41.主
ローゼがイリオスの北方神殿へ行くのは、最初にフロランと会って話をしたとき以来だ。
しかし、公爵家の人々はときおり北方神殿を訪ねている。
中でもフロランは毎日行っているのだとリュシーは語った。
「フロランはね、いつも朝食の前に北方神殿へ行くの。大精霊がいらっしゃるときだけでなく……去ってしまってからもずっとよ」
話しながら浮かべるリュシーの笑みは寂しそうだった。
「ローゼが城に初めて来たときの出迎えが私だったのは、フロランが北方神殿に行っていたからなの。だからもしあの時ローゼが城ではなくて北方神殿に行っていたなら、きっとフロランに会ったわね」
玄関から外に出ると、馬が万全の状態で手配されていた。おそらくローゼの部屋へ来る前に、リュシーが命じておいたのだろう。馬たちの中にはもちろんセラータの姿もあった。
久しぶりにセラータへ騎乗したローゼは、リュシーや護衛達と共に、城から北方神殿へ直接向かえるという道を進む。
「フロランは祖父から、木に関する話を術士たちに伝えるよう言われていたの。だから今朝、北方神殿へ行ったときに話をしたようなのだけれど、少しこじれてしまったみたい……」
ローゼに説明するリュシーの声は不安の色を帯びている。
おそらくフロランは、術士たちが不満を抱いているとは夢にも思わず、散歩ついでの気楽な調子で話を切り出したのだろう。術士たちの反発は、彼にとっても予想外だったに違いない。
「フロランは北方神殿に残って、術士たちの了解を得ようと話を続けているそうよ。代わりに、自身の護衛を伝言係として私に送って来たというわけなの」
そう言ってリュシーは、一行の中ひとりだけいる男性にちらりと視線を送る。
「私も祖父や、一応は……エリオットの従僕にも話を伝えたりしなくてはいけなくて。そのせいで今日は朝食の手配が遅くなってしまったわ。ごめんなさいね」
申し訳なさそうな表情のリュシーに、ローゼは首を横に振って見せる。
リュシーも城内ですることが色々とあるようだ。それなのにローゼの世話という面倒ごとが追加になっているのだから、逆に申し訳ない気分だった。
しばらく道を下ると、正面に石造りの門と木の扉が見えてくる。護衛が来訪を告げると扉が開き、中には何人かの北方神殿の護衛兵、そして40代半ばと見られる、ふくよかな女性が待っていた。
全員が一度リュシーに向かって頭を下げた後に、女性が口を開く。
「お待ちしておりました、リュシー様。馬は兵たちがお預かりしますので、申し訳ありませんがこちらからは歩きでお願いします」
女性の額には銀の飾りは見られない。彼女は術士ではないのだろう。
「……フロラン様は客間で術士たちと話しておられます。で、その……そちらの方は?」
女性は先頭に立って促そうとしたが、列の真ん中でリュシーと共にいるローゼに対し、驚きと好奇が混ざった視線を送ってくる。
髪を結って布を巻く時間はもらったが、服を着替える時間はもらわなかった。結局ローゼは、着ていたローブのまま部屋を出てきてしまっている。
ドレスでもなく、よく見る型の服でもない。確かにローブ姿というのは浮いている気がした。おまけにそんな謎の娘が公爵家の人物の横にいるのだから、案内の女性が気にするのも無理もないだろう。
あまり尋ねて欲しくないなとローゼが思っていると、リュシーは微笑んで女性に答える。
「お客様よ」
彼女のピシリとした声色には再度の質問を許さない威厳があった。いつもの優しげな彼女の物言いからは想像もつかない。案内の女性は慌てて小さく謝罪の言葉を述べると、黙って前を歩き始める。
それでもやはり気になるのだろう、ときおり振り向いてはローゼと、そしてなぜか聖剣に視線を投げていた。
城側の門から伸びている道を進むと、本来ならば一番奥にある大精霊の木がまっさきに見えてきた。おそらくシャルトス家の人と大精霊がすぐに会えるよう配慮したつくりになっているためだろう。
案内の女性は木の横を通りすぎ、そのまま北方神殿の建物へ向かう。
もちろん後に続くリュシーや護衛達も建物へ向かっていたのだが、ローゼは木を見た途端、理由は分からないがどうしても近くへ行きたくて仕方がなくなってしまった。
「ローゼ、どうしたの?」
足を止めたローゼに、横にいたリュシーが問いかける。
しかしローゼは問いに答えず、ふらふらと木の方向へ足を向けた。
「ローゼ?」
「お客様!」
木に近寄ったローゼは黙ったままで見上げる。
しばらくして正面に視線を戻すと、太い幹にそっと手を当てた。
その瞬間、大精霊の木から、あまりにも深い悲嘆と後悔、不安と恐怖が伝わってきて眩暈がする。伝わる感情の中には、どこを探しても明るい気持ちなど、ひとかけらもなかった。
押しつぶされそうなほどの苦しみで胸が締め付けられる。
浅く呼吸をしながら、ローゼは額を幹につけた。
――なぜ、こんなことに。
「ウォルス教の者が木に触れるなんて!」
案内の女性が木から離そうと腕をつかむ。
ローゼは彼女を強く睨みつけた。
「なぜだ」
瞬間、女性がはっとしたようにローゼを見る。ローゼと聖剣へ交互に視線を送った後、思わずといった具合に後ずさりをした。
同時に腰から、やめろ、という声がする。
【まだお前のことは呼んでいない。すぐに帰れ】
「帰れだと」
ローゼは女性から腰の聖剣へと顔をむける。
「どういうことだ、この木は。いや、この大精霊の思念はなんとしたことだ」
【頼むからこのまま戻ってくれ。今は――】
「答えろ!」
びりびりと空気を震わせてローゼは絶叫した。
いや、とローゼは身動きのとれぬ体の中で底知れぬ恐怖を抱く。
――これは自分が叫んだ声ではない。主としての力を持つ精霊、銀狼の咆哮だ。
人では到底出すことのできない響きを聞いて、北方神殿内から術士や護衛たちが何事かとばかりに出てきた。
「お前は木を見たはずだな! 木を見てこの感情を知っていたな! 知っていたのに、儂をこの木に据えようと考えていたのか!」
【銀狼、頼む、どうか――】
「ふざけるな!」
怒り狂う銀狼は、レオンの言葉に耳を貸す様子がない。
銀狼と共に体にいるローゼは、彼の怒りのすさまじさにくらむような思いをしていた。
「この思いはなんだ! 数千年もの間生き続け、地を守り続けた精霊が、何故このような暗い感情のみを残して逝くことになる!」
北方神殿内から出てきたフロランが雷に打たれたかのように身動きを止める姿を、銀狼に支配された体の中からローゼは見ていた。
「儂にも同じようにせよと言うのか、聖剣! 数千年に渡って地を守り、人に都合よく扱われ、そして最後には絶望して去れと、そう言うのだな!」
見える範囲の人々は、リュシーやフロランも含め、みな一様に膝をついている。
精霊に関する力がある分、激しい怒りの感情が特に伝わるからだろうか、術士の中にはおののき、震えている者も多くみられた。
もちろんローゼは銀狼の怒りを間近で受けている。
彼の燃え盛るような感情を受け、消滅してしまうのではないかという思いにとらわれながら、己を見失わないための標として必死に聖剣へ意識を向けていた。
だからこそ、レオンの恐怖も嫌というほど伝わってくる。
銀狼は2000年の生を受けた精霊と同等の力を有しているという。そんな銀狼が主に怒りをぶつけている先は、400年ほどしか生きていない、しかも元は人であるレオンだ。本来ならば彼だって恐慌状態に陥ってもおかしくないだろう。
しかしレオンはわずかに震えた声で、静かに繰り返す。
【銀狼。どうか銀の森へ戻って欲しい】
「先に答えろ、聖剣!」
【戻ってくれ、娘から離れてくれ、銀狼、お願いだ】
銀狼の怒りを真っ向から受け止め、レオンはただ戻るようにだけ頼む。銀狼を介して伝わってくる彼の心には恐怖と、それ以上に深いローゼへの思いだけがあった。
これが精霊か、とローゼは表現ができないほどに心が震える。
今朝、庭で青年から聞いた「精霊の情愛は深さが人と違う」という言葉が理解できたような気がした。
同時に銀狼へローゼの心が伝わったように思う。銀狼の気持ちはローゼに伝わるのだから、確かにその逆もまたあるだろう。
今のローゼの存在はとても小さく、強大な銀狼の心をごくわずか揺らしただけにすぎない。
しかし自分の思いが銀狼の中で波紋のように広がったのを、ローゼは理解していた。
現に銀狼は、それまでの激昂ぶりが嘘のように動きを止めた。
しばしの間うつむき、深く呼吸をする。
次に発した声は、今までとは違って落ち着いたものだった。
「……まったく、精霊とは厄介なものよの」
銀狼は聖剣を見、そして木へと視線を向けた。
「大精霊は人を想ったがゆえに、数千年分の暗い気持ちを残して去らねばならなかったというのに……」
喉の奥で小さく銀狼は笑う。
「残した気持ちの中に、人を愛したことに対する後悔だけは、どこにもないではないか。のう、聖剣よ」
風に葉と花を揺らす木を見上げながら、銀狼は独り言のように呟く。
レオンからの返答はなかった。
銀狼はそっと木の幹に手を当てる。
「そう恐れるな、聖剣よ。お前との約束は守る。違えたりはしない。しかし……」
しばらく黙って木に触れた後、わずかに苦笑して銀狼は人々の側へ向き直る。
「なるほど、そなたらは儂の存在を疑っておったのか。――無理もない。儂が望んで隠れておったのだからな」
どうやら銀狼は、ローゼの記憶を覗き見たらしい。他にどんな記憶を見られたのだろうとローゼは羞恥の念を覚えるが、さすがに今の状態ではどうしようもなかった。
銀狼は傲然と頭を上げる。
ローゼが部屋を出る前に髪を隠すため巻いた布はとうに落ち、結っていたはずの髪も解けている。腰までの赤い髪は木の葉と共に風に舞っていた。
続いて銀狼は腰の聖剣を抜いて掲げる。
「では改めてここに宣言しよう。今は人の身を借りて話しておるが、銀の森の銀狼は健在だ。儂の友である聖剣と、聖剣の娘によって助けられた。もしまだ疑うものがあれば、銀の森へ来るが良い。分かったな?」
言いながら銀狼はぐるりと人々を見渡した。
大精霊の木と北方神殿の間はそれなりの広さがある野原になっている。
そこには現在、公爵家関連と北方神殿の人々が合わせて50人近くいるのだが、全員が改めて頭を下げる。中には泣いている者の姿もあった。
満足した様子でうなずいた銀狼は「さて」と言いながらもう一度木へ向き直る。
「それではそろそろ――」
【銀の森へ戻るか?】
安堵した様子でレオンが答える。
銀狼は豪快に笑った。
「そうではない。このままお前の頼みを聞いてやろうというのだ。ありがたく思え」
【なっ……? いや、待ってくれ、銀狼! 人の側にも都合というものがある! 今は――!】
銀狼は抜いたままの聖剣を両手で持ち、腰のあたりに構えた。
ローゼも必死でやめて欲しいという意思を伝える。
公爵が指定した日はあと20日ほども先なのだ。しかも今いる公爵家関連の人物はフロランとリュシーだけ。他の有力者はともかく、せめて公爵だけはこの場にいてもらわなくてはならない。
しかし銀狼は不思議そうな表情で首をかしげた。
「都合だと? 儂とお前とお前の娘がいるのだから、何も問題ないではないか」
【問題はそれだけじゃない。人が暮らすには、いろいろな決まりがあるんだ】
「ううむ……? しかし儂が木に力を籠めれば良いということには変わりないのだろう?」
【それはそうだが、事情がある。今はまだできないんだ】
小さくうなったまま銀狼は顔をしかめていたが、やがてうなずく。
「そうか」
【分かってくれたか?】
「せっかく儂が来てやったのだから、やはりこのまま済ませてしまおう」
銀狼に人側の事情を汲むつもりはないようだった。
【だから待て! 話を聞け! やめろ、狼!】
「よし、友よ、しっかり力を受け取れ!」
焦るレオンの叫びも、制止するローゼの意思も無視して、銀狼は両手で持った聖剣を大精霊の木へ突き立てた。




