お兄ちゃん
共同生活が始まってから数日が経つ頃——。
リューンとカナリアもそろそろ他者と暮らす生活に慣れ始め、その距離感を縮め始めていた。
「お兄ちゃん……」
カナリアがリューンのことをお兄ちゃんと呼び始めたのも、成り行きだった。
恋の前に、世話を焼いてしまうのはリューンの性格上どうしようもない。
カナリアはカナリアで、偏った知識によって世話する人=兄という等式が成り立っていた。
まさに奇跡の産物であろう。
「ご飯食べたい」
パーティーで雑用をこなしていたのが、こんな所で役に立つなんて、誰が想像したのか。
目を擦りながら一階のダイニングに顔を覗かせる彼女にリューンは笑って出来た料理を指差した。
「今日は猪が狩れたから、少し豪華な飯だそ。もう用意してあるから、一緒に食べよう」
温め直したスープを食器に入れて、猪肉を調理した物を皿に盛り付け終えて、グラスには冷えた水を注ぐ。
調味料は、幸いリューンの手持ちで足りる。
「うわぁー! すっごいね」
「腕によりをかけたからな! さぁ、座れ座れー」
二人では広すぎるダイニングも、二人並んで座れば寂しくない。
何よりリューンの用意する食事はとても美味しく、かつ健康的だ。
「というか、今日も一日部屋に篭って書物読んでたのか? 目が悪くなるから、ほどほどにしておけよ」
「だって、面白いんだもん! お兄ちゃんも読めば良いのに」
「文字読むのは苦手なんだって。そうだ、カナリア。食べる前に忘れてることがあるぞ」
食事に手を伸ばすカナリアを制止する。
「あっ、……いただきます」
手を合わせて、自然の恵みに感謝する。
リューンが教えた、食事前の儀式のようなものだった。
「偉い偉い! スープは熱いから、ちゃんと自分で冷ましてから食べてな」
「ふぅーふぅー……お兄ちゃん、ありがとう」
真祖は大気の中にある生命力を吸い上げ、生活しているのでそもそも食事という概念は無い。
勿論書物では読んだことはあるが、基本古城から出ないので、知ってはいるが経験はしたことがなかった。
だからこそ、素直に食べるということは有難く、そして幸福になるのだと受け入れられた。
「あちゅ!」
「だぁーっ、ほら水飲め! 慌てなくても食事は逃げないって」
過保護、ここに極まれり。
世話焼きはとどまることを知らない。
「出来る、から! ちゃんと自分でするもん」
ちょろりと赤い舌を出して、空気に晒す。
「なら、後で食器洗ってもらおうかなーなんて」
「うん! 私がやるっ! お兄ちゃん、出来るかちゃんと見ててね」
はいっ、と勢い良く手を挙げて、にこにこ笑うカナリアを見て、保護者兼居候はガシガシと頭を撫でてやるのだった。
☆
カナリアは、ずっとずっと独りだった。
生まれた後の記憶も、今に至るまでどうやって生きてきたのかも、もう覚えていない。
ただ、沢山ある本に囲まれて育ち、人の暮らしやモンスターの暮らしに憧れて、己を呪った。
「どうして、私は人と同じに生まれなかったのだろう」
「どうして私は独りなんだろう」
古城は強い結界に守られており、人に見つかることは「普通は」ない。
カナリアにとって長い時を独りで生活するのは、ひどく苦痛だった。
空を眺めて、生きる為に空気を吸う。
なんて無意味で、——なんて無様なのか。
「何度目だろう」
繰り返し訪れる夜を数えるのはやめた。
何も変わらない、カナリアはいつしか外への憧れを失った。
期待するから苦しい、希望を持つから辛いのだと。
だったら、捨てた方が良い。
そうして彼女はいっそう広い書庫に篭るようになった。
「っ——!」
音がした。
誰かが、もしくは何かが部屋に入ってくる音だ。
希望は捨てたはずなのに、夢は忘れたはずなのに。
どうせ自身が作り出した幻聴だと、自分に言い聞かせた。
「ま、また音が」
もう間違えようがない軋む音が二階の書庫に響いた。
吸血鬼狩りか、それともモンスターか。
何にせよただ事ではないと、震える身体を起こして大広間へ向かう。
そこに居たのは、手袋をしている澄んだ眼をした一人の黒色の髪をした青年だった。
大きな瞳で、彼の顔を捉える。
そこで、カナリアはすぐに彼が「何か」辛い目にあったと理解した。
彼女の目は、暗闇でもよく見える。
いや、見え過ぎてしまう。
——あれが、涙の跡。
悲しみの跡が頬に浮かんでいた。
☆
「ふ、ぁあ」
まだ夜中。
あの日の出来事を夢で見たカナリアは、目を覚ました。
夜を数えるのが楽しみになったのは、本当に最近の話だ。
どうしてリューンに泣いた跡があったのか、それはまだ聞けていない。
もやもやとする感情は中々整理が出来ない。
考え始めてしまうとすぐに寝付けそうにないので、月光浴がてら長めの廊下を歩くことにした。
「あっ、お兄ちゃんの部屋……」
隣の部屋、とは言うものの、リューンの部屋は少し遠い。
ぼうっとしていたら、そんな彼の部屋の前に到着していた。
ノックすべきか、それとも部屋へ撤退すべきか。
唸りながら逡巡していると、ガチャリと木の扉が開いた。
「どした? 眠れないのか?」
彼ことリューンもまたカナリアに何も聞けないでいた。
聞きたい話は山ほどあるだろう。
例えば、「真祖」であるか、とか。
肝心なところでヘタレなのは、どうやらお互い様らしい。
「お兄ちゃんごめんね。私なんだか少し、目が冴えて」
「——入るか?」
だが、ようやくそのタイミングが訪れる。
「俺も話したかったところなんだ」
照れながらもカナリアはゆっくりと頷き、白い足を部屋へと運び入れたのだった。