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ビトレイヤーは賢明だ。

 八神海斗に対する評価は極めて高く、その才から、『今孔明』、いでたちから『和服の天才』、立場上から『若衆筆頭』、常人には到底及ばない独創的なその作戦構築力から『極東の奇術師』(最もこれは主に海外からの評価だが)、などの異名を持つ。


「実に的外れだ。その針に糸を通すような作戦の裏にある綿密な想定にこそ、凡人離れする所以があるというのに」


 これは『春夏秋冬花鳥風月』と呼ばれる若衆諸氏らが口を揃えて言うところである。


 無論、鳥羽光希に課せられた対米交渉も例外ではなく、八神は極めて詳細なケースバイケースの対応について思考を巡らし鳥羽に指示しようとしたが、


「大雑把には把握しているのだから、別に良くないか?」

「長くなりそうだからPDFで送っておいてくれ。大丈夫ちゃんと読んどくからさ」


 と、鳥羽に機先を制されてしまった。


「おい八神、本当にこいつで大丈夫なんだろうな?」

「そうは言っても夏川さん、英語が一番出来るのは鳥羽じゃないですか」


 一悶着あって、結局必ずPDFを読むことを条件に夏川は矛を収めたのだが、八神でさえも想定しえなかった問題が起きてしまうのである。


 鳥羽は飛行機に乗ったことはほとんどなく、幼少期、一度だけハワイに海外旅行したことがあるらしいのだが、本人の記憶ではなく彼の両親に教えてもらったことに過ぎない。


「さて、面倒だが約束だし…」


 ワシントンへの機上で、鳥羽は読書欲と絶縁した精神を何とか奮い起こし、スマートフォンの電源を入れた。


「失礼ですが、お客様。電波を発する機器の使用は機内モードでお願いいたします」


 言い終わるや否や通り過ぎて行ったキャビンアテンダントの言葉は、懇切丁寧な言葉遣いであったが、鳥羽にとっては冷徹な一撃となった。そうだった。やってしまった。せめて事前にPDFのダウンロードはしておくべきだった!


「こいつは傑作だな」


 鳥羽は自身に向かってお得意の非常識な物言いを鼻で笑ったが、心では嗤っていなかった。むしろ震え上がっていただろう。


「万事予定通り上手くいってくれよ…」


 機内で彼は、防研研究員時代の研究ファイルを頭の中でよくよく回想し、精神の安寧を図ったが、何せ八神は作戦の方向性を核保有の自認から、核保有の否認しつつ信じ込ませるというより込み入った方針に転換しているものだから、あまり役に立つ回想とは言えなかった。


 結局彼はワシントンに到着してから面会の約束の時間までの短い間、全神経を集中して文字通りPDFを読み漁ったが、全て完璧に目を通すことは叶わなかった。


「むしろそこで逃げ出さずに面会に臨んだことは褒めてやる。ひねくれてはいるが、幸いなことに鳥羽氏は正直者だった」

「当たり前だ。定期試験をその日の朝に思い出したとしても、電車の中で必死に詰め込んで登校するだろう?落第は御免だ」

「あのなぁ…」


 後で事情が知れてからの本人の開き直りぶりには、不遜で通る冬城翔さえも、思わずため息を付くほどだった。



 さて、面会の冒頭、ビトレイヤー国防長官を若干困惑させたが、鳥羽は、自分ひいては八神が一体何者なのかについての説明を流暢な英語で施して、ビトレイヤーを感心させた。


「なるほど大体わかった。面会を私に申し込んでよかったな。もしもセルフィッシュの奴などに君が向かおうものなら、身分が釣り合っていないとかで君を拒絶しただろうに」

「そんな私めに会ってくださるとは。国防長官は全く賢明な方でいらっしゃる」


 予想通りの反応に、鳥羽は柄にもなく礼節ある返答をしてしまった。出立の前に、鳥羽が八神から耳打ちされたことは実はこの事だったのだ。その裏には情報通の一ノ瀬副総理からの助言があったが、それを受け入れた八神にも一定の評価はするべきだろう。


「君はお世辞も流暢なんだな。して、極秘で乗り込んできたからには、よほど重要な交渉があると見たが、教えてくれるかな?」

「では単刀直入に申し上げますが…」


 鳥羽光希はまた柄にもなく真っすぐな目でビトレイヤーをじっと見た。それに応えるようにビトレイヤーも鳥羽を直視する。


「拉致被害者の奪還にご協力いただきたいのだ」


 まさしく八神劇場の第二幕が切って落とされた瞬間である。

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