龍の手と眠るお姫様
あまりにも神秘的な存在だった。
竜を超える、龍種。
物語でしか見たことがないような存在がいるのだから、言葉が出ない。
「どうした」
龍の丈七尺~八尺といったところ。
お世辞にも大きいとは言えないが、それでも圧倒的な生命としての誇りを感じる。
——美しい。
リューンは虹色に輝く鱗を見つめ、空に佇む龍を見てそんな感想を抱いた。
龍の爪は金と銀に、手は銀と金に。
背に生える龍毛は一本一本が生命力がみなぎっている。
再度思う。
ただ、美しいと。
語彙になさに、自ら恥じ入るが、もうそれしか思うことが出来なかった。
それまでの辛いことや、ここがどこなのか、そんなことどうでも良いと程に見入っている。
ピンと龍の髭が大きく揺れた。
「クカカッ、美しいと我を見て思うのはお前ぐらいであろうな」
楽しそうにそう言うと、空からゆっくりとその存在をリューンの目の前に降ろしていく。
「そなた、名は?」
「……リューン・ブライト」
まるで、王と相対するように川中で思わず頭を下げる。
それは自意識外の、反射的行為だった。
「我は龍である。名はないがな。
こうして我が『幻想の川』にたどり着いた人間は初めてだ。良い、頭を上げよ」
ブンと尾を振ると、川が消える。
足に残った水の感触や、ズボンが濡れているその気持ち悪さだけが残った。
幻想の川はどうやら龍の意のままらしい。
リューンが呆気に取られていると、今度はくるくると彼の周りを回り始める。
「で、お前は助けて欲しいと言っていたが、何が望みだ。我に頼めば大半は叶う」
「分からない、です。ただ助けて欲しくて、居場所がなくて」
「——矮小な人間らしい些末な悩みだな。では、先に我の願いを聞け。
お前の手のひらを寄越せ」
はっとして、リューンは己の手を見る。
この手を、差し出すというのか。
まさしく龍ならではの、法外な望みだった。
「寄越せと言っても分からんか——喰わせろと言い換えよう」
「なっ、食べるんですか?」
「然り。龍とは諸々ややこしくてな。
人の肉を喰らわなければ我は死す。
——なんて、手を寄越せなぞ、無理というのは分かって」
「良いですよ」
半ば投げやり、という訳ではなかった。
リューンは眼前の龍が死ぬことに、何故だか寂しい気持ちを覚えた。
だから、両の手を差し出した。
それは僅か七つの人間とは思えない程に躊躇ない。
七色に輝く龍は想像だにしない返事に鱗を立たせた。
そして心から驚嘆し、全身を駆け巡る歓喜に喉を震わせる。
かように先が楽しみな人間がいるとは想像もしてなかったのだ。
「お前龍に手を喰われることの意を知っておるか?」
「いいえ、知りません。
ですが、母の教えに守りたいものを守れとあります。
私は私の手で神秘を守れるなら、価値があると判断しました」
「狂って、おるな」
耐えられない、耐えられない——。
龍は昇りたくかる気を抑え、澄んだ目をした少年を正面から見つめた。
犠牲の最果てに宿る、その器を見据えた。
「受難が待つとしても、後悔するとしても、お前はそれで良いと?」
「それは、まぁ後悔はするかと。
けれど、死のうと思ったこの命。龍神に差し出すならば意味もあると思えます」
淀みはない。
透き通った声はまるで川の如し。
龍はぐるんとその場でうねり、一度だけ吠えた。
「カカッ、ゆめゆめ忘れるな。
お前の身体は我のモノであると。
ゆめゆめ忘れるな。
我の身体はお前のモノであると」
差し出された手はゆっくりと龍に咥えられていく。
生温い唾液はハチミツのように甘く、リューンの手に絡まる。
痛みはないが、手先の感覚がすげ替えられるように崩壊していくのを感じた。
まず、左右の指が消えていく。
「っ、あ」
「良い顔をする。そのまま目を伏せていろ」
そして左右の甲が消えた。
「甘い、なんと甘美な手だ」
舌が這いずり、試すように何度も何度もリューンを刺激する。
「——馳走になったな。
では、我がお前の願いを叶える番か。
……リューン? むっ、気絶したか。
しっかし我をこうも虜にする人間がおるとは、生きてて良かったわ」
龍はにこりと笑うと、その手に呪いという名の祝福を与える。
「我が手を、お前にやろう。金の鱗に銀の爪はどんなものも打破できる。
銀の鱗に金の爪は、どんなものからお前を守る」
地面に倒れるリューンにそう伝えると、自身の鱗と爪を剥ぎ取って、丸い神々しい光へ変える。
無くなったリューンの手に光は落ちて、龍の手を形成し始めた。
普通ならば、あり得ない出来事。
龍が一方的に喰らうことはあれど、龍が人に施しを与えるなどは誰も聞いたことが無い。
それは禁忌。
龍と人が混ざり合うなど、普通卒倒する話だ。
「これが惚れ込むということか。
うむ、良い気持ちだ。
——いつか、また……」
リューンの額に口付けをして、龍は天に還った。
☆
夢から目が覚めて、リューンは重い身体に力を入れる。
思わず両の手を動かして感覚を確かめた。
「右腕重いし、嫌な夢見るし、とんだ朝だな……」
右腕はカナリアが頭を乗っけてむにゃむにゃと、気持ち良さそうに寝ている。
「というか、アネッサまで占領して寝てるし」
左側にはアネッサが陣取りリューンのシャツを掴んでいた。
「コイツも一日二日で生活に慣れたもんだ。ていっ」
かるーくデコピンしてやる。
「むぎゃ、っ」
「さーて、今日も楽しく過ごしますか」
朝陽はもう少しで差し込むだろう。
かつての自分を思い出しつつ、すやすやと眠る二人の為に、今日もまた起き上がるのだった。