3章 葉月
三章
「ツナコロッケ…先駆け前後…工場に朝顔隠した…」
むむむ…
昔ながらのひもの揺れる蛍光灯の下、本棚に囲まれた狭い勉強部屋で、誠は本を片手にぶつぶつと妙な言葉をつぶやいていた。
「お兄ちゃん何言ってんの?栄養学?」
向かい合わせで勉強している葉月が不思議そうに誠を見ている。
「解剖学の語呂合わせ。」
授業中に書きなぐったノートと格闘しながら誠はうなった。
大動脈から分岐する血管の名前を覚えるのだが、語呂の数が多すぎて何がどの語呂だったのかを思い出すところからが第一段階。
たまに語呂だけノートにとってあって、意味がわからないなんてことがあるから大変だ。
「おまえも看護師になったら嫌でも勉強するんだから一緒に覚えるか?」
「私はその看護師になる大学に合格しなくちゃいけないから、そっちのほうで精一杯だよ。」
そう言って英語の教科書とにらめっこを始めた。
病気と向き合う仕事とはいえ、一般教養をおろそかにしては治療者になる権利すら得られない。
実際のところ、治療者として必要と言うよりも、この程度の苦行で諦めるようでは、医学知識は頭に入りきらないってことなのかもしれないが…
「あー!英語嫌い!英語なんて使わなくても治療は出来るでしょ!なんで関係ない勉強しなくちゃいけないの?」
文月の言葉に、思わずガクッと頭を落とした。
「お前は俺の思考を読んでるのか?」
「同じ腹のムジナですから。」
「同じ穴だろ…」
俺らは母さんの寄生虫かよ…
「英語は出来る方がノートやカルテが取りやすいんだよ」
「漢字でもカタカナでも解れば良いんでしょ。わざわざ外国語じゃなくてもいいじゃん。」
まぁ確かに。
「それはあるけど、やっぱり治療法とかは頭文字をとったものが多いし、名称でも外国語が多いからね。
ほかにもキースフラック結節とかみたいに日本語と発見者名が繋がったものもあるからな。」
「キースフラッグ?」
「キースフラック。それだけじゃ何処の何かわからないだろ?」
「わかるわけ無いじゃん。習ったこと無いんだから。」
文月は馬鹿じゃないの?とでも言いたげな顔をした。
「ならペースメーカーは知ってる?」
「心臓の悪い人が付けるあれでしょ?携帯の電波で壊れる。」
「まぁ最近のは多少の電波はシャットアウトできるから誤作動することはあまりないらしいけど…あれは心臓にあるペースメーカーが正常に働かない時に付けるものだから、実際の心臓にもペースメーカーはあるんだよ。」
「ふーん、で?」
「キースフラック結節。日本名は洞房結節。そして、ペースメーカーの役割をもつんだ。」
「めんどくさ!ペースメーカーの一つにまとめれば良いのに!」
たしかに!違う違う…
「でも3つが同じものを指すとわかると、逆に分かりやすいんだよ。」
「?」
「ペースメーカーは文字通り、電位の歩調を取ると言う意味。
洞房結節は大静脈の洞と右心房の間にあるから洞房結節。まぁキースフラックは発見者の名前だけど…
名前を覚えて、英語が解れば作用まで分かるんだって。」
「んー…でも別に一個一個覚えてしまえばいいじゃん。」
文月はまだ腑に落ちないようだった。
「他にはミオシン、ミオグロビンなどがあるけど、ミオは筋肉という言葉だから筋肉で働くものかな。とか、病気ではアシドーシスは酸性雨とかのアシッドから来てるから、血液が酸性になるのかなとか、いろいろ繋がりやすくなるんだよ。」
「むー…」
口を尖らせて目をそらした。後一押しかな?
「単語を点で覚えてもいいけど、点と点を結んだ方が物事は忘れにくいし、一見無駄な知識かなと思うことも単語と単語を言葉の意味という線に結んでおけば以外と役に立つはずだよ?」
文月は一通り、「うーん」とうなった後、うんと短くうなずいて、
「わかった。英語も頑張ってみる!お母さんと葉月ちゃんのためだもんね。」
そう言って英語の書き取りを始めた。
ちょろい…
が、あんまり根をつめてやったところで効率は良くならない。
人の集中力の持続時間はたかが知れているからな。
誠は、パキパキと指をならして伸びをした。
「文≪ブン≫、何か飲みたいものあるか?」
「キーマカレー。」
どこのデブだよ…
「カレーは飲み物にはいりません。」
「じゃあアイスコーヒーで。」
「あいよ。」
にひひっと笑う文月に片手をひらひらと振って、部屋から廊下に出た。
部屋の中にいたから気付かなかったが、廊下のほうがひんやりして部屋より涼しいかった。
ふと、階段の窓から外を眺めると、月がぼんやりと空に浮かんでる。
少し大きめの鼻歌交じりに台所に入ると、風呂上がりの葉月が虚ろな顔で歯を磨いていた。
お互いに顔を合わせてしばしの沈黙。
「お兄ちゃん、窓あいてるよ。」
「…しってる。」
「…。」
葉月はふぅっとため息を吐くと。うがいをして、歯ブラシをコップに立てた。
「ごめん、ちょっとミキサー洗っといて。」
葉月は使用したであろうミキサーと、桃の缶詰を指差すと、ふらふらと階段に向かって歩き始めた。
「大丈夫か?」
顔を伏せたまま、葉月は、
「ごめん、あんまり見ないで。明日病院行くから大丈夫。」
そう言って、葉月は手すりを掴みながら階段を登り始めた。
誠は葉月が落ちない様に、触れない程度に手を添えて階段を登った。
「じゃあお休み。」
「…ごめんね。」
振り返ることなく、葉月は独り言のように呟いた。
誠は、片手をぽんっと葉月の頭に乗せ、少しわしゃわしゃ撫でると、
「おやすみ。」
と、もう一度言って階段を降りた。
台所に残ったミキサーを洗いながら、ふと桃缶を見て、歯を噛み締めた。
「ごめん、ごめん、ごめん…か…。」
缶詰を軽くすすいでゴミ箱に放り投げると、中にあった様々の果物の缶詰がガラガラと大きな音を立てた。
5年前までの葉月は滅多にごめんなんて言わなかなった。
「やっといて!お兄ちゃんは年上でしょ?」とか言いながら、憎めない笑顔で押し付けてしまう。
そんなわがままでおてんばな妹だったはずだ。
それでいて正義感が強く、活発で元気で…
あいつのせいだ。あいつが…いや…
「俺のせいだよな…」
誠は台所にもたれかかり、そのまま床に座り込んだ。