40.変移
部屋に戻ったローゼは椅子に座り、机に置いた聖剣の柄を叩いて呼びかける。
「さっきは止めてくれてありがとね、レオン」
【気にするな】
答えるレオンは庭での様子が嘘のようにいつも通りだった。
【その様子からすると、あいつとの話し合いはうまく行ったな?】
「うん。止めないって言ってもらえたよ」
【そうか、これでお前も心おきなく銀狼を呼べるわけだ】
レオンの声からは、純粋に憂いがなくなったことを喜ぶ響きしかなかった。
それでもローゼは先ほど聞いた「本音を言えば俺だってローゼを止めたい」という言葉がどうしても気にかかって仕方がない。
尋ねても良いのかどうかを悩んだ後、上機嫌で今後の話をするレオンを遮ってローゼは声をかけた。
「ねえ、レオン……」
【ん? どうした?】
「……あのね、本当はあたしのことを止めたいと思ってるの?」
【ああ】
問われたレオンは、わずかに苦笑する様子だった。
【さっきの話か】
「うん。……その、もしもレオンが本当にあたしを止めたいと思ってるなら……」
【あれは気にするな】
きっぱりと言い切られるが、ローゼは本当に信じて良いのかどうかが分からない。
悩んで何も言えずにいると、察したらしいレオンが言葉を続けた。
【俺はお前のものだ。だから俺はお前の望みが叶うよう、全力で助ける】
レオンの声からは嘘の響きを感じなかった。
それでもどことなく申し訳ない気がして、ローゼはぼそぼそと言葉を返す。
「……レオンが真剣に言うことなら、その、あたしだってちゃんと聞くけど……」
レオンはため息をついた。
【馬鹿かお前は。ここまで来たんだから。あとは成功させることだけを考えればいい。今更余計なことを言うな】
「でも……」
【いいか?】
有無を言わせぬ雰囲気で、レオンは強く言葉を発する。
【本当に道を間違えているのなら俺は止める。でも今回は止めないだろう? そういうことだ】
ローゼはようやくうなずいた。
「……うん」
【大体な、今はしおらしいことを言っても、お前は一度決めたことを押し通すじゃないか。次に何かあっても絶対に俺の意見に耳を貸したりしない、賭けてもいいぞ】
笑いながら言ったレオンは、ふいに黙り込む。やがて、小さな声がした。
【……本当に、強情なところも……】
エルゼにそっくりだからな、という言葉が最後は耳に届いたように思うが、ローゼは表情を変えず、何も聞いてないふりをした。
* * *
いつかの夕食のときのように、この日の朝食も届けられるのは遅かった。さらに言えば運んできたのも同じように侍女だけだ。
リュシーはどうしたのかと尋ねてみると、やはり以前と同じく「ご家族で過ごされておられます」という返事が戻る。
食事内容がパンに肉や野菜などをはさんだ簡易的な物なのも同じだったが、今回はさらに、朝食と共に昼食まで入っていた。つまり昼食時には誰も来ないということだ。
さすがに何かあったのかと不安になるが、ローゼが尋ねても侍女は微笑と共に「お客様が心配なさるようなことはございません」と返すのみ、結局何も聞きだすことができないまま去ってしまった。
朝に会った彼の護衛とはずいぶん質が違う、と妙なところで感心をしつつも朝食を終えたローゼは、不安を拭うように明るくレオンへ声をかける。
「さて、今日はどうしようか」
リュシーが来なかったので新しい本はない。
ローゼの『出番』まではあと20日ほどあるのだから、今日のようにリュシーが来ないことだってあるはずだ。本以外に暇を潰す方法があれば良いのだが。
そこまで考え、ローゼは手を叩く。
「そうだ。せっかくだからさ、お辞儀の練習でもしようか」
【歩き方訓練の補習みたいだな】
「うるさいわね」
先日、公爵たちの前で礼を取ったとき、ローゼの出身が上流でないことはあっさり看破されてしまった。
この後も礼をする機会は増えるだろう。もしかすると北方神殿で銀狼を呼ぶときにも必要になるかもしれないのだから、空き時間を使って所作の練習をするのは良い案だという気がした。
「もしかするとまた着るかもしれないし、練習はローブでしようかな」
言いながら、先日脱いで大切にしまっておいたローブを荷物の奥から出す。
フェリシアからもらったこのローブに着替えるのもだいぶ慣れてきた。
以前ローブを渡された時にはただうんざりするばかりだったが、全く関係ない場所の、当時は思いもしなかった状況で役に立ってくれている。
フェリシアがいてくれなかったら、今のローゼはきっとないだろう。
友人に改めて感謝の気持ちを抱きつつ、箪笥の中から聖剣を取り出し、机の上に置いた。
「いい? ちゃんと綺麗にできてるかどうか見ててね」
【見るのは構わないが、具体的にどこが悪いのかは分からないぞ】
「それもそうか。元はと言えばレオンだってただの村人だもんね。じゃあ今度リュシー様が来たとき、どの辺りを直せばいいのか教えてもらおうかな」
そんな話をしていると、部屋へ近づく靴音が聞こえる。男女含めた複数の足音だが、慌てているのか音も大きく、おまけにずいぶん速足だ。
嫌な空気を感じてローゼは眉をひそめる。
女性がリュシーならまだ良い。しかし彼女以外、特にナターシャだった場合は大いに困る。動きにくいローブに着替えてしまったことを後悔しながら、ローゼは机に置いたばかりの聖剣を左腕で抱えた。
やがて足音が止まり、扉が叩かれる。
「ローゼ、リュシーよ。開けてくれるかしら」
密やかに呼びかける声は確かにリュシーだ。
朝食のときには来られなかったのに今来るのだから、きっと良くないことがあったに違いない。
扉を開けてみれば立っていたのはリュシーと護衛の女性騎士だったが、なぜか男性の騎士も混ざっていた。彼の顔には見覚えがあるように思えて首をひねるうち、フロランと一緒にいた護衛であることを思い出す。
フロランの護衛が、どうしてリュシーと一緒にいるのだろう。
訝しみながら中を示すと、入ってきたリュシーは憂いを帯びた瞳でローゼを見る。胸の前で両手を握り合わせてから、口を開いた。
「……ローゼ、今から北方神殿へ行ってもらえないかしら」
「北方神殿へ?」
意外なことを言われたため、問い返すローゼの声は少々上ずってしまった。
イリオスの北方神殿は城のすぐ横にあるのだが、城は小高い丘の上に建っているので、行くためにはうねる道を下る必要があった。そのため距離だけなら遠くはないが、時間はかかる。
しかし、余所者のローゼが部屋から出るばかりか、北方神殿に行っても良いのだろうか。戸惑うローゼに、リュシーは話を続けた。
「ローゼが出した大精霊の木に銀狼を宿すという案を、公爵閣下が了承したでしょう? フロランはその話を伝えにイリオスの北方神殿へ行ったのだけれど……」
リュシーは背後に立つフロランの護衛を見る。進み出る彼からは感情が読み取れないが、顔色は良くなかった。
「フロラン様から話を聞いた術士たちが反発したのです」
「反発?」
「術士になんの相談もなく精霊に関することを決めたのが、彼らの気に障ったようです」
ローゼは眉根を寄せる。
確か先日の夜、決定の場にいたのは公爵と分家の4人、それにフロランだった。
シャルトス家の当主は精霊関連において最上位の人物だと聞いている。
本来ならば公爵の意見は術士たちの誰よりも尊重されるのだから、彼が決定し、命令することに術士は逆らわないはずだ。
しかし現公爵は古の大精霊から嫌われたため、彼女の命令により精霊術を扱うことができない。この場合、術士から見れば公爵というのは自分たちより下位の存在になるのだろうか。
いや、事実そう思われたからこそ、術士たちは今回の話に反発したのだろう。
「その他、計画の中心となるのがウォルス教の人物だったということも、彼らにとっては我慢ならぬことだったようです」
護衛の男性はローゼをちらりと見るが、それに関しては確かに術士たちの気持ちが分からなくもない。
公爵家が言うから50年もウォルス教の人物を入れぬよう努力してきたというのに、当の公爵家はウォルス教の人物が言うことをあっさりと信じて手のひらを返せと言っている。
しかもこれらはすべて、術士の意見を聞くことなく、精霊に嫌われた公爵、または精霊の力を持たない有力者たちが勝手に決めてしまったのだ。
そうか、とローゼはため息をつく。
――つまり彼らに黙って命令を聞かせるだけの力が、公爵家にはもうないのだ。
「で? そんな状態の北方神殿へ、あたしが行かなくてはいけないんですか?」
ローゼが嫌々ながら尋ねると、フロランの護衛は丁寧に頭を下げて述べる。
「術士たちは本当に銀狼がいるかどうかがまず信じられないようなのです。北方神殿へお越しいただき、証拠となる銀狼の毛を見せてもらいたい、というのがフロラン様からのお言付けです」
【勝手なことを言う……】
左腕からため息まじりのレオンの声がする。ほぼ同時にリュシーがローゼの右手を取った。
「私も同行するわ。ローゼのことも守るよう、私の護衛にはよく言って聞かせるから……どうか、お願い」
リュシーはうるんだ瞳で見つめ、懇願の声色でローゼに頼んでくる。
彼女が弟のフロランを心配しているのは分かるが、しかしさすがに、ローゼも即答ができない。今しがた術士たちはウォルス教の人物に良くない感情を持っていると聞いたばかりなのだ。たとえ公爵家に不満があっても大精霊の息子であるフロランに対しては何もしないだろうが、ローゼに対してはどうだろうか。
レオンは呟いた一言を最後に黙ってしまっている。今後のことも含めた一連の流れを考えると、彼ですら行けとも行くなとも言えないようだ。
ローゼはうつむいて唇を噛みながら静かな部屋の中で思いを巡らせる。
やがて顔を上げるとリュシーの瞳を見てうなずいた。