余話:深夜の思い
グラス村の神殿に、文を携えた鳥が飛来する。
足につけている筒の色は青い。この色は大神殿から来た証だ。
速くなる鼓動を押さえながらアーヴィンは筒を開く。
(悪い内容が書かれているはずはない。普段通りの連絡に決まっている)
冷たくなる指で手紙を取り出し、文字を目で追った後、世界が傾いだ気がしてアーヴィンは座り込む。手から離れた文が遅れて地に落ちた。
『――南方では更に魔物の数が増え』
鳥文の最後の一文が脳裏に焼き付く。
『聖剣の主、ローゼ・ファラーが――』
* * *
飛び起きたアーヴィンは荒い呼吸をしながら周囲を見回した。
見慣れた私室だ。もちろん鳥がいるはずはない。
辺りは暗く、自分がいる場所は寝台で、着ているものは寝間着だった。
(またこの夢。……いや、本当に夢か?)
深呼吸をして息を整え、アーヴィンは寝台を降りる。輝石の明かりを点し、寝間着のまま執務室へと向かった。
執務机の上には鳥文を保管している箱がある。
その箱を開け、秋以降に大神殿から届いた鳥文をすべて読み直し、該当の文がないことを再確認したアーヴィンはようやく緊張を解いて椅子に身を預けた。
(良かった……)
ほっと息をつくが、安堵の気持ちはすぐ自己嫌悪に取って代わられる。
(一体何度同じことを繰り返すのだ、私は)
このところ見る悪夢には幾通りかの型があるが、今回のように鳥文が来る夢を見た場合は、本当にその文が無いことを確認するまで不安でたまらない。そのせいでアーヴィンは、夜中の執務室へ何度も足を運ぶ羽目になっていた。
最近ではこの夢を頻度が高いのだが、もちろん理由は分かっている。
北の城で物言わぬ父と汚れた母を見送った記憶。その記憶と村を出ていくローゼの姿が重なっているのだ。
別れた大事な人ともう二度と会えないのではないか、という恐怖を未だにぬぐい去れないのが、アーヴィンにとって非常に腹立たしく、そして口惜しい。
そして、必死で生き残ろうとしているはずのローゼを、夢の中とはいえ死なせてしまう己が許せなかった。
(そもそも私は、ローゼに心配ないと言ったのではなかったか?)
外へ出たローゼは残してきたもののことを考えることなく、ただ前だけを見て欲しい。自分のことは疲れて振り返ったときにだけ思い出してくれれば十分だ。という気持ちで彼女を送り出したはずだった。
(……だというのに、なかなかうまくいかないものだな。思った以上に……)
自身の弱さは分かっていたがここまでだったとは、と自嘲しながらアーヴィンは暗い天井を見上げる。
ローゼが自分を不要だと言わない限り、アーヴィンは彼女を手放したくない。しかも聖剣を手にしている今、ローゼは念願がかなった状態だ。アーヴィンはできるだけローゼの後押しをしたいと思っていた。
――それというのも、聖剣を手にする前にローゼが見せた表情を未だ忘れられずにいるせいだ。
あれは今から2年ほど前。ローゼが一度、結婚に心動いた時のことだった。
* * *
「せめてもう一度、彼女に会いたかったのですが……」
若い行商人は周囲を見てうなだれ、仲間たちのところへ戻って行った。
彼は17になったばかりだと聞いた。出身は王都寄りの西の町、商いを営む家に産まれ、父の許可を得て今年初めて商いの旅に出たらしい。
「俺は子どもの頃から実家の品を各地で売りたいと思ってたんです。見てくださいよ、質の良さならどこにも負けませんから!」
胸を張る彼は自信に満ち溢れており、アーヴィン――エリオットは微笑ましい気持ちになったものだ。しかし今の悄然とする背中には、来た時の自信がかけらも見当たらなかった。
哀れみの気持ちを抱えて商人の一団を見送り、神殿に立ち寄って来客が無いことを確認すると、エリオットは神官補佐に出かけてくる旨を伝えて歩き出す。
そろそろ夏を迎える頃合いだが、グラス村の日差しは王都ほど厳しくない。気候も冷涼なので、袖の長い神官服を着ていても平気なのがありがたかった。
緑の濃くなった木々の下、摩耗して角の取れた石畳を進むうち、やがてエリオットは視界の端に鮮やかな赤を捉える。
彼女は村内の川に架けられた橋の下で膝を抱えていた。
「商人の一団は村を出たよ。せめて見送ってあげれば良かったのに」
「期待を持たせる方が酷だわ」
足音で気付いていたのだろう。ローゼはエリオットがかけた声に驚いた様子もなく答え、間をあけて小さく「……アーヴィンのお節介」と付け加える。
態度はいつも通りだったが、声にはいつもの覇気が感じられない。おそらく彼女自身も後ろめたさや悔いる気持ちがあるのに違いなかった。
そのことに気付き、エリオットは彼女の近くで川面を眺める。
放っておいて欲しいならそれなりの態度を取るはずだ。もしローゼがひとりになりたいなら立ち去ろうと思っていたのだが、やがてさらさらと流れる水の音にまじり「そんなところに立ってないで座れば?」という声が聞こえる。
どうやら今のローゼは話を聞いて欲しい気分のようだ。
誘われたエリオットがローゼの横に座ると、彼女は川面に視線を向けたまま小さな声で尋ねてきた。
「……あたしのこと、嫌な奴だと思ってるでしょ?」
「思っていないよ」
「嘘。絶対思ってる」
ローゼは抱えた膝に顔を埋める。
「あたしだって、ちゃんと考えたのよ」
「分かってる」
「途中までは、あの人と結婚してもいいって思ってたの」
この辺りでは15歳になれば結婚相手を探し始め、20歳頃には結婚していることが多い。
16歳になっているローゼが結婚を考えるのは普通の話だった。
くぐもった声のままローゼは続ける。
「だから詳しく話も聞いたし、あの人が『復路はローゼと一緒かもしれない』って言ってるのも訂正しなかった」
「そうか」
「……でも、違ったの」
ぽつりと呟き、ローゼは黙る。
彼女が黙ってしまったので、エリオットも何も言わず、ただ水の流れる様子を眺める。
やがてローゼが「ねえ」と言うので視線を移すと、ローゼは膝を抱えたままエリオットを見ていた。
「これからする話は、絶対内緒にしてくれる?」
「もちろん」
「本当に、内緒だからね」
「誰にも言わないよ」
エリオットが請け合うと、ローゼは小さくため息をついて話し出した。
「……あのね。あたし、あの人に結婚してくれって言われたときにね。行商人っていいなって思ったの。だってあちこちの村や町に行けるでしょ? もちろん目的は商売だけど、ずっと同じ場所にいるわけじゃないのよ。素敵だと思わない?」
「そうかな」
「そうよ。行商してると、色んな所に行って、色んな人に会って、色んなものを見られるんだって。もちろんいいことばかりじゃないだろうけど、でも楽しそうだなって」
ローゼは顔を上げ、橋の横から空を見上げる。
「あたしはあの人のことを良く知らないけど、でも明るくて優しい人だったじゃない? だからきっと好きになれるって思ったの」
直後、ローゼは赤い瞳を伏せた。
「でもね……もしあたしがあの人と結婚したら、ふたりで商売をしてまわるんだって」
囁くように言うローゼがあまりにも物悲しげだったので、エリオットは困惑する。
「もしかして、ローゼは彼と一緒に居たくなかったのかな」
「……うん。一緒じゃない方がいい」
水の音にかき消えそうな声で答え、ローゼは視線を落とす。
「……あのね、アーヴィン。あたし、村の外へ出たい」
「村の外へ?」
「そう。だから、あの人の告白は一旦受けたの。――村の男たちの告白はその場で断ってるのにね」
向けてくるローゼの瞳を見た途端、エリオットは彼女が神殿の書庫に足繁く通う理由を理解した。
ローゼは村の生活に倦んでいる。
外の世界に焦がれるものの村を出る術を見出せない彼女は、本を読むことで未知の世界へ旅をしている。
今回の行商人は、そんなローゼを村の外へ連れ出してくれるかもしれない人物だったのだ。
「外を見てみたいな」
橋の下にいるローゼには影が落ちかかっているが、それでも赤い瞳だけは獲物を求める獣のように輝いている。
初めてローゼと会ってから数年。
彼女の瞳の輝きをたびたび見てきたものの、今までのものより一層強いその輝きに、エリオットは目を奪われて離せない。
「外へ出て『何か』をしてみたいの」
彼女の声もまた熱を帯びていた。
「でもね。その時に好きな人が隣に居たら、あたしはきっと甘えてしまう。せっかく念願の外の世界へ出たっていうのに、ひとりで立たずに寄りかかってしまうのよ。だから一緒にいたら駄目なの。……でも、普段は離れているけど、時々会うだけっていう関係なら……」
一度遠い目をしたローゼは、やがてふわりと笑う。
「あたしはひとりのときに思い切り頑張れると思うの。それこそ、限界までよ。頑張って頑張って、やっと戻ってきてふたりで居る時間を持てたら、その時は好きな人にうんと甘やかしてもらいたいの。もちろんあたしだって、ありがとうって言って、好きな人をうんと甘やかしてあげる。……できれば、そんな生き方をしてみたいなぁ」
ローゼの顔はエリオットに向けられている。しかし彼女自身は想定している『好きな誰か』に向けているつもりなのだろう、浮かべている笑みは今までに見たことがないものだ。甘く、優しく、そして信頼に満ち、言い表せないほどの麗しさまで含んでいる。
村でも1、2を争う美貌だと名高い彼女だが、今の表情を見れば誰もが「村どころか国内でも有数の美しさだ」と言い切るに違いなかった。
普段は奔放なローゼが見せる意外な一面にエリオットはぞくぞくし、同時に落胆する。
(いずれ誰かがこの笑みを向けてもらえるわけか)
その『誰か』は間違いなく、自分ではない人物だ。『エリオット』はローゼの隣にいることができないのだから。
心に湧き上がってきた黒いものを堪えるように、エリオットは袖の下で拳を握り締める。
幸いにもローゼはそんなエリオットに気付いていないようだった。
笑みを消した彼女は、今度は不安そうな顔をエリオットに向けてくる。
「……ねえ。馬鹿な奴だって思う?」
エリオットは首を左右に振った。
「思わないよ」
「本当に? 外へ出る予定もないくせに変なこと言ってるって笑ったりしない?」
「もちろん」
「……そっか。良かった」
エリオットの返事を聞いたローゼは安堵したように言った後、両手を地面に突いて身を乗り出してくる。
向けてくる真剣な眼差しに、エリオットの鼓動が跳ねた。
「……いい? 今の話は誰にも言ったことがないの。あたしの他にはアーヴィンしか知らないのよ。だから他の人には、絶対、絶対、内緒にしてね?」
念を押すローゼにうなずくと、彼女は子どものような無邪気さを纏わせて輝くように笑った。
* * *
暗い天井から視線を下ろし、アーヴィンは深く息を吐く。
彼女に堕ちたのはおそらくこの時だ。
『エリオット』は彼女に手を伸ばすことすら許されなかったが、『アーヴィン』は違う。彼女を求めることも、求められる可能だ。実際ローゼとは気持ちを確認しあうことができた。
(……しかし)
グラス村という狭い範囲ではアーヴィンを選んでくれたローゼだが、外の世界にはたくさんの出会いがある。
ただでさえアーヴィンの心は過去のせいで未だ安定していない。どうやらローゼもそのことに気づいているようだ。
(もしも。私に不安を覚えているローゼがある日、心から頼れる男を見つけてしまったのなら……)
そんな日は来てほしくなどないが、村へ戻って来たローゼがアーヴィンの知らない男を連れている可能性だって十分にあるのだ。
ただいま、と言うローゼの横に別の男がいる様子を想像したところで、アーヴィンは眉を寄せて立ち上がる。そのまま廊下へ出ると、開きっぱなしだった執務室の扉を手荒く閉め、私室へ戻っていつも通りの身支度を始めた。
朝まではまだ間があると時計は告げている。しかしこの後はもう、眠れると思えなかった。