石橋は叩いて渡るな。
大和龍臣首相は、一ノ瀬から与えられた疑念について東郷官房長官の助言を求めた。
「もはや何も信じられん。そもそも私は一ノ瀬君が怪しいと前に言ったはずだが、つまり自分が疑われないように、一ノ瀬君がそういう話題を自ら振ったとさえ解釈できる」
政治家としての東郷の評価としては、老獪という二文字がよく似合うとされる。謀をするのはさておき、謀を見抜く能力は常人の領域ではなかった。それは「一旦疑ったら徹底的に疑う」という、彼が政治家人生を送る中で培ってきた独自のイズムと言って差し支えないだろう。
「石橋を叩いて渡るんじゃなく、石橋を自分で造るんだよ」
とは、良く出来た自戒である。彼は自戒が何のためにあるかの心得ていた。すなわち忠実にそれに従ったわけである。例えば、彼は自分で派閥を作ったし、後継者も一から良く育てた。しかし彼の疑いの目は、手塩に育ててきた岡本に対しても向けられるのである。
「東郷先生は、一ノ瀬と岡本君とのつながりが何かあるんじゃないかと疑ってらっしゃったように記憶しておりますが」
「確かに、それについては進展がないが。大和君。あまり私は積極的に謀る人間じゃないんだが、こういうのはどうだろう」
東郷にはある意味受動的な側面があった。つまり怪しいターゲットを見つけた時は、まるで探偵のように監視して、ターゲットが尻尾を出すまでじっと待つのだ。
「私としては、岡本と一ノ瀬君が二人でこっそり密会したりしないかよくよく目を光らせているのだがね、いっそのこと能動的に捜査しようじゃないかと思う訳だ」
「何をするんですか」
「それが、良い手が思い浮かばないんだ。何せ、私は全くこういう事をしないものだから」
総理執務室の空気が若干シラケたように思われた。大和は小さくため息をついた。軍師は人を疑いすぎて将来自滅しかねない危うさを持っていると、大和は気が付いたのだった。
「だったら、もう疑いは晴れたという事でいいじゃないですか。証拠が出てこないんですから」
「でも、警察は指紋を調べたりするだろ?そうだ。八神君に聞いてみようか」
大和は東郷がわがままを言っているように聞こえたし、特別顧問の仕事として探偵業は適切なのかとも思ったが、彼らに話を通すこと自体を拒否するのもどうなのかとも考えた。
「まぁ、いいでしょう」
安保対特別顧問団にこの話が伝わったのは12月15日の事だ。八神が話を聞き、特別顧問会議に諮ったのである。
「これが東郷とかいう官房長官様から出された宿題ですか」
秋月郁磨は東郷からの要求についての資料を破り散らしたかった。しかし諸氏に何を言われるかわからなかったから、目力だけで紙を破れないものかと資料を凝視した。だが当たり前だが彼の熱意は超能力を発生させるには至らなかった。
「これはひどいね」
夏川綾斗は一言の感想だけ漏らし、以下は省略するという形を取って、度を越えた悪口を言わないようにした。
「老獪とか聞いたが老害の間違いなんじゃないか?」
鳥羽光希だけが平常運転で非常識な物言いをつけたが、諸氏からたしなめられるお決まりの流れは今回は発動しなかった。例えば月詠蒼明が良く冷静な一撃を繰り出すが、クールな彼の思考は一段先に進んでいた。
「しかし、我々の作戦の停滞はこれが解決されないことにはどうにもならない訳です。他人に任せるよりかは自分らで片付けてしまった方が早いでしょう。なら引き受けるのが合理的な判断では?」
それを聞いた、理性と感情とが水と油のように完全に分離できない若衆らは、
「うーむ」
とうなるしかなかった。
「天才の邪魔をするのは凡人だと言うが、それを処理するために、貴重な天才のリソースを割くのは、才能の無駄遣いじゃないか」
春日飛雄はそのように月詠に若干の反論を試みた。しかし当然の返答を食らってしまう。
「あなたは豪胆でも、天才ではないと思いますが、つまり私がやるよと立候補してくれたわけですね」
「それは…わかった。私が何とかしてやろう」
面倒ごとを嫌う若衆は心中で春日に感謝しただろう。




