夜の攻防
――1――
両脚に鉛を取り付けられたような、あるいはぬかるんだ沼の中に足を突っ込んでしまったときのように、ぐずぐずと靴の中に水が入っている不快感。重く、暗く、感覚としては足を引きずりながらここまで歩いてきたようだった。
京夜達が旅籠に戻ると、出迎えたのはあずきの笑顔。
「お帰りなさい」
「ただいま」
ほっと一息――というわけにもいかず、それでも笑顔だけは取り繕う。
その様は、道化師の面でも被っているかのような気分dあったという。
顔は笑顔のままで、頬には涙の模様が描かれている。
そのままあずきと一緒に二階へ上がる。
すると、部屋にはなにやら照明器具が置いてあった。
それは行灯に見えた。
「これは?」
「ちょっと昔の雰囲気を楽しんで貰おうと思いまして。マッチはあちらに、芯切(しんき)りばさみはこちらです。使い方は分かりますか?」
「ええ、まあ」
行灯に明りを点(とも)すと、さっそく部屋の電気を消した。
ほの明るく、薄闇にぼんやりと辺りを照らす。透かし行灯の花の紋様が浮き出すと、花曇りのどんよりとした空めいていたが、風情が勝る。
幻想的、というほどでもないが、こういったものは心の裡に深い情緒を与えるものであり、懐かしさと望郷の芳香で味わい深い。
「ほう」
「これは、大変ようございますね」
ふと、あずきの横顔を覗くと、部屋の暗さと同じように、悩みを抱えたように影が差す。
そのあまりに頼りない悄然(しょんぼり)とした肩に、京夜は言いようもない同情心が芽生え、尋ねた。
「なにか悩み事でもあるのかな。よければ話してくれないか?」
「…………叔父さん。顔色があまり優れなくって、なにかの病気じゃないとよいんですが……」
彼女の言葉に一呼吸置いて答えた。
「――大丈夫だよ。ちょっと気疲れしているだけさ。近いうちに休みを取って、ゆっくり休養するといい」
心にもない言葉を並べ、あずきを安心させ送出す。
彼女の足音が階下へ過ぎれば、朽葉に向かって神妙な顔つきで相談した。
「宿主を討てば店主は助からないか?」
「おそらく、不可能でございましょう」
「彼が屍鬼に成り果てたのは何時か分かるか?」
「出会うずぅっと前から――でございましょう」
「そうか……」
「そのことであるじ様はもう理解しているかと思し召しますが。鬼には情け無用でございます」
「理解は出来ても割り切れないことはあるさ」
「その甘さ、はやり嫌いではございませんが……それよりも――」
朽葉がはらりと羽織(はおり)を脱ぎ捨て、艶(えん)な姿で迫る。
くすりとあどけない声で幽(かすか)に笑う。
京夜へと擦り寄ってくる勢いで、感嘆(ためいき)を漏らすほど妖しさと美しさを携えた彼女は、まるで肉体関係を迫る情婦(じょうふ)のような積極性で。
「わたくしも一杯頂きたいのでございますが」
「急に言われたら心の準備が……」
「あら、わたくしはもう一時も待つ気はございませんわ」
しどけなく崩した胸元に仄かに香る香水の匂い。
京夜など着崩さなくとも、彼女に迫られるだけで勝手に服が乱れて行く。
「もしかしたらあずきに見られるかも……」
「わたくしは見られても構いません。それにおかしな事をしているわけではございません。もしかしてあるじ様は、これが、さもいやらしい、口にするのもはばかられる行為だと仰いますか?」
「いや、そう言うわけじゃ……!」
「これはたんなる食事でございます。わたくしが力を授かるための儀式でございます。それに今のうちに済ましておいた方が面倒がないかと存じ上げます」
「確かにそうなのだが……なんか、こう、こそばゆいというか……!」
「なればよろしいではございませんか。それともお厭(いや)でございますか?」
「イヤというわけでも……!」
「ふふふ、厭なら厭と仰って下さい。抵抗するなら抵抗して下さい。花なら散りましょう。わたくしは咲き誇りましょう。では、あるじ様の嫌がる顔を眺めながら頂戴することに致します」
「ぐっ、この鬼め……!」
「――――お熱い体。まるで火のようでございます」
そして始まりに戻る。
ことの後、朽葉が着衣の乱れを直す音が背中越しで聞こえる。
どぎまぎと、妙な表情を浮かべる京夜に「見て頂いてもかまいませんよ」などと、甘い言葉で囁(ささや)くが、彼は決して振り返らなかった。
「はあ、もう、腹も膨れただろう。行けるか?」
「ええ、あるじ様がお望みならば、たとえ血の池の中、針山の上、どこへなりとも、どのような怨敵でも討ち滅ぼして見せましょう――なれば」
「どうした…………足音か?」
「どうやらあちら様からいらっしゃったようでございます」
京夜は階下から聞こえる無数の足音にこちらの魂胆が透けてしまったのかと覚悟した。
階段を登る乱暴な足音は、遠慮や配慮など微塵も感じられない、暴力の化身のもので。
押し入り強盗でさえもう少し気を遣うだろう。
理性も悟性も失われた姿に、屍鬼の程度が知れるというもの。
やはり知性を削り取られた、動く傀儡(ゾンビ)と成り果ててしまっているのだ。
京夜は障子戸を開け放ち、彼奴等(ゃつら)を迎え入れる形で身構えた。
その中には見知った男、この旅館の店主も混じっているようだった。
真っ赤な目を爛(らん)と輝かせる姿は、もはや化け物と相違なく。あまつさえ、口には牙らしい犬歯が鋭く伸び、土気色の肌からは精気を感じられない。
京夜は哀しそうに一度目を伏せ、すぐに覚悟を決めたように顔を上げた。
「お客様。宿賃を頂きにまいりました」
「幾らなのかな?」
「ええ、お安くしておきます。お客様の命などというのはいかがでしょうか?」
「ははは、笑えない冗談だな」
お互いの口角が上がる。
傍から見れば、笑いの絶えない愉しい旅籠、なれど目の奥は決して笑っていない。
店主は京夜達の様子を窺っていた頃の、夕餉の温かさとは真逆の、いやらしい脂下(やにさ)がる顔つきになって、非情にも言い放つ。
「あの娘は鬼だ。鬼は喰えぬ。殺せ。男は主の贄(にえ)だ」
「朽葉が鬼だという情報も知れ渡っているのか」
「それなればあるじ様。わたくしどもの食事を覗かれておりました故(ゆえ)」
「なっ、気付いていたならなんで教えてくれなかったのさ……」
「あずき様に見られることを気にしておられた故。店主ならばよいのかと思し召しまして」
「そんな分けないだろう! あれが、見られた! うあぁっ」
あの色事が詳(つまび)らかにされていたと思うと、羞恥とか、気恥ずかしさとか、いろいろなものがない交ぜになって、赤くなったり、青くなったり忙しい。
「それに、あるじ様はわたくしの餌でございますので、渡したくはございません」
「餌ってっ……朽葉は俺のことをなんだと思っているんだ!?」
「わたくしの主人でございますが。主人というのは従僕の為に尽くす存在でございましょう。したがって、主人とはわたくしの餌であり、下僕、というのが真実でございましょう」
「うわぁ、そんな真実なら知らない方が良かったなぁ……」
「ふふふ、たんなる戯れでございます――と、なんと無粋な」
京夜達の他愛ないやり取りなど待つだけ無駄だとばかりに、横合いから一体の屍鬼が朽葉に向かって襲いかかってきた。錆びて切れ味の悪そうな鉈(なた)を振りかざす。斬りつけられれば傷口は潰れ、激痛に悶絶することは筆舌に尽くしがたい。
迫り来る凶刃を朽葉はつまらなそうに見遣ると、己の指の先、整えられた綺麗な爪を剣(つるぎ)と伸ばすと、そのまま撫でるように一閃。ぞんざいに切り捨てる。
ばらばらに切断され、臓物をまき散らしながら畳へ落ちる、が、体内に血がほとんど残っていない無いのか、僅かな返り血しか噴き出さず、町で出会った男達とおんなじ、人で無いことを物語っている。
店主の顔からすっと笑みが消え、代わりに短くはっきりと「殺(や)れ」と命じる。
屍鬼どもが一斉に鎌首をもたげ襲いかかってこようとした刹那。
京夜がお札らしき物を取り出し、息を吹きかけ、呪文を唱えると。
「不動符(かなしばり)。疾(か)く行け!」
複雑な文字と図形の記された符(ふ)が、男達の脚へ腕へ張り付いていく。
そうすれば、張り付いた箇所がたちどころに動かなくなり、畳に置いた足が、強力な粘着剤を踏んでしまったかのように動かせなくなる。
同じように腕に張り付けば腕が石膏像のように固まってしまっている。
符術師(ふじゅつし)である京夜の符術(ふじゅつ)だ。
効果の方は様々で、彼が今使った物は相手の動きを短時間だけ封じ込めるものだった。
京夜は両脚を動かせなくなった店主の顔を見ると、一瞬、ためらうような表情を見せたが。
朽葉などは一切の躊躇も加減もなく、順繰りに分割していったのだった。
「…………行こうか」
少しの沈黙の後、目星を付けた場所、大屋敷に繰り出す。
最後に一度、店主を見て、それから振り返らなかった。
この町でもっとも大きい屋敷。
本陣である場所に京夜達は駆けた。
この場所に一体どのような大名が泊まったのかと浪漫(ロマン)に尽きない。が、今ではたんなる血生臭い死体置き場と成り果ててしまっているようで。
その死臭ともいえる、磯のような、青臭いような、腐臭とも違う臭いに、鼻がおかしくなってしまいそうだった。
「あっさりと入れてしまったけど……」
「なにやら企みでもあるのではございませんか?」
「とりあえず、ここから開けてみようか……」
ごくり、と唾を飲み込む。
向こう側から出てくるものは、鬼が出るか蛇が出るか。
もしかすると、じっとここに待ち構えて、開けた瞬間に一斉に飛びかかってくることだって考えられる。
京夜は覚悟を決めると、敵が飛び出てきた時のことを考え、身構える。
障子戸を開け放ち、最初に思ったのは座布団(ざぶとん)、だった。
座布団が天井高く積まれている。
そう思うほどずらりと、部屋一杯に横並びしている。
否(いや)、それは座布団などではない。
人だ。
数え切れない死体の山が、積み重なり、天井に届くほど堆(うずたか)いこと夥(おびただ)しい。
からからのミイラと成り果てた姿で、濁った数百の目で見つめるのはいったいどこだろうか、京夜か、天国か、地獄か、はたまた恨み辛みを重ねた先の、怨恨(えんこん)の彼方だろうか。その多くが女性であり、子どもであり、老人であった。
この町の消えた女性のほとんどがここに集められたのだろう。
血を啜り、精気を啜り、死ねば物だといわんばかりの扱いに、やるせない気持ちにさせられる。町に子どもの姿が無いことが気に掛かっていたが、まさか、こんなことになっているとは信じられずにいる。
確かに覚悟もした。
惨劇(さんげき)も予想していた。
が、彼の想像の遙か上を行く状態に言葉を失う。
あまりに怖気の漂う場景に、視覚情報が脳へ届くことを拒絶している。
目の前の出来事が未だに信じられない。いや、信じたくないというのが本心であろう。
しかし、逃避する意識は、臭気や怨念じみた気配に捕らえられてしまう。
ようやく目の当たりにした事態を咀嚼(そしゃく)し、京夜はぽつりと。
「これは――――やり過ぎだ」
同じように他の部屋も開けると、同じように無数の目が出迎える。
この町の住人、もしかしたら旅行者も混じっているかもしれない死体の列が、ずらりと並べられていた。
冒涜的(ぼうとくてき)な扱いに、静かに滾(たぎ)っていった怒りが、京夜の身体を火種として、ぼっと一気に燃え上がった。
瞬間的にであったが、ちりちりとひりつくくらいに強い、憤怒(ふんぬ)の感情を覚える。
門を出ると、この屋敷の主らしき男が出迎えてきた。
かっぷくがよく、身綺麗な扮装(みなり)の男。
手下である屍鬼を引き連れてきたのか、京夜達をぐるりと取り囲む。
他の屍鬼達とは少し違い、血色がそれなりに良く、横に並ぶと一目瞭然。
堂に入っており、主のような風格を漂わせている。気がする。
毛色の違う男は他の屍鬼達に命令を飛ばしているようで、短く、京夜達を害する言葉を発する。もはやお互いの腹の裡が知れているというもので、内蔵までさらけ出すつもりは毛頭無いが、手探りの時期はとうに過ぎ、あからさまな敵対関係を築く。
手には鎌や鉈やバットや竹刀に土産物屋で売ってそうな木刀。
出刃包丁にフライパンや果てに鉄筋まで取り出し、統一性も無く、思い思いの凶器を手にしている。
こうも武装すれば普通血にいきり立ちそうなものであるが、水を打ったように静まりかえっている様がかえって不気味さに拍車を掛けている。
彼等は静かにこちらの命を奪おうと欲し、物量でもってして、津波となって迫ってくる。
その異様に統率された様は、やはりあの血色の良い男が司令塔になっているよう。
朽葉は近付く者、近付く者等しく肉塊へと変貌させて行く。
が、近接用の武器がない京夜はそうも行かずに、男達と距離を取りながらも符を取り出す。
「狐火の符。疾(と)く行け!」
先頭の男に身体に符が張り付くと、ぼっと、勢いよく燃え上がる。
ぺらぺらと話すお喋り者の、油紙でも身体に巻き付けているのでないかというほど良く燃え上がり、乾燥して火が付きやすい身体になっているのではあるまいかと疑う。
それほどの効力に京夜自身も驚いたが、敵対する屍鬼達にとっても同じで。
仲間と肩を並べる距離に居れば巻き込まれると悟った彼等は、実際に一体が巻き込まれ火だるまに変じたため、互いに少し離れ、じりじりと京夜に近付く作戦に切り替えたようだった。
確かに、符には限りがあり、一体一体にしか効力を発揮しないというのならば、物量に任せ、闇雲に突進する攻めは効果的で、消耗戦を強いられればいずれ押し負けてしまうだろう。
が、一斉に飛びかからないというのは、彼の持つまだ見ぬ符の力に危険を感じ、うかつに近付いても良いものかと迷っている気勢。
京夜はならばと、広範囲に効力を及ぼす符を使い、一進後退を演じる。
しかし前髪を汗で張り付かせながら口から漏れる言葉は「切りがない」だった。
「やはり、頭を潰さなければどうしようもない――か」
独りごちている間に、なにやら屍鬼たちの様子がおかしいことに気付いた。
いつの間にかさあっと、予言者が海を割ったときのように道が開かれているではないか。
なぜ、という疑問は、頬を掠める衝撃によって瞬時に解決されることになる。
ばあんと、火薬が弾ける音が聞こえたのは、その瞬間のことであった。
猟銃(ライフル)による狙撃だ。
回転を加えられ撃ち出されたライフル弾は、彼の耳の少し横を飛来していった。あれがもう少し右へ飛んでいたら、割れたスイカが一つ出来上がっていたのではあるまいか。
頭を潰さなければと言った京夜自身の頭を潰されそうになるとは、なんとも諧謔(ユーモア)に飛んだ光景だろう。余りのおかしさから彼の目から涙が出てくるほど。
「くひぃっ」
京夜は情けない声を発すると、すぐさまその場をしゃがんだ。
次弾が頭の上を通り抜け、その次の弾が足元の石畳を抉り明後日の方向に飛び跳ねていく。
確か、ライフルの装填数は五発だったと頭の中で思い起こし、まだ二発もあると絶望し、倒れ伏した屍鬼をなんとか障害物代わりにしようと試みる。
出て行くタイミングを間違えれば、石榴(ざくろ)と弾けるのは明白で。きっと鴨撃ちの鴨の気持ちになれること間違いない。だのにこのまま亀と這いずっていれば、近くにいる彼等の凶刃に倒れ伏すことになる。京夜は朽葉の気配を手繰り寄せると、覚悟を決め、符を取り出した。
「閃光符。とにかく頼む!」
それはいったい誰に向けての言葉だったのか。
カッと、闇の中に激しく光を放った。
目くらましどころか、目を焼き付かせんばかりの光量で、光をまともに見た者の目は、しばらく役に立たないだろう。目を押さえている彼等を縫うように朽葉が疾走し、そのまま狙撃手をざんばらに切り捨てることに成功したのだった。
「あるじ様。これでよろしいですか」
「ああ、助かった」
「それよりも、追いかけなくてよろしいのでございましょうか?」
「へっ……」
あのかっぷくの良い男が逃げ出すのが見えた。
そのその勢い足や、脱兎、などでは生易しい。鹿か馬か猪か。
おおよそその身体の限界以上の速さで走り去っていった。
「わたくしが殿(しんがり)を勤めましょう。あるじ様はお先に行ってくださいませ」
「ああ、頼む」
朽葉を置いて京夜が男を追いかけたのだった。
かっぷくの良い男には以外にも早い段階で追いついて。
見た目に反するすばしっこさとは裏腹に、見た目に則して体力はないのか。
周囲には京夜を追うように屍鬼達がにじり寄ってきている。やるなら今しかないと、彼は狐火の符を取り出す。
男が「まて!」「話し合おう!」「願いがあるなら聞く!」
などと命乞いを始める始末。
その様子を京夜は哀れに思いながら投げつけた。
「狐火の符。さあ、彼を終わらせろ」
ぼっと、火が燃え盛ると、聞くに堪えない断末魔を上げ、やがて身体を黒色の炭へと成り果る。
すると、追いかけてきていた屍鬼達の動きが一斉に止まり、糸を切られた操り人形のようにぷつり、と倒れ伏した。余りにもあっけない男の最後だった。
それをぼんやりと眺めていると。
「お兄さん!」
聞き覚えのある声に、一種、茫漠とした意識が繋ぎ止められる。
辺りに立ち籠めた、炭の臭いに、このいつまでも嗅ぎ慣れぬ臭いは慚悔(ざんかい)の残り香だろうか。決して恥じ悔やんでいる分けではないが、どうにもやるせない想いというのは取れない。それが誰であれ、なんであれ、はたまた憎い憎い宿敵を前にしても。
疲労感からこのまま後ろに倒れ、大の字で寝っ転がってしまいたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。少なくとも彼女の前ではそのような醜態はさらせない。
あずきがこちらを目敏くも見つけると、急ぎ足で駆けてきた。
後ろ手に手を組みながら、子ども特有の媚びた態度で近づいて来る。
「お兄さん大丈夫でしたか!」
「ああ、この通りなんともない」
「旅籠の方がが騒がしたかったので、母屋を抜けて見に行ったら男の人達が押しは居るのを目撃してしまって……今まで怖くて隠れていました。ごめんなさい……」
「いや、あずきこそ怪我とはないか?」
「はい。わたしは大丈夫です」
莞爾(にこにこ)とするあずき。
すぐ目の前までやってくると、ぎらりと、何かが光った。
それは彼女の後ろ手から京夜の肩へと伸びていく。
迸(ほとばしる)る白刃。
京夜の右腕は肩から先が切り取られ、衝撃で腕がどこかへ飛んでいく。
がくり、と膝を突き、彼女を見上げると。
「わたしは大丈夫です。ですが、下僕達はだいぶ失われてしまいました」
「あすき……君は……」
血に酔った目を向け、京夜を冷たく見下ろす。
手には京夜の血を浴びた出刃包丁。彼女が目配せをすると、再び屍鬼達が活動を再開する。
それはあずきがこの町に棲まう化け物。鬼であることを意味していた。
「お兄さんとてもおいしそうだって思っていたんです。でもあの鬼の手垢が付いていると思うと――――ぞくぞくしますね。誰かのモノを奪うというのはとても心が安らぎます」
「君はそれで奪ったのか。あの人が叔父だというのも嘘か?」
「はい。あ、ですが、あずきは本物ですよ。ほんとうに居たんです。まあ、彼女の両親を食べたのはわたしで、成り代わったのもわたしですが。ちょうど良かったですよ。おやつ代わりに旅行者も食べられて。他に気付かれないよう死なない程度に食べるのはたいへんでしたが、ほら、わたし大食らいですから」
先ほど京夜に見せた人懐っこい笑顔のままで。
それが、彼女の鬼らしさを際だたせる。
彼女にとってそれは当たり前のことなのだろう。当たり前のように人を騙し、当たり前のように人を喰らう。
「ああ、嘘だったら良かったのに」
ぽつんとこぼす京夜の言葉は、血が滲むようで。
そんな彼の顎に指を這わせ、恋人にしてみせるように撫で、ぐいっと顔を上げさせた。
それからもう片方の手で京夜を持ち上げ宙づりにさせる。
その驚くべき膂力(りょりょく)は人間離れしていて、彼女が本当に鬼だと確信させる。その様に京夜の表情は窺うことが出来ず、前髪に隠れた目はいったい何を見ているのか。
やがて彼女の口が左右に大きく裂け、夜闇に浮かぶ三日月の形へ変わり、中から覗くのは鋭い牙だ。そのまま首筋に覆い被さると、ごくりと喉が上下する。
京夜の血を一滴も残さなぬ勢いで、彼の命はまさに風前の灯火、吹けば消える儚い命。
本当に――――。
「げほっ、がはっ、なぜ!? ばかなっ、お前は人間のはず!?」
「鬼の血肉は鬼にとって毒になる。だけど俺は鬼じゃあないよ」
「鬼じゃないならなんなのよ!」
解放された京谷は、乱れた襯衣(シャツ)と眼鏡をかけ直す。
右腕の出血は止まっているのか、破れた袖口からぽたりと垂れるだけ。
「鬼が人を喰らうように、鬼を喰らう人が居るということだ」
「そしてわたくしは更にその人を喰らうのでございます。さああるじ様。落とし物でございます」
すっと、闇の中を泳ぐように朽葉が現われる。
それも京夜の右腕を持って。だ。
「お前等はいったい……」
「俺は鬼を喰った一族の末裔でね。半人半鬼と呼べば良いのかな? 普通の鬼には俺の血肉も毒になるのだけれど。朽葉は特別でね」
「ふふふ、わたくしは逆に、あるじ様以外の人間を食しません。まあ、食べれないというわけではございません。ですがあるじ様に比べればすべてが口不味いものでございます。わたくしとあるじ様二人合わせて、赤朽葉(あかくちば)の鬼などと呼ばれております」
京夜は自分の腕を受け取ると――噛みついた。
ぞわぞわと、指を、手を、腕を、骨を、呑み込むように口にしていく。しかし――
「ああ、足りない……」
あずきをかばうように屍鬼が彼の前に躍り出ると、その屍鬼をひっつかまえ、喰らいついた。
少量の血では足りないのか、そのまま肉を貪ると、骨と皮になり、それさえも吸い喰らい、灰になり、その灰すらも吸い込んでしまった。
京夜は吸い込んだ空気と共に陶然(とうぜん)と溜め息を吐く。
すると、失われた腕が、見る見るうちに骨を、血管を、神経を形作り再生していった。
彼の目は火のように赤く、理性を、悟性を、人間性を忘我していく。
「俺は、鬼を喰らえば喰らうほど鬼に近付いていくが、そのかわり、自分の理性なんかも失われていく。朽葉が吸ってくれないと、人に戻るのも時間がかかる。ああ、良くも俺に鬼を食べさせたな」
それはヒトの持つ蛮性そのものを凝縮させた姿か。
「ぐっ、殺せ。こいつを殺せ!」
命令された屍鬼が彼に群がる。
自分の血液を、いや、鬼の血を一箇所に集め、死神の鎌めいた武器を一閃すると、
辺りの無数の屍鬼の胴体がするりと、ずれて地面へ落ちる。
彼の血を飲んでしまったためか、弱々しく地面に這いずるあずき。
彼女の前へと立つと。
「ひっ、ば、化け物!」
「…………俺が化け物ならお前はなんだ?」
「い、いつからわたしが鬼だと気付いていた」
「怪しんでいたのは旅籠でございます。あなたの正体は男の血や精気を啜り堕落させ破滅させるという鬼、飛縁魔(ひのえんま)でございましょう。女性と子どもの屍鬼がいないということは、男は堕落させられても、それ以外はただ、喰い殺してしまうということです」
「た、助けて……」
「あるじ様を傷つけたあなたをわたくしが許すとお思いでございますか。今すぐそのかわいらしい顔をぶつ切りにしてやりたいくらいでございます」
「君は共存していく道だってあったはずだろう」
「こ、これからはそうする。だから……」
「否(いや)。お前はやり過ぎた」
彼女が京夜にしたように、顎を上げ、身体を持ち上げ、首筋に覆い被さった。
乱暴でもなく、優しくもなく、首筋を悪戯にくすぐるように牙を突き立てた。
あずきは熱い吐息をこぼし、恍惚に顔が歪む。
どくり、どくりと、身体の中から、大切な物が奪われていく感覚に酔いしれていた……。
――2――
『電車が発車いたします。ご注意下さい』
がらがらの空席に物寂しさを覚え、ここから戻る人も、来る人ももういないのだと思うと、京夜はやるせない気分になった。無人駅のプラットホームを離れると、振り返る。
視線の先はもちろんあの町である。
辺りは霞に包まれ、息を吹き流したように散り散りになっていた雲が、時折墨流しの翳(かげ)りを帯びたといえば、今朝の天気が知れるというもので。それは彼等の向かう先に進むほど累(かさ)なり、向こうに着く頃には洋傘(こうもり)が必要になるのだろう。
「気になりますかあるじ様?」
「それはそうだろう。口が裂けても平気だと言えないさ」
「辻褄合わせと処理の方は、あの方々の仕事でございます。良いように、とは申し上げられませんが。あるじ様が気に病む必要はございませんよ」
「…………それでも、煮え切らないものはあるさ。悩まなければ情に欠け、関係ないと目を逸らせば意気地に欠ける。どちらにしたって角が立つなら。俺は気に病んだほうがマシだ」
山陰の陰に潜む野花を見下ろしながら、窓辺にはしたなく頬杖を付く。
たった一夜の想い出。
更には愉快とは言い難いものであったと理解しても、あの場に残る望郷の感情は本物で。
きっと、本当は気の良い人達ばかりなのだと思うと、どこでボタンを掛け違えてしまったのか鼻白む気分だ。
そんな思いが彼の胸の裡(うち)深くに偏(こず)んでいる。
後悔とも怒りとも取れぬ深い哀しみに包まれ、あの少女の本性は、最初に出会ったときに見せたあどけない、子どもらしい一面であると信じたかった。が、それでもあれを許すわけには行かず、ふつふつと様々な感情がない交ぜになった坩堝(るつぼ)のように沸き上がり苛む。
鼻梁に空と同じ曇りが出来つつある京夜にもたれかかるように朽葉が。
「あるじ様。わたくし、少々お腹が空いてしまいました」
「って、昨日さんざん食べたじゃないか!」
「ええ、たいへんおいしゅうございました。ですが、甘い物は別腹と申すではございませんか」「俺はおやつか何かか」
「ふふふ、わたくしが昨夜のわだかまりもすべて吸ってごらんにいれましょう」
「朽葉……」
「まあ、それはそれとして、わたくしが食べたいだけなのでございますが」
「朽葉……!?」
そうこうしていくうちに、どんどんと遠ざかっていく。
胸に掻き抱いた寂寥感(せきりょうかん)も一緒にあの町に置いていくかのように、すっと、溜め息と共に吐き出した。
代わりに彼の胸の裡に現われたのは、猫のようにじゃれる朽葉、だった。
あずきと名乗った少女の、本当の名はついに知れず。
せめて、亡くなった人達が心安らかに眠ることを祈るばかりであった。
彼等は彼等の行くべき場所へ、京夜は京夜達の帰る場所へ。
ぽつり、と一粒の水滴が窓を叩く。
それは外側からか、あるいは内側からか。
こうして、彼等は山間の宿場町、天和(てんな)を後にしたのだった――――
ここまで読んで下さってありがとうございます。