
そう思った瞬間、遠くにあった色や音が戻ってきたように思えた。
* * *
「……あれ?」
ローゼは事態が把握できずに混乱する。
瘴穴を消すため地に膝をついていたはずなのに、聖剣を手にした自分は既に立っている。どういうことだろうと思っていると、レオンのもらす安堵のため息が聞こえた。
「ねぇレオン、どうなってるの?」
小声で尋ねるが、レオンからは「ああ」や「そうだな」といった曖昧な言葉しか戻らない。不思議に思いながら視線を移すと、地面では食人鬼だったものが消え去りつつあった。近くでは魔物と戦っていたらしい神殿騎士たちが、信じられないといった目つきで魔物の残骸とローゼを見ている。
彼らの視線にさらされて居たたまれないものを感じながら、何があったのかを必死に考えるうち、ローゼは食人鬼を弱い存在だと馬鹿にしたことを思い出した。
「あ、ええと……」
しかしそんなことはあり得ない。この魔物は複数の神殿騎士が集まってすら倒すのに苦戦するのだ。なんと思いあがったことを、と恥ずかしく思いながらローゼは神殿騎士たちに向き直る。
「そ、その、瘴穴は消滅しました。だから、強化されていた魔物が弱体化したので倒せたというか……えー、ご一緒に倒せて、良かったな、なんて……」
愛想笑いを浮かべ、思いついた言葉を並べる。ローゼ自身何を言っているのだろうと思うが、神殿騎士たちもどう考えて良いのか分からない様子だ。
「で、では、あの、あたしは、ちょっと周囲の確認に……」
じりじりと下がりながら適当なことを言ったところで、ローゼはようやく先ほどまでの状況を思い出す。首を巡らせ、フェリシアとヘルムートに掴まれたまま呆然としているルシオを見つけて走り出す。
「フェリシア!」
呼ばわると、フェリシアがローゼを見る。ヘルムートに一言二言何かを言った後、彼女もまたローゼの方へと走り出した。
近寄るフェリシアは笑顔だ。
彼女の表情を見て安心したローゼは力が抜ける。その場にくたりと座り込んでしまった。
「どうしましたの!?」
「……なんかすっごく、疲れた……」
フェリシアの問いに答える声は、自分が思った以上に怠そうだった。
冷えた地面に背をつけ、ローゼは仰向けに寝転がる。
石がごつごつと当たって痛かったが、それでも困ったことに動く気は完全に失せてしまっていた。
「ラザレスや神殿騎士たちとも話をしなきゃいけないんだけどな……」
魔物の脅威はもうないことを伝えなくてはいけない。騒ぎになっていない以上は大きな問題も起きていないだろうが、それでも彼らの状況は確かめる必要はある。ルシオのことだってどうなったのか知りたかった。
そんなローゼの言葉を聞きつけたのだろう、膝をついたフェリシアが声をかけてくる。
「まだ周囲に危険はありますの?」
「こんな格好してるあたしに聞く?」
「……それもそうですわね」
くすくすと笑ってフェリシアは立ち上がる。
「疲れるのも分かりますわ。ローゼは頑張りましたもの。少しそのままでいらして。皆様とはわたくしがお話して参りますわ」
よろしく、と頼み、立ち去る足音を聞きながらローゼは訝しく思う。
確かに頑張ったが、この倦怠感はその言葉では説明がつかなかった。
「……ねえ、レオン」
【なんだ?】
気のせいかもしれないが、答えるレオンの声は何かを警戒しているようでもあった。
「もしかしてあたし、神降ろししちゃったの?」
ローゼ自身、先ほどのことをまったく覚えていないわけではない。
ただ、布を隔てた向こうの出来事を見ているかのように記憶は曖昧で、感覚や感情もまたローゼ自身のものではないようだった。
加えてこの怠さだ。おそらく神降ろしで体力をかなり使ったせいなのだろう、とローゼは思っていた。
【……そうだ】
わずかに時間をおいて答えるレオンの声は明るかった。
「ああ、やっぱりそうなんだ。……ねえ、アーヴィンには内緒にしててくれる? 今回はあたしが望んでやったわけじゃないんだし、叱られるのはもううんざりなの」
【仕方ないな。分かった】
朗らかなレオンの声を聞き、ローゼは頬を緩ませた。
(よし、こっちの問題は解決ね。……さて。薬草の件が片付いたから、村で起きてた大きな問題は大体終了っと。……あとはマティアス様と話をして……パウラのことと、種と……)
指折り数えてそれぞれへの対処法に思いめぐらせ、最後に星空へ向かってローゼは左手を伸ばした。
(それにしても……あぁ……早く帰りたいな。……帰りたい。会いたい。……寂しい……)
届かない輝きに負けないほど美しい銀色を見つめる。
深くため息をついたところで軽い足音が戻ってきた。
「皆様には、もう心配はないというお話をして参りましたわ。さ、神殿へ戻りましょう」
「助かるー。フェリシア、ありがとう」
「お役に立てて良かったですわ。……ところで……」
傍らに膝をついたフェリシアが、こちらも星に負けないほどキラキラと輝く瞳で覗き込んでくる。
「ローゼはお疲れですわよね。わたくしが、おぶって差し上げますわ!」
「え? いいよ。少し休めば歩けると思うから」
「いいえ、いけません! わたくしに任せて下さいませ!」
張り切ったフェリシアに押し切られるようにして、仕方なくローゼは自分よりも小柄な背におぶさった。
「重かったら言ってね」
「平気ですわ。ちっとも重くありませんもの!」
弾んだ声で答えたフェリシアは、村の方へと足を向けながら続ける。
「ローゼ、覚えてますかしら? 聖剣を手にした後にグラス村へ戻って、神降ろしをしたときのこと」
「あれね。もちろんよ」
フェリシアが言うのは昨年のことだ。
たどたどしい言葉しか話せないレオンと共にグラス村へ戻ったローゼは、神殿でエルゼを降ろしたことがあった。
「あのとき、神降ろしをしてローゼは気を失ってしまいましたの」
「うん、そうだったね」
「……気を失ったローゼを寝台へ運ぶ役は、わたくしがやりたかったのですわ。だってローゼと一緒に神殿へ行ったのはわたくしですもの。……でも、あのときのわたくしは力が足りなくて、ローゼを運べなかったんですの。結局、アーヴィン様にお願いして……」
当時のことを思い出したのか、フェリシアの声は少し翳る。しかしすぐに明るい声で話を続けた。
「ですからわたくし、大神殿へ戻ってたくさん頑張りましたのよ。ね、その成果がありましたわ。だって、ローゼのことを軽々運べてますもの!」
フェリシアの背にいるローゼから彼女の顔は見えない。
それでもローゼは、フェリシアが南の陽光のように明るく笑っているだろうということが分かっていた。