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トップ ギア 前編  作者: ケイゴ
10/21

10章 柴崎


10章

「血液は細胞成分と血漿があり、細胞成分には赤血球、白血球、血小板。血漿は血清とフィブリンに分けられます。血漿タンパクはアルブミンやグロブリンに大別され、血漿からフィブリンを抜いたものを血清といいます。」

「うん。」

「グロブリンは血液の粘性、免疫機能などに作用し、アルブミンは膠質浸透圧の維持に関与します。」

「膠質浸透圧って?」

「えっと…。」

「少し先のページを見てみようか。」

誠はペラペラとページをめくった。

「そこの図を見て。」

 柴崎は血管とその周りの細胞が描かれたページを指差した。

「細胞の中の水分を血管に引き込む作用で、アルブミンが少ないと水分を血管に引き込むことが出来ず、細胞に水分が多くなり浮腫になります。」

「正解。じゃあアルブミンが少なくて浮腫が起こる病気を一つ挙げてみて。」

「えっと…腎臓病?」

「正解。」

 柴崎は誠の頭にポンと手を置いた。

 普段頭に触れられることはないから、なんだか恥ずかしい。

 柴崎の癖だろうか?

「まだ習ってはいないと思うけど、ほかにも心臓疾患や肝臓疾患など様々な理由で浮腫は体のいたるところに出てくるの。

 下肢、顔、全身、そのむくみの出る所、時間帯などから、どの臓器の疾患かがある程度絞ることができるわ。

 それこそ腎臓なら朝、顔に出やすい傾向があるとかね。

 実際国家試験でも浮腫の部位と病気の組み合わせは出るから、今から憶えといて損はないわ。

 ひと段落ついたから少し休憩をしましょうか。コーヒーでいい?」

「あ、はい。」

 柴崎は立ち上がると、キッチンに向かった。 

 水曜日、誠は10時から駅で待ち合わせをして、柴崎の家のリビングで勉強を教えてもらっていた。

 来てみて驚いたのだが、柴崎の家はあの細い裏路地を出て誠の家と反対方向にあったが、そんなに遠い距離ではなかった。

 昔ながらの小さな木造建築で、少し年季は入ってはいるが、女性が一人で住むには十分すぎる大きさだった。

 柴崎は文字通り勉強を見てくれるだけだった。

 というのも、間違ったり重要なところとかは口を出してくれたが、どちらかというと誠が柴崎に教科書を見ながら勉強を教えるという妙な勉強法だった。

 柴崎いわく、勉強を教えてもらうのは理解するのに時間がかかるが、本を見ながらでも勉強を他人に教える方が理解しやすいらしい。

 理解していないと教えられない。だから教えれば理解できる。図解できればなおのこととのことだった。

 しかし…

「文月も愚痴をこぼしてたけど、ほんとに覚える教科が多いですよね。

 臨床に出てほんとに使うのは一部でしかないんだから、もっと教科を絞って深く勉強した方がいい気がするんですけど…」

「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないわね。

 私みたいに当直医は特に、患者さんを選べないから。」

 柴崎はコーヒーポットと陶器のコーヒーカップを机の上に並べて、誠の前の席に座った。

「選べない?」

 柴崎はポットからコーヒーをゆっくりと注ぎながら、小さくうなずいた。

「救急車で運ばれて来た人には大抵カルテがない。

 当直は急病人しか来ないでしょ?

 軽度な外傷なら状態の把握をしやすいけれど、そうでないとき。

 患者さんの意識がなければ、内因的な症状か外因的なものかもわからず、既往歴きおうれきもわからない。

 内科的な病気かもしれなくても、当直が外科医だけなんてことはざらにある。

 現場ではいつも情報がない、人手が足りない、だからといって悠長に必要のない検査に回す時間もない。

 だから今迄いままでに覚えたあらゆる知識、患者さんの症状などから情報をかき集め、自分たちで原因を突き止め、優先順位を決めて治療するしかないの。」

「優先順位?」

「心臓が止まってるのに傷の縫合してる場合じゃないでしょ。

 交通事故なんかは特に、損傷している臓器が一つとは限らないから、一番生死にかかわるとこがどこかの判断が重要なの。

 一瞬で判断して、すぐに治療計画を立てて、自分たちで治療していく。」

 柴崎はコーヒーを息で少し冷まして、口元に運んだ。

「でもね、自分で出来ないこともちゃんと知らなくてはいけない。

 本当に自分の力量で治療することが出来るかどうかをね。

 外科医は内科医の出来ることを出来ない。土俵が違うからね。」

「土俵ですか。」

「そう。

 でも出来なくてほかに回すことは、別に自分のプライドを傷つけることではないの。

 むしろ内科医が出来ない外科的な治療技術があるというプライドがあるからこそ、引き際を知ることが出来る感じかな。

 その線引きをしっかりするためにも、自分の範囲外の知識が必要なの。

 それを浅い知識で馬鹿にされた時は、ほんとに許せない。

 私の判断も苦渋の決断も、すべてを否定されてるのと同じだから。」

 柴崎は一息ついて、口元に運んだコーヒーをぐっと口に注ぎ、一気に飲み干した。

 今までいろいろな苦い思い出、屈辱などを飲み干してしまうかのように…

 苦虫をかみつぶすかのように顔をしかめた柴崎を見て、誠はふと、葉月に言われたことを思い出した。

「この前、葉月に同じようなことを言われました。

 医療用語は先生たちの聖域だから、それを中途半端な知識で言うのは失礼だって。」

 誠は怒られた子供のようにうつむき加減に言った。

 柴崎は静かにコーヒーカップを置くと、

「そうね、医療用語一つ一つは私たち医療関係者の武器であり盾であり、この業界で本気で生きてきた証みたいなものだから。

 本気で医療と向き合った先生であればあるほど、それは譲れないのかもしれないわね。

 まぁ医療だけが特別という訳じゃないけど、自信も誇りもない人に体をいじられたくはないでしょ?」

 そう言ってあまり手の行き届いていない庭に視線を向けた。

 誠には柴崎の目は遠く、深く、今の柴崎の感情が怒りなのか悲しみなのかわからなかった。

 きっと、実際に医療現場で生死の境にいる患者と向き合った事のない誠には、到底理解できない感情なのかも知れなかった。

 それこそ、軽々しく『わかります』なんて言ったら、柴崎の逆鱗に触れてしまうのは火を見るより明らかだった。

 今更ながら、勉強の意義についての質問を出したことを後悔した。

 話したことの返答を待っているのか、ただ物思いにふけっているのか、時間が止まったかのように柴崎は動かなかった。

 しかし、リビングに置いてある壁掛けの時計だけが、規則正しくカチッカチッと時間が進んでいることを告げていた。

 …

「クスッ」

 長い静寂を切ったのは柴崎だった。

「ごめんごめん、少し話が重かったかもしれないわね。

 いいのよ誠君は、今は逆にいろいろ質問して、いっぱい失敗しないと成長しないんだから。

 じゃあいろんな勉強するのが役に立つこともあるって話でもしようか。」

 そう言って、柴崎はポットからコーヒーを自分のカップに注いだ。

「私が大学院の研究所にいた時に言われた話なんだけどね。

 研究に大切なのは何だと思う?」

「大切なこと?

 病気に関する知識ですか?」

「まぁそれは最低条件だけどね。」

 ふふふと笑った。

「教授いわく、常識に疑問に思うことだって。」

「疑問…ですか?」

「そう、疑問。

 本などに書かれた大前提の答えに疑問を持ち、仮説を立てること。」

「よくわかりませんが…」

 誠は眉間にシワを寄せた。

「そうねぇ、たとえば今私が仮説を立てるとしたら、男女の寿命かな。」

「寿命ですか?」

「そう。同じ生物でありながらほぼ全国、全世界女性の方が寿命が長い。

 男性の方が後に出来たからとか、染色体が女性はXX、男性はXYだからXのスペアがある女性が病気に強いとか色々言われてるわ。

 実際それに疑問はないし、正しいとも思うわ。」

「ではいったい何が疑問なんですか?」

「そう結論を急がないの。

 話は変わるけど、出血が与える身体的影響をどう思う?」

 柴崎の突然の質問に誠はうろたえた。

「え、なんですか、いきなり?」

「いいから。出血は人体に悪影響かどうか。」

「無いに越したことは無いんじゃ無いですか?さっきの問題みたいに血漿成分が流出すると浮腫になったりもするんですから。」

「そうね。過度な出血はショック症状も引き起こすし、不必要な献血は貧血を招く。

 これは病理学ね。」

 何が言いたいんだろう?

「じゃあ定期的に出血してたら?」

「貧血になって病気になるんじゃ無いですかね?」

「定期的に出血するのは男性?女性?」

「え、じ、女性です。」

「理由は?」

「生理?」

「おかしくない?」

「あ…」

「寿命に出血が悪影響を与えるなら男の方が圧倒的に出血する機会が少ないのに、寿命は生理のある女性の方が長い。」

 誠のはっとした顔を見てニヤッと顔を緩めたあと、柴崎はぐぐっと伸びをした。

「血液の寿命は120日、年に3回しか入れ替わらない。それに比べて小腸などは一日一回細胞が入れ替わるの。

 ある程度出血し、血液を速いスパンで新しく入れ替える事が長生きに関係してるかもしれない。そうでないかもしれない。

 ただ、病理学、解剖学、公衆衛生学どれかが抜けただけでこの疑問は生まれなかったでしょうし、疑問がなければ研究もされない。

 研究して、実証を得て、その対策を立てることができて初めて実現することが出来る。

 この場合だったら献血すれば定期的に血液を安全に抜けるわけだしね。

 どこでどう知識が役に立つかわからないし、役に立たないかもしれない。

 知識を持ったことで、ほかの意見を受け入れなくなることもあるけど、それにしたって引き出しが多いことにこしたことはないでしょう。」

 柴崎はくいっとコーヒーを飲んだ。

「知識なんてものはとりあえず入れるだけ入れて、いらないものは消していけばいい。

 とにかく、必要だから入れることは大事だけど、必要になるかもしれないから入れるというのも同じくらい大切よ。

 さ、それじゃあそろそろ続きをしましょうか。」

 柴崎はパンと手を叩き教科書を開いた。

 柴崎の言っていることに、誠はすごく共感を得た。

 そして、柴崎がどんな人なのか、もっと知りたいと思い始めていた。


ここまで読んで頂きありがとうございました。

このペースでなんとか前編の30話まで修正しつつ出していきたいと思います。

一応30話まで10年チマチマ描いては年単位でほったらかしで形にしてみました。

物はあるので投稿前に修正して毎日更新出来たらと思いますが、なにぶんえらい長期間ほっといたもんですから口調や書き方が変になってる可能性があるのでここ変だよとかあったら教えてもらえると助かります(汗

ではではまた明日気が向いたら見に来て下さいね。

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