4章 透析
「交通事故?」
千鶴は食堂で一緒になった葉月の担当医の伊藤祐樹と話していた。
食堂で食べている人はちらほらいたが、12時を過ぎているというのに閑散としていた。
病院という職場上、入院患者の誤嚥などが多いこの時間帯、科にもよるが看護師も医師もゆっくり食堂で食事をすることもままならないのだ。
「はい、千鶴さんが来る3年前、今から5年前になりますね。
葉月さんと母親の裕子さんが一緒に交通事故にあって、救命救急に運び込まれてきたんです。
何とか一命を取り留めたんですが、裕子さんは下半身付随に。
葉月さんは12肋骨が腎臓に刺さり、腎機能が著しく低下し、当時から人工透析に頼っています。」
そういって伊藤はコーヒーを口に注いだ。
「でも柴崎先生が担当した患者さんでもない人のことを聞くなんて珍しいですね。どうかされましたか?」
「いえ、少し葉月さんのご家族の方とご縁があってね。人工透析ということは週に三回ほどに病院に来ているってこと?」
「ええ、いつも月、水、金曜日のサイクルで透析してますね。」
誠が再検査は月水金ならいつでもいいと言っていたのはこういうことか…
「あそこのご家族は賑やかで楽しいですよ。透析が毎週三回、四時間あるのに、一人で来られたことは未だにありませんから。
それでいて話すことが無くならないのか、よく騒がしくて他の患者さんから怒られてますよ。」
伊藤はクスクスと笑った。
「でも、不思議と嫌われることが無いんですよ。
気が付いたら怒っていた他の方と仲良くなっちゃってたりして、最終的に婦長さんに皆して怒られたこともありましたね。」
「宇佐美婦長が怒るってよっぽどうるさかったのね。」
柴崎は少し呆れ気味に行った。
宇佐美紀美代婦長はきっちりした性格で、それでいて患者さんには折り合いを付けて柔軟な対応ができる理想の看護師だ。
多少は患者さんが大声で話していても元気な証拠と笑っているのだが、その婦長が怒るなんてどんな騒ぎ方をしたのだろう。
「ところでCAPD(腹膜透析)はしないの?」
柴崎はさっと話を戻した。
*腹膜透析:おなかの壁と、消化管などの内臓の間にある空間に透析液という液体を入れ、毛細血管の透過を利用し、血液中の悪い物質を出す方法。人工透析よりも患者自身の時間が制限されない、自宅で療養できるというメリットがある。
「本人は腹膜透析を希望してたんですが、交通事故で腹膜内臓器も傷つけてて出来ないんです。
偏見で腹膜透析を避ける患者さんがいることを考えるとかわいそうですね。」
「偏見?」
伊藤はコクンとうなずいた。
「なにせ腹腔内に透析液という異物を入れる治療法なので、女性の方は美容上の問題や、腹膜劣化で子供が産めなくなるんじゃないかって、頑なに断られる方がいるんです。
たしかに問題はいくつかありますが、透析に比べ血液の変化が緩やかな上に通院のストレスも少ない。なにより本人の健康状態維持が一番大切なんですが…
患者さんが望まない治療はすることができないですからね。」
伊藤は肩を落としていった。
「腹膜透析は腎臓の残存機能を少しでも長い間持続させるいい治療法なのに…インターネットの治療に対する中途半端な知識というのは厄介よね。」
柴崎はやれやれと額に手を置いて、目を閉じる。
インフォームドコンセントが義務付けされてから医者の立場は患者ととても近いものになった。
その結果、癌などの告知、重症度も隠すという選択は無くなり、「治るって言ったじゃ無いか!」などの口論は減った。
だが、それは幸せなことばかりでなく、患者の家族に現在手を打てない、ただ死にゆくのを見ているしか無い。などの現実を突きつける事になった。
そう、説明が詳しく、オブラートがなくなったことによって、知らなければ見せられる笑顔も見せられなくなる。
つらい現実に目をそむけ、見舞いに来なくなってしまった人もたくさんいた。
治る希望がないと言われた家族は、同じ時期に普及したインターネットで病気の事を調べる。
そして治ったという事例を見つけては医者に提案する。
が、海外の特殊な機材、特殊な手術方法などで、とても日本では実現出来ない。
しまいにはパワースポットだなんだと無理な遠出をさせて悪化させるケースもあった。
結局のところ、絵に描いた餅を見ながら、進行を遅らせる程度の治療しかできない現実がのしかかるのだ。
そして、どれが嘘で、どれが本当かもわからなくなる。
科学的にこうだ!偉い人が言っていた!効果がある人がこんなにいる!などといったどこのだれが書いたかもわからない記事を信用してしまう。
しまいにはイソジンを原液で飲むなどのインターネットのイタズラ書きを鵜呑みにする患者もいる。
要するに私達医者はインターネットのイタズラ書きよりも信用されていないのだ。
医者になるために専門の学校で必死に勉強し、国家試験をクリアし、臨床で頑張っても顔の見えないだれかのいたずら書きよりも信頼されない。
…
「それにしてもずいぶんと詳しいですね。
透析患者の担当でもしたことがあるのですか?」
伊藤は嫌な話を逸らすように、にこやかに言った。
「いいえ、ちょっと昔に論文でかじっただけよ。
で、今後の治療計画は?」」
柴崎はそう言って髪をかきあげて前を向いた。
「そろそろ透析だけでは危ういですね。来年には腎移植をしないと限界でしょう。」
「移植…ドナーはいるの?」
「ええ、葉月さんのお姉さん、文月さんがなるようですね。」
人工透析患者は現在30万人を超える。
それに対し、ドナー登録している人の数は1万2000程度。
適合率、遺族の声などにより、他人からの移植はほぼ絶望的なのが現状だ。
高齢化、生活習慣病、患者は増える一方なのに、ドナーは一向に増えない。
たとえ脳死で治る見込みがないとしても、身内の体を傷つけたくないという遺族の声が多いのだ。
だから脳死の人がドナーになるより、患者の家族がドナーになることが非常に多い。
腎臓を渡すということが負担になるかはわかっていても、ほかに選択肢はないのだから。
「せめて拒絶反応が起こらないことを祈るしかないわね。」
「いえ、その心配はないでしょう。」
「どうして?」
「同系移植ですよ。」
「うそ!ほんとに?」
「ええ、葉月さんと文月さんは一卵性双生児です。」




