10.違和感
日が昇る頃に起きだしたローゼは、空の桶を2つ持って家を出た。
「今日も天気は良さそうね」
小さく身を震わせて言うと、どこか物憂げな声でレオンが答える。
【だが、今日も肌寒そうだな】
「まあね」
気のせいだと言ったはずなのに、やはりレオンは何かを気にしているようだ。
(何が気になるのか、教えてくれればいいのに。そうしたら一緒に考えることだってできるのになぁ)
今までもそうだったが、たとえ何かを悩んでいるのだとしても、彼自身の中で答えが出ていないときのレオンはローゼがどんなに頼んでも話してくれなかった。おそらくレオンは『娘』であるローゼに良いところを見せたいのだろう。
(まあ、待つしかないか……)
諦めに似た気持ちを抱いて歩き出したローゼが向かったのは村の共同井戸だ。神殿に近いこの井戸は、神殿に近いパウラの家からもすぐ行ける。
「井戸まで近くて良かったわー。遠いと大変なのよね」
【そうか、確かお前の家には井戸があったな。水を汲むのはすぐだったろう?】
「うん、そうなのよ、楽だったわー……ってよく覚えてたね」
井戸の周囲には誰もいない。他に人がいるならばローゼはレオンと小声で話すが、今は通常通りの声を出すことにした。
「……あとうちの井戸ではさ、畑で収穫してきた野菜を洗うんだけど……」
汲んだ水を持ってきた桶に入れつつローゼは言う。
「……おばあちゃんもお母さんも、話に夢中になるとすぐ手が止まるの。そしたらあたしやイレーネが頑張らなきゃいけなくてね……」
その時のことを思い出し、ローゼは思わずため息をついた。
「あのふたりのお喋りは、本当に迷惑だったなぁ……」
【お前、そこはいい思い出を語るところじゃないのか】
呆れたようなレオンの声に笑いながらローゼは水汲みを終える。
桶を持とうとしたところで、なんとなく両の掌を開いて見つめた。
家の手伝いをしていたころのローゼの手は荒れていることが多く、時には小さな傷ができることもあった。
しかしここ数か月は水仕事をする代わりに剣を握っている。家にいたころとは違う様相になってきていた。
(リュシー様やマリエラの手はすべすべして綺麗で、さすが貴族のご令嬢って感じがしたけど……)
節くれだってきた手を眺めながら、ローゼは貴族令嬢よりも高い身分にいるはずの少女のことを思う。
王女であるフェリシアは子どもの頃から剣を握っているため、ローゼの手よりもっとごつごつとしている。リュシーたちのすべらかな手こそが高貴な女性のものだというのなら、フェリシアの手は高貴な女性を思わせるところがないと言っても良かった。
(それでもやっぱりフェリシアは王女様で……完全に神殿騎士見習いってわけにはいかないわけで……)
【どうした?】
「ん? いや――」
レオンの問いかけに答えようとしたとき、ローゼの背後からも声がした。
「こんなところで独り言を呟きながら自分の手を見てる必要はないでしょうに」
嫌な物言いにむっとしつつ振り返ると、桶を下げたヘルムートが不機嫌な様子で立っていた。
「汲み終わったならさっさとどいてくれませんかね。あなたとご一緒したくないんですが」
「あたしだって同じ気持ちだから安心して。今どいてあげるわ」
レオンへの返事は後回しにしようと決めたローゼが桶を持つと、ヘルムートは井戸の傍に来て、やれやれと言いたげな目線を寄越した後に水を汲み始めた。
「……ねえ、なんであんたが水汲みしてんの?」
ローゼが問いかけると、ヘルムートは背を向けたままで答える。
「……俺が一番下っ端だからですよ」
「ああ、そうよねー。偉そうなことを言ってるヘルムートさんは、まだ銀の鎧を着てる見習いで、神殿騎士じゃないもんねー。そうか、なるほどー」
「しつこいな」
水汲みの手を止めたヘルムートは、眉間のしわを深くしてローゼを振り返る。
「何が言いたいんだよ」
「べぇっつにー?」
しかしローゼはヘルムートに睨まれたところでまったく怖くはない。
(どうせあいつは手出しなんてしてこないわ)
小さく笑ったローゼが汲み終わった水の桶を持って歩き出すと、しばらくの後に背後で再び水音が聞こえ始めた。
やっぱりね、と思ったところでレオンの声がする。
【……お前はどうして無用な争いをしようとするんだ】
呆れを多分に含んだ声を聞き、ローゼは小さく肩をすくめた。
「だって先に喧嘩を売ってきたのは向こうよ?」
【だからって買うな。何かあったらどうする】
「いいじゃない。何もなかったんだから」
【今回は何もなかったが、次回も同じとは限らん。……もうやるなよ】
「はいはい」
レオンの小言を適当にいなし、門に着いたローゼはもう一度井戸の方を見る。
「でも、あたしが水汲み役ってことにしたの、正解だったな」
【どういうことだ?】
「だってさ」
井戸ではまだ、ヘルムートが水を汲んでいる。
「あの井戸は神殿の近くにあるでしょ。水を汲みに行ったら、神殿騎士やヘルムートがいるかもしれないって思ったの」
実際ローゼの予想通り、ヘルムートが水を汲みにやって来た。
「多分、フェリシアは神殿騎士たちと何かある。だからなるべく会わせない方がいいの。……水汲みは今後も、あたしがやるわ」
* * *
朝食をとって後、ローゼとフェリシアは馬に騎乗して村の周囲を探索にでかける。
ローゼは先にパウラと会いたかったのだが、残念ながら神官はふたりとも神殿にいなかった。
「薬草茶のことを聞いてみたかったね」
「本当ですわ!」
家の中は好きに使って良いと言われたものの、なんとなく気が引ける。結局昨日はパウラが荷物を運び入れてくれていた部屋の他、生活に必要な場所しか使っていない。
それらの場所には薬草茶が無かったので、家に香りが充満するほどの薬草茶はどこか他の場所に保管されているだろう。
家の中の香りにはさすがに慣れてしまったらしく、眠るときにはもう良くは分からなくなっていた。
しかしこうして外へ出ると、ときおり甘い香りが立ち上る。おそらく体や服に香りがついているのだろう。ということは、家の中にはまだ香りが充満しているはずだ。
「そういえばわたくし、昨夜はとてもよく眠れましたわ。今朝はとてもすっきりした気分ですの」
フェリシアが馬上で明るい笑みを見せたので、ローゼもつられて微笑む。やはり彼女に暗い顔は似合わない。
「もしかしたら香りのおかげかもよ。レオンが言ってたけど、あの薬草の香りには気持ちを落ち着かせる効果があるんだって」
「まあ。そんなことをご存じだなんて、さすがはレオン様ですわね」
「でしょ? レオンはね、薬草の知識がいっぱいあるの。……ね?」
ローゼが褒められたわけではない。しかし、レオンが褒められることは自身が褒められるのと同じくらい嬉しかった。
果たして彼はどんな反応をするだろうかと思いながら聖剣へ視線を落としたのだが、レオンからの答えは戻らない。
「……レオン?」
【あ、ああ】
また上の空だったのか、とローゼはため息をつく。
「どうしたのよ。そんなことじゃあたしも困るんだけど」
困るというのは半分言いがかりだ。本当は、気にしている何かを教えてくれないことに対してローゼは苛ついている。
【すまん】
ローゼの文句にレオンは短く謝罪を述べるが、続く言葉はない。
まだ何も言うつもりはないのか、とローゼはやや落胆したのだが、今回は少し間をおいて戸惑ったようなレオンの声が聞こえた。
【……実は、解放された気分になっていた】
「解放された気分?」
訝しみながら問いかけると、フェリシアがちらりとローゼを確認した後に、何も言わず周囲へ視線を戻すのが分かった。彼女はローゼとレオンが会話をすることに慣れている。
【もともと、エンフェスへ近づくにつれて嫌な気分になっていたんだ。……常に心の底をかき回されるような不快感がずっとつきまとっているというか……そうしたらあのでかい瘴穴があった】
レオンは言葉を探しながら続ける。
【瘴穴が消えた後も不快感は消えなかったが、なんというか……でかい瘴穴を見たせいでちょっと過敏になってるだけか、あるいは他に瘴穴があるんじゃないか思ってたんだ】
「でも昨日はあの大きい瘴穴しかなかったでしょ。今日だってここまでの間、何もないわ」
【その通りだ。だから自分でもなんだろうと思ってたわけだが……】
レオンは口ごもるが、今回は言ってしまうと決めているのだろう。そのまま言葉を続けた。
【昨日、副神官の家に入った時、不快な気分になった。なんというか、まるで濃密な瘴気の中に入ったような】
ローゼは眉をひそめた。
「どういうこと?」
【分からん。俺の方が知りたい】
フェリシアの様子を窺いながら、ローゼはレオンにだけ聞こえるよう声を落とした。
「……あの家に瘴気があるってこと?」
【それはない。瘴気は瘴穴から吹き出すものか、でなければ魔物が纏っているものだ。瘴穴や魔物がなければ瘴気など消滅するし、そもそもある程度の瘴気なら、お前にだって分かるだろう?】
確かに、とローゼはうなずく。
聖剣の加護なのか、それともレオンの『娘』としての能力なのかは分からないが、少し前からローゼも瘴気や魔物の気配がなんとなく分かるようになっている。
【だから俺の気のせいだろうと思ったんだ。……だが……】
「だが?」
言いよどむレオンを促すと、意を決したのかきっぱりとした口調で彼は答える。
【今、村から離れるにしたがって不快感は薄らいでいる。……だとすれば俺が感じた嫌なものは気のせいじゃない。やはりあの村には何かあるんだ】