第二部
requiem完結部です。
第二部 明日への道(road of tomorrow)
(1)
何もする気になれず、どこにも出かけていく気になれず、時には夜の街を飛び回り、そして空白のような朝を迎える。ただその繰り返し。
時に、自分は生きているのか死んでいるのか疑問に思ってしまう。
御剣はそんな夏の日を過ごしていた。
美雪や塔矢がいなければ御剣は、とっくに精神を崩壊させていたかもしれない。
優紀は死んだ。
この世からいなくなってしまって、誰の目にも届かない遠いところに行ってしまった。
理解してしまえば、それを認めるのはあっけないほど簡単だった。しかし、割り切ることなどできやしない。
目を閉じれば優紀の言葉がよみがえる、ベッドに入ればあの日の夢を見る。
『海に行きたいな・・・。キャンプもしたいな・・。それに・・・。また、美雪ちゃんの手料理を食べたいな。』
『御剣君・・・・私、生きたいよ。もっと生きていたかった。』
そして、彼女の最後の言葉がよみがえる。
『御剣君と、美雪ちゃんと、塔矢と、もっといっしょに楽しく過ごしたかったよ。私は・・・私は・・・御剣君のことが好きだったの。ずっとずっと好きだったの。だけど言えなかった。それに、御剣君のそばにいられるのは私じゃないって分かったから・・・・。』
優紀は、自分は幸せかもしれないと言っていた。しかし、御剣にはなぜ彼女は幸せでいられたのか分からなかった。なぜ、自分が死ぬと分かっていてなお、自分は幸せだといえるのだ。
幸せとは、いったいなんなのだろうか?
御剣はあいてしまった穴をほじくり返すように自問自答を繰り返す。しかし、答えは出てくるはずもなかった。
その繰り返し。永遠に続く螺旋に落ち込んでいくようなたまらない虚脱感のみが彼の中に渦巻いているだけだった。
そうして、抜け殻のような夏休みがようやく終わった。
季節は秋、木々が夕日の色に染まり街は冬の到来を予感するように姿を変える。冬、街が眠りにつく季節、春の目覚めを夢見る季節。
今の御剣もその時に生まれたのだった。
※
「お兄ちゃん。今日も学校休むの?」
制服に着替えた美雪が心配そうに御剣の部屋をのぞき込んだ。新学期が始まってすでに四日が経過していた。始業式以来、御剣はずっと学校を休んでいる。鈴音の見舞いにも行っていない。
何もする気になれない。
しかし・・・、
「・・・・分かったよ・・・。」
御剣は立ち上がった。ミカエルもベッドの下からはい出してきた。
「え?じゃあ。」
美雪の表情がぱっと明るくなった。
「・・このまま家にいるより学校に行った方がましかもな。」
時間は御剣の心を癒すことはなかった。
何を言おうとも優紀の魂を刈り取り天へと返したのは彼なのだから。そして、ずっと彼女の気持ちを気づいてやれなかった。彼はずっとその罪悪感に身を陥れてきた。
「あ、そう。そういうこと。・・・私、階下で待ってるから。」
美雪は悲しそうな顔をして彼の部屋を出て行った。
「まったく。何やってんだろうな?俺は。」
御剣はため息をつきながら服を着替える。いつの間にかミカエルはベッドの下からはい出していた。
「逃げたい気持ちは分からないでもない。だか、それだけではいけないと言うことだ。もっとも、死神の使命をこなしているのは感心だが。」
いやに、はっきりとした言葉でそう言う。
しかし、御剣は自嘲的な笑みを浮かべた。
「それをやめたら、本当に逃げることになっちまうからな。悲しいのは俺だけじゃないんだ。俺なんてまだましなほうなんだよな。」
御剣は緑野夫妻を思い浮かべた。彼らに比べればまだまだましだ・・・。御剣はそう思う。
やはり、本当に苦しいのは送った方でも送られた方でもない。残された者達なのだ。
「さて、行くか・・・。」
御剣はミカエルと共に部屋を後にした。
(今日あたり鈴音の見舞いにでも行くかな。)
彼は、ただすがりたいものを必要としていたのかもしれない。
御剣と美雪は一緒にかつて優紀と共に歩いた坂道を二人で踏みしめていった。
夏の名残を残す蝉の声がやたらとうるさく感じられた。
※
御剣はふと後ろを振り返る。商店街に続く坂道の途中、残暑を物語る日の光がぎらぎらと照りつけていた。
「どうしたの?お兄ちゃん?」
御剣の少し前を歩いていた美雪は立ち止まってしまった彼を見た。
「いや・・・別に・・・。」
御剣はそう言うが、美雪はなぜ彼が後ろを振り向いたかすぐに分かる。
「お兄ちゃん・・・・。」
御剣は今にも泣きそうな表情を浮かべている美雪の頭をぽんぽんとなでると、行くぞ、と言って歩き出した。
美雪も、一人で登校していたとき、彼のようによく後ろを振り向いては涙を流していた。
優紀を失った。それがこの二人の心にどれだけ大きな穴を穿ったのか計り知れない。
二人は何もしゃべらずにただ歩いていくだけだった。
「そうだ・・・。放課後、鈴音の見舞いに行くけど。美雪はどうする?」
そう御剣が話したのは商店街を抜けたところだった。二人と同じ制服を着た学生が目立ってくる。
「鈴音お姉ちゃんの?・・・うん!行く。」
美雪は夏休み以来ずっと彼と一緒に、鈴音のところに行っていないので、彼女になら御剣を元に戻してくれるのではないかと思うと、嬉しくなり、何よりもそれが御剣の口から聞けたことが喜ばしいことだった。
「ずっと美雪一人で行ってたんだよ。」
美雪はわざとすねたようにいうが、
「鈴音はなんて言ってた?」
御剣は彼女の方を向かずにそう聞いた。そう聞くのが照れくさいのだろうか?美雪がふと彼を見ると、心なしか頬に赤みがさしているような気がした。
美雪はイタズラっぽい笑みを浮かべると、
「お兄ちゃんに会いたいって。話がしたいなって言ってたよ。鈴音お姉ちゃんも寂しいんじゃないかな。だから、お兄ちゃんが顔を出してあげると、きっと喜ぶだろうなあ。鈴音お姉ちゃん、お兄ちゃんのこと・・・。」
御剣の性格をよく知っている彼女は次から次へと言葉をつむぎだしていく。
「もういいって・・。」
御剣は恥ずかしそうに美雪の口をふさいだ。
「へへ・・。」
こんな会話をするのもとても久しぶりで、美雪は本当に嬉しかった。美雪にとって御剣とこうしていられるだけで幸せになれる。だから、彼がふさぎ込んでいたとき、美雪はとても悲しかった。その思いがあふれそうになって・・・。美雪は御剣に気づかれないように、そっと目頭を拭った。
そんな他愛もない会話を交わしながら、彼らは学校に到着した。時間にはまだまだ余裕があるらしくて、走っている学生は今のところ一人もいない。
「じゃあ、放課後、校門でな。」
進級した二人のクラスは違う校舎にある。
「うん。じゃあ。また。」
美雪も三年には受験があるため、進級してからは邪魔しないようにと、御剣と一緒に食事をすることは控えるつもりらしい。
予鈴がなった。部活の朝練を切り上げて校舎に向かうものも学生の集団に混じり始める。
「あ、いけない・・・。」
美雪は御剣を見送るのに気を取られていて、時間を忘れていた。彼女は駆け出し、校舎にはいる。
(鈴音お姉ちゃんだったら、きっとお兄ちゃんを元気にしてくれるよね。)
美雪は久しぶりに晴れ晴れとした気分で教室に入った。
※
夕立のような通り雨がすぎた後、空は真っ赤な夕焼けに染まっていた。
美雪は空を仰ぎながら大きく深呼吸をした。
「はーー。気持ちいいね。それに、きれいな夕日・・。」
「そうだな・・・。」
御剣も空を見上げた。彼は、休み時間に聞いた塔矢の言葉を思い出していた。
「今でも信じられへんのや。優紀が死んだゆうことが・・。なんか、朝、教室に入ったら『おはよう!』って・・・言ってくるんやないかって。いつも通りによ・・・。あの、あけっぴろな顔で言うんやで。せやけど・・・優紀はおらんのや。自分でも阿呆やと思うけど・・・。毎日毎日あいつの姿をさがしてまうんや・・・。」
塔矢の悲痛な言葉は御剣の心を締め付ける。そして、彼は気づいた。悲しいのは自分だけじゃないんだと言うことを。
「お兄ちゃん?」
気がつくと美雪は御剣の顔をのぞき込んでいた。
「ん?どうした?」
御剣は何事もなかったように問い返した。今は、誰にも自分の心の内を明かしたくなかった。たとえそれが、美雪であっても。
「ううん。何でもないよ・・・。」
美雪はうつむいてしまった。僅かながら、彼の思いが伝わってしまったのか、彼女は悲しそうな顔をしていた。
御剣はそんな美雪に罪悪感を感じながらも歩くペースを変えたりしなかった。
彼らはゆっくりと病院に、鈴音の入院する聖イスラフェル学園付属病院に向かう道を歩いていた。
「お兄ちゃん。」
「なんだ?」
突然、美雪は口火を切った。
「人が死ぬのって、いやだよね。悲しいよね。」
美雪はうつむいて、独り言を言うように話し出した。
「いきなりどうしたんだ?」
美雪が普段こんなことを口にすることはない。御剣は驚いた。
「もし、もしだよ・・・。これから死んじゃう人をこの世に押しとどめられるとしたら・・・お兄ちゃんはどうする?」
御剣は”馬鹿なこと聞くなよ・・。”と、言おうとして、美雪を見る。しかし、その言葉は押しとどめられた。
今の御剣は、とてもそんなことを言ってはぐらかせるようなことはできないと悟った。美雪はいつもの彼女からは想像もできないほど、ひどく真剣で悲しい顔をしていた。その横顔は夕日も相まってゾクッとするほど美しい。それは、まるで、この世のものではないような。とても儚い・・・。
御剣はそんな彼女から目をそらしつつも考えた。
「そうだな。それでも、俺は・・・。」
御剣は優紀の最後の言葉を思い出す。優紀も死に行く者でありながら、まだ生きていたかったと言っていた。
もし、あのとき優紀をこの世に押しとどめられたとしても・・・彼は・・・。
「俺は、たぶん。押しとどめたりしないと思う・・。」
そう、それが彼の答えだった。
御剣は死神なのだ。もし彼が、死ぬべきものをこの世に押しとどめてしまえば、それは、自らの存在を否定することになる。
だが、その答えは、それ以上の意味を含んでいたのだった。御剣は今は気づかなくとも、後でそう思うことになる。
「親しい人でも?」
美雪は彼の横顔を見た。御剣はゆっくりと頷いた。
「そう、だよね。お兄ちゃんだったらそう言うよね。だって、お兄ちゃんは・・・。」
御剣はドキリとした。まさか・・・美雪・・。
「美雪、お前、ひょっとして・・・。」
俺の正体を知っているのか?と言いそうになったが、
「あ、病院が見えたよ。」
しかし、その言葉に押しとどめられてしまった。
美雪は言ったその場で駆けだしていたのだ。
「おい、美雪・・・。」
御剣は肩すかしを食らったように、間抜けな顔をしていた。今日の美雪は何か変だ。
だが、どこが変なのか?と聞かれれば首をかしげてしまう。変と言うよりは少し奇妙なのだ、彼女の放つ雰囲気が。
「お兄ちゃーん。早く!」
しかし、今の美雪はいつもの美雪に戻っていた。
「やれやれ・・・。仕方ないな・・。」
御剣は頬をかきながら苦笑し、少し早足で歩き出した。
彼はここで一つの大きな決断をしたのだ。今はまだそれが大きな意味を持つことはない。
しかし、それは後に重大な意味を持つことになるのだ。御剣にも美雪にも鈴音にも、そして、今はなき優紀にさえも・・・。
※
病院の中は以外と静かだった。元々外来の患者をあまり扱っていないので、休日もさほど人がいるわけではなかったが、この日は特に少なかったように思える。
「なんだか、寂しい感じがするね。」
がらんとしたロビーを見回して美雪はそうつぶやいた。
「そうだな。なんか、こういうの見ると、病院だなって感じしねえか?」
御剣は窓口に向かいながらそう言うと、美雪もうなずいて。
「確かに・・・。」
と答えた。
「すみません。」
御剣は窓口のアクリル樹脂製の窓を叩く。程なくして、一人の担当員が顔を見せた。
「いかが致しました?」
愛想のいい笑みを浮かべ、担当員の女性は答えた。いつも、ここに来ると彼女と顔を合わせるが、彼女の態度はいつも変わらない。
「203号室の倉前鈴音さんと面会がしたいんだけど。」
「それでは、ここに名前を書いてください。」
彼女はバインダーを差し出した。御剣はそこに自分の名前を記入する。見ると、今日は面会する人も少ないようで、彼の名前の上には数名の名前しか書かれていなかった。
「そういえば、今日は、あまり人がいないみたいだけど。」
バインダーを返しながら御剣はそう言った。
「そうですね。今日は外泊の患者さんも多いですし、内科以外の医師もまとめて休暇をとる時期ですし。」
名前をチェックしながらも彼女はしっかりと受け答えをしている。
「ふーん。」
”もともと外来の方をあまり扱っていませんしね”と、最後に付け加えると、またにっこりと笑い御剣に病棟の案内図を手渡した。
「面会時間は午後5:00までとなっています。重症の患者さんもいますから、院内はお静かにお願いしますね。それでは、どうぞ。」
御剣はありがとうと告げると、美雪を呼んで鈴音の部屋に行くことにした。
「いい人だね。」
美雪は窓口を見ながらそう言った。
「そうだな。」
御剣は適当に答えて足を進めた。
しばらく病院の通路を歩きながら周りを見回した。たしかに、外科の方にはほとんど人はいないが、内科の方にはそこそこ人はいるらしい。
御剣は立ち止まった。そして、一つの部屋を見つめる。
「・・・?どうしたの?お兄ちゃん?」
美雪は怪訝そうな顔を浮かべ、彼に歩み寄った。
「・・・・・。」
御剣はただ無言で一つの扉を見つめていた。
緊急治療室とかかれた部屋、今はそのランプは灯っていないが、御剣はこのランプが灯っていたときのことを知っている。
「ねえ。どうしたのってば。」
美雪は焦れたように彼の裾を引き始めた。
「優紀が居なくなったところだ・・・。」
静かに、そして、重々しく御剣はつぶやいた。
美雪は、はっと目を見開きその扉を見つめた。
御剣が審判の門と称した扉。御剣が優紀の魂を天に帰した場所だった。
「優紀お姉ちゃん。」
美雪は手のひらで口を覆い隠した。目には僅かに涙が浮かんでいる。
御剣は目を閉じた。その向こうには優紀の姿が映っていた。
笑っている優紀、拗ねた優紀、怒った優紀、苦しそうにしている優紀、そして、最後の優紀。それらすべてが浮かんでは消えていった。
(だけど、楽しかったよな。優紀。いい思い出だったよな。)
『そうよ。御剣君。私は本当に幸せだったんだから。だから、御剣君もそんなに悲しまないで。あなたが幸せだったら私は満足なんだから・・・。』
御剣はそんな声を聞いた気がした。
彼は目を開き、美雪の肩に手を置いた。
「・・・・お兄ちゃん・・。」
美雪はまだ悲しそうな目を彼に向けていた。御剣はもう迷うことはやめようと思った。もう十分に迷った。だから、これからは前を見て歩こう。今ならそう思えるような気がした。
「行こう、鈴音が待ってるよ。」
美雪はうなずき、肩におかれた御剣の手をそっと握った。暖かい・・・。このぬくもりがあれば美雪はまた元気になれる。
「そうだね。」
二人はまた歩き出した。誰もいない、静寂に包まれた病院をただ二人で、ある意味これから起こる二人の運命を示唆するように。
二人は歩き出した。
もう、立ち止まることも引き返すこともできない。
二人はやがて来るその時に向かってゆっくりと歩み寄っていった。
※
夕日の沈んだ街は次第に暗くなっていった。秋の夕日はつるべ落としのように早く沈むと、昔の人はうまいことを言ったものだ。
鈴音はふと気がついた。
いつの間にか部屋は黄昏に満ちていて、手元の文字が読みにくくなっていた。
「・・・・真っ暗・・。」
鈴音はため息をつきながら枕元のスタンドと部屋の電灯のスイッチに手を伸ばし、ひもを引いた。蛍光灯は2,3回瞬くと明るく灯った。
そして、立ち上がりとブラインドを閉じた。
「よし・・・。」
彼女は安心したらしく、ベッドに戻るとまた手元の本に目を落とした。今日は検温も診察もないから後はこのまま食事を終えて眠るだけだ。
彼女は今『カサレリアの小春』という長編物語を読んでいる。母親が持ってきてくれた物だ。見ると本棚にも分厚い本が3,4冊積まれている。彼女の読書好きは相変わらずのようだ。特に最近はその量も増えている。その理由もまた明白なのかもしれない。
鈴音がページをめくろうとしたところで部屋に扉のノック音が響いた。
(だれかしら・・・)
彼女はふと時計を見つめた。4:10を少しすぎたところだ。面会時間も後1時間弱ほどしか残っていない。
彼女は本を閉じると僅かな期待を抱きつつ、
「どうぞ。」
と返事をした。
「失礼するよ。」
「失礼しまーす。」
という仲の良い声と共に見慣れた兄妹が顔を見せた。
その二人の顔を見た鈴音はまるで日の光が差し込んだようにパァーッとした笑みを浮かべた。
そこには御剣と美雪がたっていた。
「御剣君!久しぶりだねえ。」
今までの雰囲気など知らぬ空の彼方へ吹き飛んだともいうほどの、鈴音はうれしさでいっぱいだった。
御剣はほっとしたように破顔すると、ベッドのそばに歩み寄り、
「そうだな。すまなかったな。ずっと来なくて。」
美雪もニコニコとした笑顔で彼に続く、
「いいよ。今日来てくれたんだもの・・・それに・・・。」
あんなことがあったんだら、仕方ないよね。という言葉を鈴音は飲み込んだ。
「あ、そうだ!」
御剣はいきなり叫んだ。あまりに急だったので、鈴音は目を丸くする。
「ど、どうしたの?」
鈴音は不安そうな光を瞳に宿しながら御剣を見上げた。
「今日、何も持ってこなかった・・・。まずったな・・・。」
鈴音は”ああ”とうなずくとにこにこと屈託のない笑みを浮かべると、
「いいよ。そんなの。二人が来てくれることが一番うれしいことだから。」
御剣は”そうか”と答えると、
「そういう鈴音もなんだか嬉しそうだな。何かあったのか?」
いつもとは少し違う彼女の雰囲気を察したのかそんなことを聞いた。
鈴音は一瞬きょとんとするが、とたんに子供のようにくしゃっと表情を崩した。
「やっぱり分かっちゃうかなぁ。」
「お兄ちゃんだからね。」
美雪はいつのまにか椅子を見つけてそれに座っていた。
「おいおい。それはどういう意味だよ。」
御剣は嬉しそうな顔をしながらそう言った、
「別に。そのままの意味だけどぉー。」
美雪は鼻歌を歌うようなリズムでそう言った。まるでイタズラ好きの小悪魔のような笑みだ。
「わけわからねえよ。」
言葉はつっけどんだが、彼の表情を見る限り真実ではないことは明白だ。
「そんなことより、お姉ちゃんの聞こうよ。」
「そうね。言ってもいいかしら。」
ベッドの上でその対話を楽しそうに見ていた鈴音がくすくすと笑いながらそう言う。
「ああ、そうだな。で、何なんだ?」
ほっとしたように御剣は鈴音を見た。
「実はね・・・・。」
思わせぶりな笑みで彼女は二人の顔を見た。
「・・・・。」
二人はまさに興味津々な目を向けている。聞きたくてしょうがない。早く聞かせて。と、さすが兄妹、同じような目をしている。
「実は・・・。」
二人は身を乗り出してきた。
「はやく言っちまえよ。」
「そうよ。言ったら楽になるよ。」
美雪がそう言うと御剣は”たはっ”と息を吐き出すと、
「それは尋問の時に使う言葉だ。」
「別にいいじゃない。お兄ちゃんはいつも細かいんだから。」
「いつもって・・・。そんなことねえよ。」
「ふーん。そうなんだ・・・。」
お互いに唇を尖らせる二人、いつもの喧嘩になりそうだったが、
「あの・・・、いつ言えばいいのかな・・・。」
頬に手を添えながら鈴音は苦笑しながらそう言った。
「ああ、すまん。」
御剣は恥ずかしそうに鈴音の方を向く、
「お兄ちゃんが変なこと言うからだよ。」
「なにぃ!」
このままではエンドレスだ。鈴音は軽くため息をついた。あまりじらすのも考えものか、
「本当に御剣君と美雪ちゃんって仲がいいのね。」
彼女には兄妹がいないので少しうらやましい、
「そんなことない。」
「そんなことないもん。」
二人の声がシンクロした。まさにぴったりと。
二人はびっくりしたように顔を見合わせると、ブッと吹き出して笑った。鈴音もつられてくすくすと笑い出した。
本当に、この二人といると悲しいとか辛いとか感じていた自分が馬鹿に思えてしまう。鈴音は本当に二人に感謝していた。ある意味、彼女の命を救ったのは他でもない、御剣と美雪なのだから。
ひとしきり笑い合い、気がつくとすでに黄昏は過ぎ去り、外には月の出る前の宵闇が広がりつつあった。
ふと、外を眺めた鈴音は思わず息をのんだ。眼前に広がる闇がまるで自分の心を吸い込んでいくような・・・。
思わず窓から目をそらせた彼女は、二人の方を見て、口をゆるゆると開いた。
「外泊できることになったの。わたし・・。」
そっと漏らすように、鈴音はつぶやいた。
「・・・え?」
美雪は、聞き返した。あまりにも唐突にそういわれて、心が置いてけぼりにされたような気がしたのだ。
「外泊・・・できるようになったのか?!」
御剣は、歓声を上げた。そう、それは、今まで鈴音が夢にまで見たことだった。いつも彼女は「いつか、本当に自分の足で地面を歩いてみたい。」と言っていた。
それは、いつしか彼女の夢だけでなく、御剣の夢にもなっていった。
「そう・・できるようになったの・・。」
鈴音は、穏やかな表情を御剣に向けた。御剣は何かしらの違和感を感じた。死の気配は・・・まだ鈴音の背後に漂っていない。しかし・・・・、
「なんだが・・・。あまり嬉しくないみたいだね・・・お姉ちゃん。」
美雪は御剣の思いを代弁するかのようにつぶやいた。
”えっ?”と言って、鈴音は美雪を見つめる。
「あ・・・ごめんね!そんなはずないよね、だって、ようやく外に出られるんだもんね!」
自分の言葉が鈴音を困らせたのかと思い、美雪はあわてて言い直す。鈴音は、豆鉄砲を喰らったかのような、呆然とした表情のまま黙っていた。
「どうした?鈴音・・・。具合でも悪いのか?」
御剣も心配になってきたようだ。無理もない、いつもの鈴音ならこんな表情を浮かべるはずはない。御剣さえも見たことのない、彼女は、まるで人形のような表情を浮かべていた。
「あ・・・いいえ。何でも・・ないわ・・。」
鈴音も困惑していた。なぜ、どうして・・・さっきまで私は、何を考えていたのかしら・・・。と。しかし、去っていってしまったものを引き戻すことは無理だったようだ。
「そうか・・・なら、いいんだけど・・。」
御剣も首をかしげながらそういった。
「そうだ!美雪、いいこと考えちゃった!」
いきなり、美雪が叫んだ。美雪の前にいた御剣は、思わず”うおっ!”っと叫び声をあげてしまった。鈴音も思わす目を白黒させた。
「なんだよ?大声出して。」
いつもいつもこうだ、美雪は何か思いついたらどこであろうが、大声を上げる。
「あのね。あのね・・・えっとね。」
はやく言いたい、このナイスなアイディアをはやく開かしたい。そう思えば思うほどつっかえて出てこない。
「まあ、落ち着いて。ね・・・。深呼吸してみる?」
子供をあやすように、鈴音は柔らかな笑みを美雪に向けた。
「うん・・・。」
美雪はスーハーと何度か深呼吸をすると、
「あのね。お姉ちゃんと美雪とお兄ちゃんの三人でデートするの。街でお買い物して、ご飯食べて。それで、お泊まり会・・・。どう・・かな?」
御剣と鈴音は、お互いの顔を見つめ合うと、フッと表情を崩した。
「いいかもしれないわね。」
「鈴音がいいっていうだったらまあ。仕方ないかな・・・。」
御剣はそういっているが、その顔を見ればまんざらでもなさそうだ。
「だったら約束だね。外泊する次の日。ってことで。」
「うんいいよ。そうしよう。」
鈴音はニコニコしながらいった。
「さて。そろそろ時間かな。」
御剣は病室の時計と自分の腕時計を見比べながらそうつぶやいた。
「もうそんな時間なんだ。」
「つい話し込んでしまったわね。」
鈴音も心なしか残念そうだ。
「それじゃ。そろそろ、おいとまするかな。」
御剣は頬をぽりぽりとかきながらつぶやいた。
窓の向こうには一番星が輝いている時間になっていた。御剣はそっとカーテンを引いた。
「じゃあ・・・鈴音お姉ちゃん。・・。バイバイ・・。」
名残惜しそうに手を振る美由紀を見ながら鈴音はほほえみながら手を振った。
・・・・病室が急に静かになった。
夜のしじまが一歩、また一歩近づいてきている。鈴音は面を上げるが、そこには誰もいない。
「御剣君とデート・・・か・・・楽しみだなあ・・・。」
鈴音はうれしさがこみ上げてくる気がした。
・・・大丈夫、私はきっとやっていける。たとえこの病気が一生治らないものでも。御剣君がいれば・・・。
※
夜の街道には街灯が点々と闇に穴を穿っていた。まるで、光の杭が打ち込まれたように、そこは周りと異質の世界が広がっているようで・・・。
御剣は目を背けた。夜になると自分の感覚がとぎすまされていくような気がしてならない。それは、ひとえに御剣が心に死神を宿しているに他ならなかった。
「どうしたの?お兄ちゃん・・・。」
そんな御剣を見た美雪は少し不安になってしまう。
「別に・・・何でもねえよ。」
「なんだか、不安そうな顔をしているよ・・・。」
御剣は一瞬びくっとした。
美雪はいつも元気いっぱいで一見してみれば馬鹿そうな(失礼!)印象を受けるが、その実はとても洞察力が深く、感受性が高い。そのことを御剣は改めて目の当たりにしたような気がした。
「そんなに不安そうな顔をしているか?」
彼は極力自然な顔を作り、美雪を見た。彼女の眞摯で純粋なまなざしが彼の目に突き刺さる。
「うん・・・。」
美雪はうつむいてしまった。
「まあ。たいしたことはないさ・・・別に気にすんなよ。」
御剣は彼女をなだめるように頭をぽんぽんとなでた。
「うん・・・お兄ちゃんがそう言うんだったら・・・。」
美雪はそう言うと頭上を見上げた。そこには街の光に閉ざされた夜空が浮かんでいた。
「星・・・あまり見えないね・・・。」
「ああ。そうだな。」
御剣も空を見上げた。
二人はそれから何も言わずにただ黙って歩いていた。星のない空を見上げながら・・・。
※
「大丈夫だろうな・・・。」
御剣は咳払いをするようにつぶやいた。
「お兄ちゃん・・・。これで三回目だよ。それ・・・。」
その隣に座っていた美雪は本のページをめくりながらあきれた表情を浮かべる。
「ん?そうか?」
「うん。」
美雪は間髪入れずにうなずいた。
駅前のロータリー広場。時間はそろそろお昼時。太陽が南の空の中心に達しようかというところだ。
「不安なの?」
美雪は読みかけの本を閉じると兄・・御剣を見上げた。
「そんなことはないぞ。」
彼はそう答えるが、美雪の言葉が事実だと言うことはありありと見える。
待ち合わせ場所としては定番だったが、御剣達と鈴音は駅前のロータリーで約束しあっていたのだ。
「鈴音、大丈夫かな。」
そう、御剣の心配はもっぱらそこにあった。たとえ、死ぬ運命にはない鈴音であっても無理をすれば確実に命がそぎ落とされていくのだ。
「大丈夫だよ。あんなに元気だったんだもん。」
美雪はまた本を開けるとそれに半分だけ意識を持っていった。
「そりゃそうだけどさ。」
待ち合わせの時間までは後20分はある。
鈴音の心配もあるが、御剣としてはいてもたってもいられないというのが本音なのだろう。実際、昨晩はよく眠れなかったらしい。
御剣の足下にはなにやら黒い毛の塊のようなものが置いてあった。いや、よく目をこらしたらそれが猫の形をしていることが分かるだろう。
それは、なぜついてきたのかはよく分からないが黒猫のミカエルだった。秋晴れのぽかぽかした陽気に当てられ気持ちよさそうにうたた寝をしている。
今日は春のような陽気が街を覆っている。街ゆく人も皆、春の感触を味わうかのように自然に歩みがゆっくりとなる。
ふと、その中でもとりわけゆっくりとした歩調で歩いてくるものがいる。それは、まっすぐ御剣達の方に向かってきているようで。
「御剣君!美雪ちゃん!」
それはすぐに二人の見知った人物へと輪郭を露わにしていった。
「よう。鈴音。早かったな。」
時計を見ると、待ち合わせの時間まではあと10分程度ある。
「御剣君達もね。」
白い幅広の帽子をかぶりなおしながら鈴音はほほえんだ。
「うん。お兄ちゃんたら、昨日からそわそわして今日もいても立ってもいられないって感じだったよ。」
美雪は喜々として御剣のことを報告した。
「こら、美雪。あることないことをかってに想像するんじゃない。」
照れ隠しに御剣は美雪の頭をぺしぺしとはたいた。
「えへへへ・・・。」
叩かれて何がうれしいのか、美雪はにこっとした笑みを顔いっぱいに浮かべた。
「もっと殴ってやろうか?」
その笑顔に対して御剣は指を鳴らすそぶりをして見せた。
「わー!やだやだ!」
美雪は大げさなそぶりで頭を守るように腕でそれを抱え込んだ。
「うふふふ・・・。」
何も変わらない。こんなことをいつもいつも変わらず続けている二人を見て、鈴音は笑みを漏らした。
二人はその笑みに満足したようにお互いにうなずくと、
「さて、行こうか。」
促したのは御剣だった。
御剣と鈴音のこぶつきのデートが始まった。
※
「ねえ。鈴音お姉ちゃん。あの服かわいいね。」
ショウウィンドウに飾ってある、服をさして美雪は歓声を上げた。
「うん。なんだか大人の雰囲気があるわね。」
二人の受けた印象は少しずれがあるようだが、二人ともそれが気に入ったようだった。
「・・・4万!?高!」
ふと、その下に置いてある「大特価!!!」とデカデカと書かれた値札を見て御剣も違う意味での歓声を上げた。
「いいやつは高いよね。この前は6万円ぐらいだったけど・・。」
美雪はお預けを命じられた犬のような目でそれを見つめていた。
「6万?!そんなもんに金かける奴の気がしれん。」
御剣は気が抜ける思いだった。
「まあ・・・。女の子の夢みたいなものだから。」
鈴音も目をきらきらさせてそれを食い入るように見つめていた。
「なあ。そろそろ行かないか?もう昼飯時じゃないか。」
いい加減ウィンドウショッピングも飽きてきたのか、御剣は時計を見てそういった。
時間はお昼ちょっと過ぎぐらい、食事をするにはそろそろレストランも混雑のピークが過ぎて落ち着いて食事ができる時間帯だ。
「うーん。まだちょっと見て回りたいけどなあ。」
美雪の目はアクセサリーショップへと向いている。
「だけど。私、少し疲れたかな。できればそろそろ座りたいのだけど・・・。」
元気いっぱいな美雪に対して、鈴音はどこか弱々しい笑みを浮かべていた。
「おいおい、大丈夫かよ。美雪みたいにはしゃぎすぎたんじゃねえのか?」
鈴音は”うん・・・”と弱々しく呟いた。
「ねえ。お兄ちゃん。あそこにファミレスがあるよ。」
美雪が指さしている先には最近学校でも評判のいいファミレスがそこにあった。ちょうど客足もまばらになり始めたところらしく、今なら落ち着ける。
「そうだな。あそこに行くか。」
御剣は鈴音を軽く支えながら歩き出した。美雪は、その後をただついて行くだけ。なにやら複雑な表情を浮かべながら。御剣は彼女の前にいたためにその表情に気がついていない。いや、彼女も見られたくなかった。
今、彼女がどんな状況に立たされているのか、それを知られたくなかった。それをしらえてしまえば、二人と顔を合わせられなくなる。
美雪はそれを恐れていたのだ。
「さて。何を食おうか?」
とりあえず落ち着いた鈴音を見て、安堵のため息をついた御剣は初めてメニューを手に取った。
「ねえ、お兄ちゃん。私、このイカスミのパスタってやつ食べてみたい。」
御剣はそれを見た、
「な、なんか。濃いな。」
その写真を見ると、なにやら黒い、それこそ墨のようなものがパスタに絡まっている様子が生々しく映し出されていた。
「そうかな?一番人気だって書いてあるけど。」
確かにメニューには”ただいま人気絶賛中、品切れ続出”など、明らかに言葉が多すぎる宣伝が乗せられている。
「まあ、お前が食べたいって言うんだったらそれでいいけど。鈴音は決まったか?」
それまでボーッとメニューに視線を落としていた鈴音ははっと気がついたかのように面を上げた。面食らった表情を見ると御剣はなにやらほほえましさを感じた。
「えっと・・その・・・。マッシュルームのスープ・・・。」
少し照れくさそうに言うが、
「それだけでいいのか。」
という御剣の言葉にはしっかりとうなずいた。
「そうか。」
”まだ入院中だもんな、食事の制限とかされているのかもしれないな。”と結論づけると、
「済みません。」
片手をあげて、ウエイトレスを呼んだ。
「はい、ご注文の方はおきまりになられましたか?」
世間一般的にかわいい制服に身を包み、朗らかな営業スマイルを浮かべると彼女はメモ用紙を取り出した。
「えっと、このイカスミのパスタとマッシュルームのスープあと、このランチセットをパスタはフレッシュトマトで。」
御剣はメニューを指さしながらぱっぱと注文をすませる。ウエイトレスの女性も手際よくペンをメモ用紙に走らせると、営業スマイルを浮かべ、
「かしこまりました、しばらくお待ちください。」
と、ぺこりとお辞儀をすると奥へと引っ込んでいった。
「お兄ちゃん。ランチセットにしたんだ。」
「ああ。セットじゃないと食べた気がしないからな。」
「ふーん。」
御剣達はしばらく他愛のない会話を交わした。今、学校では何が話題になっているか。自分の友達のこと。
鈴音は終始うらやましそうな表情をしていた。
”いつか、鈴音お姉ちゃんと一緒に通えるようになるといいね。”
という美雪の言葉に御剣は深くうなずいた。
昼食が終わり三人は街に出た。
「さて。どこに行こうか。」
御剣はこのまま適当に商店街を散策する程度で別にどこに行こうとか決めていなかったのだ。
確かにデートといえばおきまりの場所もあるが、鈴音のことを考えれば下手なところに行くことはできない。
「あ。だったら公園に行こうよ。最近、新しくできたところ。すっごくおちつけるところだって譲葉が言ってた。」
美雪は”はーい”と手を挙げた。
「へえ。そんなところがあるんだ。」
公園と聞いて鈴音は目を輝かせた。
「うん。まだ行ったことないけど。」
「公園か。そうだな、行ってみるか。ここから遠いのか?」
御剣は正直あまり遠いところには行きたくなかった。
「ううん。ここからすぐだよ。」
美雪にとってのすぐといえば・・・歩いて10分ぐらいってところか。御剣はそう推測すると、
「よし、行くか。」
「うん。私が案内するね!」
美雪は鈴音の隣に立つと歩き出した。御剣はそんな二人の背中を見ながら歩みを進める。
・・・こう見たら、本当の姉妹みたいに見えるよな。
御剣はふとそう思った。二人はそう見えるほど仲がいい。
・・・こんな状況がいつまでも続くといいんだけどな。
「どうしたの?御剣君。」
ふと気づくと鈴音が心配そうに御剣の顔をのぞき込んでいた。いつの間にか歩みが止まっていたのだ。
「あ。いや、別に何でもねえよ。」
御剣はあわてて二人の後を追った。二人とも歩くペースが遅いのでさほど話されてはいない。
「お兄ちゃん。早く早く。」
美雪はわざわざ彼の下に引き返して腕をぐいぐいと引っ張る、
「おいおい、あわてんなよ。時間はたっぷりあるだろうが。」
「だってー。早く行きたいんだもん。」
・・・・お前はお子様か?
といいそうになったが、やめておいた。その後に浮かべる美雪の表情を想像すると、また面倒なことになりそうだ。
「ゆっくり行こう・・・ね?」
鈴音の穏やかな笑みをみると、美雪は何も言えなくなった。
「うん。分かった。」
美雪は御剣の腕を放すとまた鈴音のそばにかけていった。
「いそがしいやつだな。」
御剣はぼそっと呟く。
そのつぶやきは気まぐれなそよ風にかき消され二人の耳に届くことはなかった。
「お兄ちゃん。遅ーい!」
これ以上待たせるとさらにうるさいので、御剣は足早に二人のもとに歩いていった。
※
「あんまり人、いないね。」
美雪は呟いた。
静かと言うよりは閑散とした公園には休日ながらあまり人の影は見えなかった。
「だけど。落ち着けるよ。」
鈴音は公園を見回した。
公園の周りには植林された木々が波のように立ち並び、あたかも都会のオアシスのような様相を醸し出していた。
「まあ。静かだしな。」
公園に一歩はいるとそれまで街を覆い尽くしていた人の喧噪、車の走る音がすべてなくなってしまった。
あたかも別世界に迷い込んだような錯覚を催す。
三人は適当な木陰を探すと座り込んだ。木の幹を背中に感じ、御剣は心から落ち着いていくような気がした。
「そういえば、ここ最近落ち着きとは無縁だったからな。」
夏が過ぎ時が経てゆく。
夏は多くのことがあった。親しかった者との分かれ、そのものに最後を与えたのはほかではない、自分だったのだ。
もし、その身内の者がそれを知ったら彼らはきっと自分を許さないだろう。それは、彼が死神としての責務を果たすとき常に思っていたことだった。
一つの街に死神は二人と必要ない。御剣はいつも一人の夜を過ごしてきた。彼にとって生きているということを実感できるのは太陽の昇る昼間だけだったのだ。
「あ。ねえ。鈴音お姉ちゃん。あれ、おもしろそう。」
好奇心旺盛に周りを見回していた美雪は何かを見つけ出したようだ。
「あ。ブランコだね。」
美雪の指さしたその先はまだまだ使い古されてないブランコがぽつんとあった。
「おいおい。あれは子供の乗るものだぞ。」
御剣はそういうが、美雪には聞こえていなかったようだ。
「ねえ。鈴音お姉ちゃん。行こう?」
美雪は鈴音の手を取って促した、
「うん。行こうか?」
「俺は遠慮するぞ。」
御剣はつきあってられないというような表情を浮かべると木の幹に背中を預ける。
「えー?楽しいのに・・・。」
美雪は不満そうだが、鈴音に促されると二人は一緒にブランコの方へと歩いていった。
「鈴音も物好きだな・・・。」
子供が遊んでいるのを遠くから見守る父親の気分で彼は二人を見守っていた。
「・・・楽しい・・か。楽しいんだろうな・・・。お前も一緒に過ごしたかったのか?優紀。」
彼は空を見上げた、天国などない。死ねばその魂はただ天へと帰るだけ。そして、その魂は再び生命に宿る。
「お前と再会できる日は来るのかな。」
御剣のつぶやきはただ空へと消えてゆくだけだった。
「どうしたの?御剣君。」
ふと視線を正面に戻すとそこには穏やかな笑みを浮かべる鈴音がいた。
「別に・・・。ただ、こんな日がいつまでも続くといいなって。いや、こんな日じゃないよな。鈴音がよくなって普通に出歩くことができるようになったらどんなに楽しいなって、思ってな。」
御剣の声はまるで空を見上げているような感じがした。
「そうだね。そんな日が来るといいね。」
鈴音も彼のそばに座り込むと一緒に空を見上げた。穏やかな雰囲気が漂う。まるでこの世界には自分たち二人だけしかいないような、そんな雰囲気が漂っていた。
「・・・御剣君・・・。」
「ん?」
御剣は呼ばれた方を振り向いた。鈴音の声。しかし、それはなんだかいつもとは違っていた。しばしの緊張感。御剣の背筋に冷たいものが走る。
「・・・鈴音?」
御剣は一瞬何が起こったのか理解できなかった。自分の肩に寄せられる鈴音の頭。それは、そのまま彼の膝へと落ちてゆく。
「鈴音お姉ちゃん!」
美雪の悲痛な声で彼は気がついた。
「鈴音・・。鈴音!」
彼女はまるで魂の抜けたような表情をしていた。まるで雪を思わせる白い顔。それには人としての生気がかけらも存在していなかった。
御剣はそのような顔を知っている。幾度も幾度も目にしていた。それは、人の死に顔だった。
鈴音の荒い息。よかった、まだ息はある。御剣はひとまず胸をなで下ろすと、心を落ち着けた。
今ここで俺があわてていたらどうする。
彼は、美雪を見上げた。美雪はまるで魂の抜けた人形のような表情で鈴音を見ていた。
「美雪!」
鈴音を膝に寝かせているため美雪の肩を揺することはできなかったが、彼女はそんな声ではっとする。
「すぐに救急車を呼んでくれ。」
「・・・救急車・・・うん。分かった。」
美雪は素早くポケットから携帯電話を取り出すと素早い手つきでダイアルをする。数回のコール音。
「あ、すみません。その・・・え?はい・・・・。あ、救急です、救急です。ひとが・・・。あ、その・・・街の中央の公園で、鈴音お姉ちゃんが・・・人がたおれて・・・。はい、息は・・・あります・・大丈夫です・・。え?あ、聖イスラフェル学園付属病院です・・・はい、外泊でお出かけしていて・・・。はい、お願いします・・・。」
美雪は携帯電話から耳を話すとホールドボタンを押した。
「どうだって?」
「すぐにくるって。公園の正面口にくるからっていってたよ・・・。」
「分かった。」
御剣は短く答えると鈴音を横に抱いた。鈴音はまるで眠ったように目を閉じていたが、その息は荒い。
・・・大丈夫・・・死の影はまだない・・・。
御剣にとってそれが唯一の希望だろう。鈴音はまだ死ぬことはない。これは一時的な発作なのだ。それを言い聞かせることで彼はかろうじて平静を保っていられる。
彼は、極力ゆっくりと鈴音を公園の正面口に運んだ・・・。
「御剣君・・・。」
荒い呼吸を続けながらも鈴音は弱々しく目を開いた。
「今は眠ってろ。すぐによくなる。」
「ごめんね・・・せっかくのお出かけなのに、迷惑をかけて・・・。」
「迷惑なんかじゃない。気にするな。大丈夫、すぐによくなるさ。」
「うん・・・そうだね・・・。」
鈴音はそういうとまた深いまどろみへと落ちていった。
入り口付近の木陰に彼女を横たわらせると御剣と美雪は無言で救急車の到着を待った。
「ねえ。お兄ちゃん・・・。」
突然美雪は口火を切った。
「何だ?」
車のあふれる道路をにらみつけていた御剣は美雪に視線を向ける。
「えっと、その・・・何でもないよ・・・。」
「そうか・・・。」
美雪が何を言おうとしていたのか。それは御剣にも分からなかった。しかし、彼はそれを問いただそうともしない。今はそんな余裕はない。
それに、たとえ問いただしても美雪は何も言わないだろう。御剣はそれを知っていた。
じりじりとした時間が過ぎる。一秒が一時間にも感じられるように時間がひどくゆっくりと流れ出す。
まだ、さっきからさほどの時間も過ぎていないだろう。しかし、彼はじれていた。
「まだか・・・。」
待つことしかできない自分、いつもは偉そうなこといっておきながら、鈴音を守ろうと心に決めていたのにこういうときは何もできない。
自分は無力だ。御剣は歯を食いしばった。
「お兄ちゃん・・・。」
「・・・。」
御剣は今度は無言で答えた。
「悪いのはお兄ちゃんじゃないよ・・・悪いのは・・・美雪なの・・・。美雪が全部悪いの・・・。」
「どういう・・・。」
美雪の悲痛な声を聞いて御剣は彼女が何を考えているのかはかりかねるものがあった。しかし、それはサイレンの音にかき消される。
「ようやっとか!」
御剣は急いで救急車に向かって手を振った。救急車は彼の目の前に急停止した。
「あそこです。」
御剣ははやる心を押さえつけるように木陰に身を横たえている鈴音を指さした。
「分かりました。」
白い服を着込んだ救急隊員は担架を担ぎ込むと鈴音のそばへと駆け足で寄っていった。御剣もそれをそばで見守る。
「それでは後ほどまた連絡をいたしますので。」
御剣が自分の携帯電話の番号と家の番号を告げると、隊員は敬礼をして救急車に乗り込んだ。
「たぶん、大丈夫だろう・・・。あとは任せておけば・・・。」
御剣はまるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「うん・・・そうだね・・・。」
美雪はただそう答えるだけだった。
二人はそのまま家路についた。二人とも始終何も話すことなく。
静かな夕焼けだった。
(2)
御剣は暗い闇の中に立たされていた。目が慣れれば、そこは病院の部屋の中だということがすぐに分かるだろう。
そこには小さなケースがおかれていた。
その夜、小さな命が散っていった。生まれながらにして生きることができなかった悲しい命。
あらゆる希望と祝福を一身に背負って、狭い空洞をあらん限りの力を振り絞って外にはい出してきた。
そこには希望に満ちあふれる世界があるはずだった。
しかし、死の運命はそれをも許さなかった。
まだ、誰も知らない。誰にも死を看取られることなくただ孤独に死んでゆく。
「思い残すことはいくらでもあるだろうね。せめて、母親の腕の中で息を引き取りたかっただろうけど。もう時間なんだ。逝くときが来たんだよ・・・。」
御剣はガラスケースに手を入れそれをつかみ取った。一抱えほどしかない小さな魂、それは死してもなお穏やかな寝息を立てていた。
自分が死んだことも分からない。
ひとえに純粋な命、それを天へと返さなければならない・・・。
この後、残された者達にはどれほどの絶望が待ち受けているだろうか。
死神として、それを受け入れなければならない。そんな義務はないのだが、御剣はいつもそうしていた。
母親の慟哭。それは、死神である御剣に残されたわずかな人として心に深く深く響き渡る。
希望が絶望に変わる瞬間。彼は、幾度もそれを身に受けてきた。
御剣は夜のごとく黒いマントの中から巨大な鎌をとりだした。
鈍い光の瞬き・・・・。
それはカーテンの隙間から差し込む月の光に照らされて、鈍い銀色を呈していた。
彼は、鎌をその胸にあてがった。
「・・・・お休み・・・。」
銀色の光のきらめきはその胸の中に吸い込まれてゆき、その身を貫いた。
刹那のまばゆい光、生命の輝きと呼ばれる光を放ちながらそれは淡い光のかけらとなり天へと帰っていった。
「そこまで自身を追い込む必要もなかろうに・・・。」
足下でそれを見守っていた、黒猫のミカエルは御剣を見上げていた。
「そうもいかないさ・・・俺は・・・。」
「何も言わなくともよい。私は分かっている。そなたは強いからな。」
「強い・・・ね。ただ冷めているだけかもしれないぜ。」
御剣は自嘲的な笑みを浮かべた。
「自らのことを知っている者は強くもなれるのだ。」
ミカエルは御剣の肩に飛び乗った。夜明けがくれば誰かが、なくなってしまった命に気がつくだろう。
街が目覚める前にそれは親に知らされ、そして別れがくる。絶望の訪れだ。
それを見届けることが、すべてへの償いへとなるとは思わない。だが、御剣はそうしなければいられない。
「不完全な死神・・・か。何で俺みたいな奴が死神に選ばれたんだろうな?」
ミカエルは何も答えなかった。
静寂に包まれた街は次第に夜明けの光に照らされてゆく。死んでいた街が今よみがえった。
しかし、ひとたび死を迎えた生命は二度と蘇ることはない。
「人の命は・・・儚いものだな・・・。」
ミカエルはただ一言呟くと御剣の肩に身を沈めた。
御剣は待ち続けた。ただ、ひたすらに・・・。
※
寝苦しい夜をすごし、御剣は太陽の光を仰ぎ見た。連休で学校は今日も休みなのだが、どうしても目がさえてしまった。
幼い命を天へと返した。そして、なにより鈴音が倒れてしまった。
その二つが彼の心を戒めていた。
「人の命は儚い夢のようなもの・・か。」
そんなフレーズを思い浮かべた。彼はそのくだりがとても嫌いだった。なぜなら、これほどまでに人の真実を言い当てているものはほかにはなかったから。
彼はほとんど寝ていない。彼が死神としての使命を果たした数時間後、一つの絶望が訪れた。希望が絶望に変わる瞬間。彼はそれをかいま見たのだ。
だから彼はほとんど寝ていなかった。寝られるはずもなかった。
母親の慟哭の声が未だに耳の奥から離れようとしない。
「忘れてしまった方がよい。その方が楽だ・・・。」
ミカエルはベッドの下からはい出てきた。
「たしかにな・・・俺だって忘れてしまいたいさ。でもよ・・・俺は、人間なんだぜ。」
すると突然、部屋の扉が開かれた。ミカエルは驚いて御剣の足下に身を寄せる。
「あら。おきてたの?珍しい。」
そこに顔を出してたのは、御剣の母親、美沙だった。
「お袋こそ、こんな時間に家にいるなんて珍しいよな。」
御剣はミカエルを足でけっ飛ばしながら答えた。普段なら休日の朝でも彼女は仕事があって家を留守にしていることが多いし、留守にしなくてもたいていは朝寝を貪っているのだ。
「まあね。昨日の夜も早めに帰ってきたし。あなたは昨日は遅かったみたいね?夜、ベッドにいなかったし・・・ミカエルちゃんも。」
美沙はしゃがみ込むと御剣に邪険に扱われていたミカエルの頭を撫でた。
ミカエルは”ふにゃー・・”と、まるで猫のような鳴き声を漏らしていた。
「それじゃ。ご飯食べるなら早めに降りてきなさい。」
美沙はミカエルから手を離すと部屋を出て行こうとするが、寸前で思いとどまったように歩みを止めた。
「鈴音ちゃん・・今は辛いでしょうけど・・・あなたがしっかりしておかないといけないわよ。私が言えることじゃないけど、がんばって。」
扉が閉まる音が部屋に響いた。
「やれやれ。あのお方はいつもいうことはしっかりとおっしゃるな。」
ミカエルは頭に残る感触を楽しみながら思いっきりのびをした。
「そうだな・・・。」
御剣はそれ以後、何も言うことなくパジャマから普段着に着替えると下に降りていった。
「ところで、美雪は?」
てっきり下に降りてきているものだと思った御剣は、リビングのテーブルには美沙一人だけしか座っていないことを知り、少し不思議に思った。
「さあ?どこかに出かけるって書き置きはあったけど。」
美沙は、テレビから目を離さずにその書き置きの手紙をひらひらとかざして見せた。
「どれ・・・。」
『出かけてきます。』
女の子らしいころころとした文字にはそぐわない、そのあまりにもシンプルな文はよけいに疑問をわかせるものだった。
「そうそう。鈴音ちゃんところから電話があってね。」
御剣は電光石火のごとく面を上げた。
「それで・・・!?」
彼の心に戦慄が走る。
「何とか落ち着いたそうよ。だけど、今回は急だったそうだから少し心配だってお医者さんもいってたらしいけど。」
「そうか・・・。」
ふう・・・。彼は安堵のため息をつく。
手放しには喜べないということだろうが、今のところ御剣には何のお呼びがないため命には別状はないはずだ。
それでも、心配はつきることはない。そんなもので割り切れるものではないから。
「ところで。これはお袋が作ったのか?」
御剣はテーブルに並べられている朝食に目をやった。
「まあ、たまにはね。」
美沙はまだテレビから目を離さない。昼間の定番とも言えるバラエティー番組だが、何がそんなにおもしろいのだろうか?と、御剣は疑問に思ってしまう。
御剣は興味を失うとそばに置いてあった新聞を広げてテーブルに広げた。
それに視線を落としながら飯を口に詰め込みすまし汁とともにそれを胃袋の中に流し込む。美沙は、いつも鰹と昆布でだしをとっている、この地方ではそれは珍しいが、どうも彼女は以前は関西の方に住んでいたらしい。
普段は標準語を話しているが、たまに地が出てしまうことがあるのだ。まあ、どうでもいい話だが・・・。
「御剣。あんた。この後何か用事でもあるの?」
不意に美沙がそんなことを聞いてきた。いつの間にかテレビは消されていたようだ。
御剣は新聞から目を離すと、
「いや・・・。鈴音は入院中だし、美雪もいないしな。」
連休中は鈴音と一緒すごそうと思っていたが、昨日のこともあり、鈴音とあうことははばかれた。
「だったら、今日は私につきあいなさい。」
「ん?なんで?」
「私だってたまには自分の子供と出歩きたいこともあるのよ。」
美沙はゆっくりとコーヒーを飲んでいた。その表情からは彼女が何を考えているかを推し量ることはできない。
・・・・いや、お袋の気まぐれなんて今に始まったことじゃないか。
「昼飯おごってくれるなら。」
御剣は新聞をたたむとテールブルの上に置いた。
「馬鹿ね。親が子供と一緒に食事するんだから、おごるなんて言わないでしょう?」
「ま、それもそうだな。」
御剣はリモコンをとると適当にチャンネルを変えていった。今の時間は取り立てておもしろい番組もやっていない。
御剣はテレビの電源を切り、そのリモコンをテーブルに放り投げると、席を立った。
「いくときになったらいってくれ。」
そう一言、残すと自室へ引っ込んでいった。
※
結局、美沙は、御剣達がよく食材の買い出しするデパートに足を運んだが、普段から美雪も御剣もいろいろと生活用品を購入しているので、今家に不足しているものはなにもなかった。
「つくづく、私が家をほったらかしにしてるってことがよく分かったわ。」
美沙は食後のコーヒーを飲みながらそう呟いた。
「今更って感じもするけどな。」
御剣はハーブティーを飲んでいた。
結局、何もすることなくデパート内をぶらついて、気がつくと昼時になっていたので近くのレストランに足を運んだのだ。
「そういえば、あなたは昔から何でも背負い込む子だったから何か無理とかしてるんじゃない?」
みると、美沙はコーヒーをお代わりしていた。
「そうか?」
御剣は不思議に思った。まさか、美沙に、母親にそんなことを思われているなんて、夢にも思わなかったのだ。
「ええ。お父さんが死んだとき、覚えてるわよね。あのとき、あなたはあの人が死んだのは自分のせいだって言ってた。だから、何でも自分のせいにして背負い込んでいるんじゃないかって。今回の鈴音ちゃんのことだって・・・。」
なるほど、確かにそんなこともあった。
御剣はふと思い出した。いつか夢で見た光景、確かに彼は泣いていた、父親が死んだのは自分のせいだと言って、自分さえいなければと。
「そんなことはないよ。おやじが死んだのは間違いなく俺のせいだからな。それは、偽るわけにはいかないよ。」
「なぜ?そんなことを言うの?」
美沙は、カップを置くと御剣の目をまっすぐと見つめていた。
「そうだな・・・。お袋は、俺が死神だって聞いて信じるか?」
御剣はふっとそんなことを漏らした。足下でなぜかうずくまっていたミカエルは面を上げ、御剣を諫めるようににらみつけた。
「・・・・?どういうこと?あなた、何を言っているの?」
美沙は訳が分からなかった。御剣は何を示唆してそんなことを言っているのか、まるで見当がつかない。
しかし、彼女は気づいていなかった、彼が言ったのはそういったことではないのだ。
彼が言ったことは紛れもない真実だったのだ。
「ま、忘れてくれ。俺も鈴音のことがあって少し疲れてるだけだ。」
すっかり冷めてしまったハーブティーをぐいっと飲み干すと御剣は大きくのびをした。「・・・・・。」
美沙はまだなにか言いたげだったがぐっと口を噤むと御剣に習ってコーヒーをぐいっと飲み干した。
「さて。行きましょうか。これ以上ここにいてもなんだしね。」
美沙は支払いを済ませるとさっさと店を出て行った。
「これからどうする?」
そして、行く当てもなくただぶらぶらと街を歩く。
「別にどうもしないけど?」
美沙はあちこちきょろきょろとしながら歩いているだけだった。別にどの店に入ろうかとか何をしようかとかも決めていない。
「それじゃあ・・・。」
御剣はふと、とある建物の屋上を見上げた。そこには何者かが立っていて彼を見下ろしているようだった。
真っ赤なフードをかぶっていてその表情は見えないが笑っているのだろうか?御剣にはそう感じられた。
「まさか!?」
御剣はその正体に思い当たるものがあった。いや、思い当たったのではない、本能的に死神の本能として瞬時に理解したのだ。
「くそ!」
御剣はかけだした。街を行く人混みなどはじめからなかったかのように御剣は一直線にそこへとかけだした。
「ちょっと、御剣!どうしたの?待ちなさい!!」
後ろから聞こえる美沙の焦った声も人混みの喧噪の中に消えていった。
『こんな白昼堂々と姿を見せるなど・・・いい度胸じゃねえか!』
彼は走った、ただ一直線に。誰も彼にぶつかることはない、誰もが無意識に彼を避けて歩いている。
これも、彼の、死神としての能力の一つだった。
「どこだ?」
御剣は屋上へとたどり着いた。風のような俊足であっという間のことだった。しかし、そこには誰もない、何もない。
そもそも、この屋上には人が登ることはできないのだ。
「あれは・・・間違いないな。」
始終、彼の足下にいたミカエルはうなるように呟いた。
「悪夢・・・か。でも、何でこんなところに。」
「分からん。奴も自分の使命を果たしていたのかも試練。」
「・・・生きるべき者に死を与えていたと言うことか?」
ミカエルはうなずいた。
「・・・・くそ。俺は死神失格だな。悪夢のやろうとしていることすら分からないなんて。」
御剣は憤りを感じ、ビルの鉄骨を思いっきり殴った。鉄骨はびくともしなかったが御剣の殴った表面には彼の拳の跡がついていた。
「まだ焦ることはない。魂の流れにはさほどの影響は出ていないようだからな。そもそも、最近の悪夢の行動は何かおかしい。まるで、お前をねらっているようにも感じられる。」
「どうでもいいよ。ただ、俺は悪夢が何をしようと俺の大切な奴らには手を出させねえってことだけだ。」
「そうだな。そなたはそれでよい。」
ミカエルは最後にあたりを嗅ぐように見回すと、御剣とともに屋上から姿を消した。
「まったく。いきなりいなくなっちゃだめでしょうが!」
美沙は案外早く見つかった。そして、彼女のそばにはなぜか悲痛な面持ちの美雪が立っていたのだ。
「美雪?なぜ、こんなところに?」
御剣は美雪をみてそう聞いた。
「べつに・・・。気まぐれだよ。」
とりつく島もないということはこういうことか。御剣はそういわれてしまえば、口を噤むしかなかった。
「あなた達、けんかでもしているの?」
美沙は二人を交互にみると、心配そうな表情を浮かべた。
「そんなんじゃねえよ。」
「別に・・・お母さんには関係ないよ。美雪達のことだもん。」
親が子供の心配をして何が悪いの?と美沙は叫びたかった。しかし、今の彼らはないかが違う。
まるで、人の心をどこかに置き忘れてきたような魂の抜けたような表情をしていた。
美沙は少し背筋が寒くなる思いだった。
「とにかく、帰りましょう。美雪も用事は済ませたのよね?」
美雪はこくんとうなずいた。
三人は始終会話を交わすことなく家路についた。
深い深い闇の中。御剣はそこに漂っているだけだった。
(俺は・・・。どうなったんだ。)
刹那に生まれてくる記憶のフラッシュバック。それは、幼い頃の記憶だった。彼が忘れようとしていた、最近になってようやく記憶からなくなろうとしていた頃の記憶だった。
(俺は・・・。)
カメラのフラッシュを浴びているかのように、次第に記憶が蘇ってくる。
車のブレーキの音。何かが吹き飛ばされる二つの音。人々の喧噪。皆、あわてたような哀れむような表情で自分たちを見下ろしていた。
(ああ、そうか・・・。あれは・・・親父の見舞いの帰りだったっけ?)
父親の元気そうな顔が一瞬だけ現われ消える。
(それから・・・・。)
車のブレーキの音。何かが吹き飛ばされる二つの音。地面にたたきつけられるような鈍い衝撃。地面を染める赤黒い何か。
(・・・・事故・・・。)
隣には見知った女の子の顔。妹の顔とだぶって見える。
(まだ、幼かったんだな・・・・。)
冷たくなってゆく心と体。すべてが冷たい闇へと帰ってゆく・・・。
そして、声が聞こえてきた。
『闇に見初められた者よ・・・。どうか私をお前の意志の中に住まわせてくれまいか・・・。その代わり、おまえに救いを与えよう。』
(そうか。そうだったんだな?)
『再び世に生きる運命を与えよう。代わりに、我が闇の運命を背負ってくれまいか・・・。』
(出来損ないの死神が生まれたときか・・・。)
銀色の光が短く閃く。
(だけど・・・あいつは・・・美雪は・・・どこに・・・。俺は、死神になった・・・美雪は・・どうして?)
赤い光がなびく。
血を思わせる紅の光、それは一種の炎のようにも見えた。
『悪夢はこの世から消滅させなければならない。あれは、魂の流れに混乱を招く者。けして許してはならない悪。』
黒い毛並みがそう呟いていた。
(ミカエル・・・お前は?お前は・・・いったいなんなんだ?)
※
御剣は目を覚ました。
「なんだか、懐かしい夢を見ていたような・・・。」
時計をみるとそれは深夜を示していた。
「昔の夢を見たの?お兄ちゃん・・・。」
部屋の暗がりから女の子の声がした。
「・・・美雪か?どうした?そんなところで・・・。」
御剣はベッドから起きあがり、それに腰をかけた。
「昔の夢を見たの?」
美雪は答えなかった。
「ああ。」
仕方なく御剣は返事をした。
「交通事故だったんだよね?美雪達が死にかけたのって。」
「そうだったな。今まで忘れかけていたよ。」
「・・・・・。」
美雪は押し黙る。御剣も口を噤む。
御剣は感じていた。何かが違う。何かが間違っている。ここに漂っている空気は何かが異常だ。本当にそこにいるのは美雪なのか?御剣には人の気配がまったく感じられなかった。それは、まるで、闇と会話をしているような、そんな感覚にすら襲われる。
「鈴音お姉ちゃん。心配だね?」
突然、美雪は話題を変えるように口を開いた。
「そうだな。だけど、大丈夫だ。死にはしないから。」
御剣は美雪を安心させたかった。こんな感じになるのも美雪が鈴音のことを心配しているからだろうと思ったからだ。
鈴音は美雪にとっても本当に、姉妹のようなものだったから。
「何でそんなことが分かるの?」
だが、その口調は彼の思惑が外れていたことを物語る。
「・・・・?どうしてそんなことを言う?」
御剣は眉をひそめた。美雪の言葉はあまりにも冷徹だった。
「何で分かるの?鈴音お姉ちゃんは死なないってこと。それに、優紀お姉ちゃんの時だって。美雪は聞いたよ、お兄ちゃんは優紀お姉ちゃんが死んじゃうことを知っていたってこと。」
「それは・・・。」
それは・・・俺が死神だから・・・。と御剣は心の中で呟いた。
「それにお兄ちゃん。時々夜にいなくなるよね?外に出て行った気配はないのに、本当、消えたように・・・。何してるの?そういうとき・・・。」
「別に・・やましいことなんてしてねえよ。」
「分かってるよ。それぐらい。」
・・・おかしい、美雪はなぜこうも俺の真をつくことばかりを言うのだ。
御剣は背筋が寒くなるようだった。
足元を見ると、いつの間にかミカエルがちょこんと座って美雪の方をみていた。
いや、見ているのではない、ミカエルは睨んでいるのだ。縫いとめるように。御剣はやっと気が付いた、今の美雪はその存在が極めて希薄なのだということを。
「美雪は知ってたよ。お兄ちゃんが・・・・、お兄ちゃんが・・・死神だってこと・・・・。」
御剣は脇腹を殴られたような衝撃を受けた。
震える口をおそるおそる開ける。恐ろしい予感、振りほどきたくなるような寒気は御剣を恐怖の淵へと陥れていく。
「・・・い、いつからだ?」
「わかんない。気がついたら知ってたの。」
「そうか・・・・すまないな。黙ってて・・・。」
しかし、美雪は大きく首を振った。彼女の長い髪がまるで鞭のように頬を叩く。
「いいの!だって・・・美雪も隠し事してたんだもん!!美雪は・・・許されないことをしていたの・・・だって、そうじゃないと生きていけないんだもん・・・。だけど!心の中ではいけないことだって分かってて。それでも・・・やらないといけなくて!!美雪は・・・美雪は・・・悪い子なの!!!自分がいなくなることがとっても怖いの!!お兄ちゃんのそばにいられなくなるかもしれないって思ったら心が、心が張り裂けそうになっちゃうの!!いやなの・・・もう・・・。隠し事しているのも・・・こんなことを続けていくのも・・・。もう、疲れたの・・・・。」
美雪はまくし立てた。いままで、腹の中にため込んでいたものをすべてはき出すように。
「どういうことだ?いったい、何があったんだ?」
御剣は動くことができなかった。美雪の赤くはれる頬を撫でてやることもできなかった。美雪は自分の肩を抱いた。
彼女は今、どんな表情をしているのだろうか?
「お兄ちゃんと一緒だよ。お兄ちゃんが、死神の運命を受け入れたのと。美雪は・・・美雪は・・・。」
美雪は息を吸い込んだ。
「美雪は・・・・。」
御剣の胸が騒ぐ。どうしようもない息苦しさが彼に襲いかかる。周りの空気がまるで鉛のようにのしかかってくる感覚を覚えた。
・・・・いやだ・・・言うな・・・聞きたくない・・・。
心がそれを拒否していた。耳をふさぎたい、しかし、もうできない。もう、逃げることはできない。
「美雪はね・・・悪夢なんだ。」
黒い静寂が世界を包みこんでいく。まるで、世界中の闇が彼らの周りに集まってきたような。すべてを絶望の彼方へと追いやるような深い闇が。
しかし、美雪の言葉は終わったわけではなかった。
「私の中の悪夢がささやくの・・・次は・・・・。」
美雪は息を呑む。御剣もただ黙って次の言葉を待つ。そうするしかなかった・・・・。
「次は・・・鈴音お姉ちゃんだって。」
心臓の音が止まる。世界の音が閉ざされていく。虫の音も風の音も、街の眠る音も。
「・・・・鈴音が・・・。なんで・・・鈴音は・・・死なないはずじゃ・・・。」
御剣はふらふらと立ち上がった、
「・・・・・うん。だから、死を与えるんだって。悪夢が・・・・。鈴音お姉ちゃんに。」
「何でだよ・・・。そりゃ、一昨日はあんなことがあったけど、だけど、鈴音だってだんだんよくなってきてるじゃないか・・・それを・・・。」
御剣は無意識に美雪の肩をつかんで揺さぶっていた。
「美雪だって!美雪だって、こんなことしたくないよ!!だけど、だめなの・・・。気がついたら悪夢に身体をゆだねているの・・・。私は、死にたくないけど・・・鈴音お姉ちゃんが死ぬぐらいなら美雪が死んだ方がいい!!だって、美雪は・・・・美雪は・・・あのとき本当は死ぬはずだったんだもん。だから、悪夢に見初められたんだよ・・・。」
「何だって?じゃあ、俺が死神に見初められたのってのは・・・。」
「たぶん。お兄ちゃんは死ぬべき人じゃなかったんだと思う・・・。」
考えてみればそのとおりだった。あの時、御剣は死神に命を助けられた。それは、本来なら彼が死ぬべき運命になかったからだとしたら。そして、美雪は悪夢に見初められた。それは・・・つまり・・・。御剣は崩れ去るように床に跪いた。
「俺たちは・・・。俺たちは・・・。いったい、何なんだ?なぜ・・・こんなことに・・・。」
美雪はいつの間にか肩をふるわせて泣いていた。
「お兄ちゃん。お兄ちゃん・・・美雪はいいよ・・・。鈴音お姉ちゃんを助けるためだもん・・・。美雪をけしてもいい。悪夢を消すのは死神の使命だから・・・美雪がお兄ちゃんに消されればみんなうまくいくんだよ・・・・。」
御剣は何も答えなかった。
いったいどれだけの間そうしていたのか、気がつけば、空には淡い光が姿を見せ始めていた。
街に朝が訪れる。
街が復活の兆しを見せ始める。
しかし、闇の運命を背負わされた二人の兄妹を包む闇は晴れることはない。
いったい誰が、この二人の闇を払うというのか。
(3)
空白のような朝が訪れた。
街を包み込む暖かな光は本来なら人に希望をもたらすもののはずだった。
しかし、テーブルについて朝食をただ口に運んでいるだけの兄妹にはその光が届くことはない。
「・・・・・。」
「・・・・・。」
静かな朝だった。
「学校・・・行かなくちゃ・・・。」
美雪は時計を見ると弱々しく立ち上がった。
「ああ・・・そうだな。」
御剣も彼女に目を合わせないように時計をみた。いつもならそろそろ家を出ようかという時間だったが、彼の腰は鉛でもくくりつけられたかのように重い。
「・・・お兄ちゃんは・・・。」
「先に行ってろ。後から追いつく・・・・。」
御剣は美雪の視線を遮るように新聞を広げた。活字を目で追うが、その内容が頭の中に入ってくることはない。
「うん・・・分かった・・・。それじゃ・・・行ってきます・・・。」
美雪は泣きそうな目で御剣を見つめ、弱々しい歩調で玄関に向かった。
・・・・・・
美雪が家を出てすでに20分。
御剣は今だ重い腰を上げようとしない。
学校に行く気にもなれない。
「・・・・病院に行くか・・・・。」
御剣はふと、鈴音の顔を思い浮かべた。やはり、鈴音のあの笑顔は御剣を安心させる。気がつけば鈴音と同学年になっていたが、御剣はそんなことを気にしたことはなかった。
御剣はようやく重い腰を椅子から引っぺがすと、通学用の鞄をつかむと家を出た。
しっかりと戸締まりをしたことを確認すると、学校とは別の道、聖イスラフェル学園付属病院へとつながる道を歩き出した。
・・・・鈴音を守りたい・・・だけど・・・鈴音を守ると言うことは、悪夢である美雪を殺すと言うことだ・・・。美雪を殺したくない・・・だけど、鈴音には生きていてほしい。
「・・・俺は、いったいどうしたらいいだろうな。」
彼は足下を見下ろすが、そこにはいつもいる黒猫、ミカエルの姿はない。
彼は、重い足取りでただ道を歩いていた。
※
鈴音はやはり驚いた顔で御剣を迎えた。
「どうしたの?こんな時間に?」
と彼女に聞かれたが、御剣は何も言わずに、ただ、
「お前に会いたかったから。」
とだけ伝えた。
鈴音はうれしいような、少し困ったような表情を浮かべるととりあえず御剣を招き入れた。
「それにしてもびっくりしたよ。」
「身体の方は大丈夫か?」
「うん。ごめんね。心配かけて。」
「いいさ。鈴音のことだからな。」
「もう・・・。どうしてそんなこというの?恥ずかしいよ。」
「すまん・・・。」
二人は本当にとりとめのない話をしていた。鈴音の背後にはまだ死の気配は漂っていない。しかし・・・。
・・・・今はこうしていられるけど、近いうちに美雪が・・悪夢が鈴音の命を奪いにくるんだ・・・。
それを考えると御剣はいたたまれなくなる。いっそのこと鈴音を奪ってどこか遠いところに逃げたい衝動にも駆られた。
しかし、悪夢にはそんなことをしても無駄だろう。
たとえ、一時の死の運命から逃れられたとしても必ず決着をつけなければならないときがくる。
鈴音か、美雪か・・・。
それはどうしようもない二律背反だった。
「なあ、鈴音?一つ聞いてもいいか?」
突然、御剣は切り出した。
「うん?なに?」
お見舞いの品のリンゴを切っていた鈴音は不意に御剣の方を向いた。
「もしも・・・もしもだよ。もしも、自分にとって大切な人が死ぬとする・・・だけど生き残る方法もある。だけど、それをすればもう一人の大切な人が死んでしまう。そんなとき、鈴音はどうする?」
理不尽な質問だと言うことは理解していた。こんなことに答えなどあるはずもない。しかし、御剣はどうしてもその答えを出さなければならない。
だから、御剣はここに来た。
おそらく、ほとんど時間は残されていないだろう。運命の時間はその足音が聞こえるほどに彼らに迫っているのだ。
「・・・・難しいね・・・。大切な人が死んじゃう・・・だけど生きることもできる・・、けど、そのためにはもう一人の大切な人が死んじゃう。分からないな・・・難しいよね・・・。」
鈴音は御剣の口調に鬼気迫るものを感じたのか、本当に真剣に頭をひねった。
「すまん・・・そんなこと。答えられるはずないよな・・・馬鹿なこと聞いた・・・忘れてくれ。」
御剣はうなだれるようにそう言葉をつないだ。
「ううん。そんなことないよ・・・。あ、だけど・・私なら・・・。考えるかな?」
鈴音はふとそんなことを言った。
「考える?何を?」
御剣は面を上げた、鈴音は穏やかな笑みで御剣をみていた。
「その二人が一緒に助かる方法・・・きっと、あると思うから・・・。だから、考える。大切な人がいなくなるなんて・・・いやだもんね・・・。」
御剣は目を見開いた。
「二人とも助かる方法・・・か・・・。」
御剣はその言葉をかみしめるように呟いた。
「ごめんね、そんなの答えになってないよね。」
「いや。そんなことない。そうだな。二人とも助かる方法を探せばいいんだよな。そんな簡単な答えに気がつかないなんて。」
「参考になればいいんだけど。」
「ああ、ありがとう。これで、俺も救われたような気がするよ。」
鈴音は最高の笑顔を浮かべていた。
「がんばってね。何をがんばるのかは分からないけど・・・。だけど、がんばって。御剣君なら、きっとできるはずだよ。」
「鈴音・・・。」
御剣は急に鈴音のことが愛おしくなった。いや、その感情はいつも抱いていたことだ。だが、今の御剣は心の底から鈴音に感謝していた。
「ん・・・。」
御剣は鈴音を抱き寄せた。鈴音は抵抗のそぶりも見せず、自然に目を閉じた。
重なり合う唇どうし。
「・・・御剣くん・・・ありがとう・・・。」
恍惚とした瞳で鈴音は御剣を見つめた。御剣も何も言わずに鈴音を抱きしめた。今は、お互いのぬくもりを感じ取っていたい。
二人は、一つとなった・・・・。
※
そういえば、鈴音と初めてであったのはいつの頃だったか。
先ほどまでの病院での出来事に赤面しながら御剣は家路についていた。
「・・・・あ、そっか。学園祭の時だったか。」
それは、彼が一年生だった頃の学園祭。鈴音は、当然2年生だった。御剣は美雪、優紀、そして塔矢とともに学園祭を楽しんでいた。
御剣がふと、3人と別れ別行動していたときだったか。あのときは夕日がきれいだった。
皆、クラスの方の仕事に回っていて誰もいなかった。
御剣は屋上に上がっていた。そこなら夕日がよく見えることを知っていたからだ。
普段なら誰もいない屋上。閑散としているが静かで落ち着いた雰囲気がとても好きだった。
「あのときは、本当に驚いたよな。」
御剣は苦笑を浮かべる。
屋上には先客がいた。夕日に目を向け、どこをみているのか分からないような瞳の女性。上級生のようだったが、その姿は今にも夕日の中にとけ込んでいくかのようなはかなさを醸し出していた。
それが鈴音だった。御剣は無意識のうちに彼女に話しかけていた。しかし、返事はなかった。
よく見ると彼女の身体が揺れている。危ない、今にもその身体は屋上のフェンスから下に落ちていきそうだった。
「あのときからかな・・・。昼休みになると屋上に足を運ぶようになったっけ。」
そして、そこには常に鈴音がいた。
一緒に食事をとるときの微妙な空気。穏やかでそれでいてどこかもの悲しい。その当時の鈴音はそんな雰囲気のする女性だった。
そして、ある日聞かされたのだ。自分はほとんど学校に来ていないと言うことを。あと一週間もすれば病院に戻らなければならないと。
それから一週間。誰もいない屋上で彼は一人寂しく食事をとっていた。
話はそれだけでは終わらなかった。
ひょんなことから鈴音の教室を発見した彼は、彼女のクラスメイトからいろいろなことを聞いた。そして、彼は彼女の病院に足を運んだ。
始めてきたときは本当に面食らった顔をしていた。
とりとめのない話、鈴音がすごい読書家であることを知ってからは何か一冊本を持参するようにもなった。
そのたびに鈴音は朗らかな笑みを浮かべていたっけ。その笑みをみて、御剣は自分の気持ちに初めて気がついた。
なぜ、昼休みになると彼女の下に足を運んでいたのか、彼女がいなくなった後でも決まって屋上に足を運んでいたこと、彼女の喜ぶ顔が見たくて本を持って行ったこと。
御剣は鈴音にどうしようもなく惹かれていたのだった。
それから、どちらが先に告白したのかは二人とも覚えていない。
彼らは本当に自然に恋人同士になっていた。
「・・・・・幸せだったよな。これからも、ずっと幸せでいような・・・。」
御剣は南の空高くに上り詰めた太陽を仰ぎ見た。
そう、彼の決意は決まっていた。誰も死なせない。誰かが死ぬことでしか未来が勝ち取れないなら。そんな未来なんて俺はいらない。
御剣の心は今の空のように晴れ渡っていた。
「鈴音に感謝だな。だけど・・・どうすればいいんだ・・・。」
御剣はいつの間にか家の前にまで来ていた。
御剣はとりあえず家の中にはいることにした。まだ学校が終わる時間ではない、美雪はまだ学校にいるだろう。できれば、御剣は早く美雪にこの気持ちを伝えたい。そして、美雪とともに誰もが助かる方法を探したかった。
絶望することはいくらでもできる、だが、たとえ深い絶望の中に身を落としたとしても、そこからはい上がるだけの意志を持っていれば、人はいくらでも先に進むことはできるのだ。
「御剣・・・えらく早かったわね。」
家にはいるとリビングでテレビを見ていた美沙が、驚いたまなざしで彼を見た。
「ああ。そうだな・・・。なあ、お袋。少し、時間いいか?話しておきたいことがあるんだ。」
これから起こること、今までのこと。そのすべてを話しておきたかった。
「ええ。聞くわ・・。」
御剣の真剣なまなざしをみて、美沙も神妙な面持ちでテレビの電源を落とすとリモコンをテーブルの上に置いた。
御剣は制服のまま椅子に座ると足下に鞄を置いた。
美沙はコーヒーを二つ用意して彼の前に置き、自分もそれを口に含んだ。しばらくの沈黙。
それを破ったのは御剣だった。
「俺と美雪はお袋に一つ、隠し事をしていたんだ。どうしても言い出せなかった。」
「・・・・。」
美沙はカップをおいて彼の目をじっと見つめた。
「なんと言えばいいのかな・・・。こんなこと、普通信じろ言うのが無理だろうけど。・・・なあ。お袋。」
「なに?」
「死神って何をするものだと思う?」
「死神?人に死を与える・・・あれのこと?」
「そう。本当のところは少し違うんだ。死を与えるのは死神の役目じゃない。死神の本当の役割というのは・・・。」
「待て、それは私の口から言わせてもらおう。」
突然テーブルの下から声がした。この声は、御剣はテーブルの下をのぞき込んだ。
「ミカエル。お前、こんなところにいたのか?」
ミカエルは軽い足取りでテーブルの上に飛び乗った。
「今のは・・・誰?テーブルの下から聞こえたような気がしたんだけど。」
美沙はテーブルの下をのぞき込んでいる。
「それは私です。美沙殿・・・。」
ミカエルは美沙の正面に座り込んだ。
「まさか・・・ミカエルちゃん?」
美沙は目を見開いた。目の前で起こっていることが信じられない。ネコが人の言葉をしゃべっているのだから。
「ええ。私です。話を戻しますと、死神の使命というものは厳密には、人に死を与えることではないのです。人の死はあらかじめ決められているもの。それを死神風情がいたずらに手を加えることはできないのです。」
「・・・・。」
美沙は何も答えられない。ミカエルは続けた。
「死神の使命とは、死に行く者の肉体から魂を刈り取り、死の運命から生きるべき者を守ることなのです。」
「・・・・それが・・・死神・・・。」
「そのとおりです。そして、死神は一つの街に二人として存在しない。この街の死神とは・・・・もう、お気づきではありませんか?」
美沙は、はっとして御剣をみた。御剣は何も言わず静かにうなずく。
「まさか・・・御剣が・・・。」
美沙は脱力するように椅子にもたれかけた。
「そして、その死神と対をなす者が存在します。生きるべき者に死の運命を与え、死に行く者の魂を押しとどめる。そうして、魂の流れに混乱を招く者。それが、悪夢。死神にとって永遠の敵です。そして、その悪夢が・・・。」
「美雪なんだ・・・。」
御剣はミカエルの言葉を遮っていった。これは、自分の口から言わなければならなかった。自分自身、それを認めるためにも。そして、これからしようとしていることに対する決意の意味も込めて。
「そんな・・・・まさか・・・そんなことが・・・。」
美沙はうなだれるように頭を抱えた。
「以前、俺が、親父が死んだのは俺のせいだって言っていたよな。・・・親父の魂を天に返したのは俺だったんだ・・・。」
この言葉を、御剣はどれだけ彼女に伝えたかったことだろうか。しかし、できなかった。言ってしまえばきっと母親は自分を許さないだろう。愛想を尽かされるか、一生恨まれることになるかそのどちらでも彼は怖かった。
「そうなの・・・そういうこと・・・。」
「俺を許してくれとは言わないよ。恨んでくれてもいい。だけど・・・仕方がなかったんだってことを分かってほしい・・・。調子のいい話だけど。」
美沙は、頭を振ると面を上げて御剣の顔をまっすぐに見つめた。
「いいえ。そんなことない。あの人も言ってたから。」
そして美沙は語り出した。
「知ってる?いえ、知ってるはずないわよね。あの人は死ぬ二日前にこんなことを言っていたのよ。」
「??」
御剣は首をかしげた。彼の父親が死ぬ二日前。良くは覚えていない。
「覚えている?あなたと美雪はその2週間前、大きな交通事故にあってたのよ。」
「・・・・そうだったっけ?」
ずいぶん昔のことだ。いや、昔といっても10年やそこらのことだからさほど昔でもないのかもしれない。だが・・・、彼は思い出した。自分が死神としての使命を背負い始めたのはそのころからじゃなかったか。
「あ、そうか・・・。俺が親父に・・・。」
彼は思い出した。それは、御剣にとって初めての死神としての使命をまっとうしたとき。自分自身の父親に死ぬことを伝えたときだった。
「ひどい交通事故だったわ。本当に・・・ひょっとしたらあの人が言ってしまう前にあなた達が死んでしまうんじゃないかってさえ思った。医者でさえさじを投げてしまった。だけど・・・。」
美沙は遠い目をしていた。その時の思いが今心の中に蘇っているのだろう。その瞳はとても複雑な色をしていた。
「あなた達は助かった。驚異的な速度で傷が癒えていった。本当に驚いた。これが奇跡というものなのかと思うほど。」
「そうか・・・。それは、俺と美雪が死神と悪夢の運命に魅入られたときだったんだ。」
御剣は気がついた。死神になった後、彼はけがをしてもすぐに回復する身体になってしまっていたことを。
死神によって助けられ、死神を心に宿したとき、御剣は死とは無縁の存在になってしまっていたのだ。
「だからわずか2週間で退院することができた。」
「そうだったんだ・・・。それで、親父はなんて?」
「うん・・・。」
美沙は目を閉じた。そして、小さく一つ深呼吸をすると口を開く。御剣はそのすべてをただ見守っていた。
「あの人は言っていたわ。『俺が死んでも、御剣のことを許してやってくれ。あいつはまだ背負い切れていないから・・・。』って。夢うつつの声をしていたから何か悪い夢でも見たんじゃないかって思ってたんだけど・・・。」
御剣は驚いた。
本来、死神によって死を告げられた者はそのことを覚えていることはない。なぜなら、御剣は死神の力によってその記憶を消しているのだから。
ただ、魂に理解させるだけでいい。魂が、自分は肉体から出て行くときが来たのだということに気づかせる。それが、死を告げるということなのだ。
「まさか・・・そんなことが・・・。」
ミカエルは黙って机の上に座っていた。
「ええ。だから、私はあなたを恨んだりしない。それに、あの人も恨んでなんかいなかった。あなたは間違ったことをしているんじゃない。ただ・・・・私達ではあなたのその運命から解き放つことができないということが歯がゆいのよ・・・。」
「いや、もう、受け入れたことだからね。だけど、美雪は違う。悪夢は魂の流れに混乱をもたらすもの。だから、悪夢は間違ったことをしていることになる。だけど、美雪はそれを理解していて、それでもやめられないんだ。本当に救われなければならないのは美雪なんだ。そして・・・。」
御剣は言葉を切った。美沙は、小首をかしげる、
「そして?」
「美雪・・・・いや、悪夢が次にねらっているのは・・・鈴音なんだ。」
美沙は息を呑んだ。鈴音と御剣の関係はすでに公認となっている。鈴音はいい子だということを知っている美沙は、その二人をいつも祝福していた。御剣のかたくなさをいやしてくれる人。それが鈴音だった。
普段あまり家にいられない美沙にとって鈴音は感謝してもしきれないほどの恩人みたいなものだ。
「鈴音ちゃんが・・・・?」
「うん。美雪がそういっていた。」
「だけど・・・あなたが死神として悪夢を退かせたら鈴音ちゃんは助かるんでしょう?」
御剣は首を縦に振った。美沙の表情に一瞬安堵の笑みが浮かぶが、
「だけど・・・悪夢を撃退するということは、美雪を殺すっていうことなんだ。」
「どうして?何も殺すことはないじゃない。」
その笑みもまた姿を消した。
「たとえ今回撃退できたとしても、また襲ってくる。たぶん、美雪はそれを何とか食い止めようとするだろうけど、自分の命の楔になっている意志に抵抗すれば、美雪の心は徐々に壊れていくんだ。これは、最近知ったことだけど。だから、いずれは美雪の心は死んでしまう。そうすれば、完全な悪夢になってしまうんだ。美雪はもう、死んでいるんだ、あのときの事故で。今生きているのは、悪夢によって生かされているだけ。悪夢によって死ねなかった人間は、悪夢に心を壊されて自分が悪夢になるしかないんだ。」
御剣は一気にいった。
「そして、そんな悪夢を滅ぼせるのは、死神だけ。」
「どうにもならないの?」
「分からない・・・でも。俺は助けたい・・・鈴音も美雪も。どっちかなんて選べない。どっちを選んでもきっと後悔する。人の命は天秤にかけられないから。」
それが鈴音とともに出した答えだった。方法はまだ見つかっていない。いや、そんな方法がある補償すらない。
それは、彼も重々理解していることだった。
しかし、彼の意志は変わらなかった。
ミカエルはじっとしていた。まるで、本当のネコに戻ったかのような無表情なままで。
「そう。・・・分かったわ・・・。私にはもうどうすることもできないけど・・・。がんばって。こんな言葉しか送れないけど・・・。あなたなりにがんばりなさい。」
御剣は強くうなずいた。
「さて。おなか空いているでしょう?そろそろお昼にしましょう。」
美沙は、いつもの表情に戻ると席を立った。ミカエルはテーブルから飛び降りるとリビングから出て行こうとする。
「どうしたんだ?ミカエル。飯食わないのか?」
ミカエルは振り向かずに、
「私は本来食事など必要としない。お前もそうだ。だから、今はいらぬ。」
そういうと御剣が制止する暇もないほど素早くリビングを出て、二階へと昇っていった。
「変な奴・・・。」
御剣は知らなかった。ミカエルが今何を考えているかということを。そして、御剣は改めて気がついた。自分は、ミカエルについて何も知らないことを。
いつも彼は自分のそばにいてくれた。もし、彼がいきなりいなくなることがあれば・・・。
彼の脳裏に不安がよぎる。
「・・・・ミカエル・・・。お前はいったい・・・。」
台所からは野菜を炒める軽快な音が響いてきた。
※
美雪は急に襲ってきた吐き気に口を押さえた。
教室には穏やかな光が差し込んできていて、にわかに微睡みの気配が漂っていたところだった。
「な・・・に?」
腹の中で何かがうごめくような、それが次第に身体全体を蹂躙するかのように駆け回ってゆく。
「どうしたの?美雪?」
隣で口を押さえて辛そうにしている彼女を見かねて、譲葉が声をかけてきた。
「だ・い・じょう・・ぶ・・・。」
とてもそうは思えない。周りの者もそんな彼女に気がつき、次第にクラスはざわめき始めた。
いつも元気な笑みを浮かべクラスのムードメーカーだった彼女がここ数日ずっと元気がなかった。そんなせいで、ここ最近は教室も沈みがちだった。皆、彼女のことを心配していたのだ。
彼女に手をさしのべるのは譲葉だけではない。美雪は皆に愛されている。ただ、彼女がそれに気がつかないだけ・・・。
「先生!」
譲葉の前の席に座っていた女子生徒は見かねたように手を挙げ、教師を呼んだ。
教師はチョークを動かす手を止め、振り向いた。
「どうした?」
「えっと、美雪が・・・。」
彼女は困惑した目で美雪を見た。その視線を追い、教師もそっちに目を向ける。
「そうか・・・。今日の日直は誰だ?」
その教師がそういうと、今度は教室の反対側にいた男子生徒が間を開けずに手を挙げた。
「皇磨を保健室に連れて行ってやれ。」
「はい。分かりました。」
彼は立ち上がると素早く美雪のそばに歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。
「美雪をお願いね・・・。」
譲葉の不安そうなまなざしを受けて、彼はしっかりとうなずくと、
「ああ。まかせとけって。」
彼はそういうと、素早く彼女を起こすと教室を出て行った。
クラスメイト全員はそんな彼らに不安げな視線を送っていた。
「ごめんね・・・。」
美雪はふらつく足を何とか踏みしめながらそう呟いた。
「気にすんな。」
彼はそう一言だけ言うと、保健室のドアを開けた。いつの間にかついていたようだ。
「失礼します。」
彼の声を聞きつけ、担当医が駆け寄ってきた。
「あら。皇磨さん?珍しいわね。」
鈴音や優紀が良くここに運び込まれていたので、それを見舞ううちに御剣も美雪もこの担当医とは顔見知りになってしまっていたのだ。
その当時はいつも見舞いに来ていた彼女がこうして運び込まれてきていることに担当医の教師は奇妙な感覚を抱きつつも彼らを招き入れ、美雪を空いたベッドに横にさせた。
「それでは。よろしくお願いします。」
美雪を運んできた男子生徒はそう一礼するとさっさと保健室を出て行こうとする、
「あ、大変だったでしょう?少し休んでいってもいいわよ。」
「いえ。保健室は少し性に合わないもので。」
彼はにこっと笑うとそのままドアを閉め、教室へと帰っていってしまった。
「すみません・・・。」
シーツから顔をのぞかせ、美雪は一言呟いた。
「お兄さん、今日はお休みなのよね。できれば来てほしいんだけど・・・。」
「え?お兄ちゃん。今日は休みなんですか?」
「ええ。そうよ。知らなかったの?」
美雪は首を縦に振る。
「そう・・・。」
彼女はなんとフォローするべきか分からず、そう曖昧に答えるしかできなかった。
「少し待っててね。家の方にも連絡してくるから。」
彼女はそう言い残すと保健室から出て行った。
沈みかえる部屋。美雪は理不尽なやるせなさに心がつぶされるようだった。
「お兄ちゃん・・・。どうしたんだろう?後で追いかけるっていってたのに・・・。私・・・嫌われちゃったのかな?私・・・もうだめなのかな?」
ふと、美雪は自分の頬に手を置いた。そこは、いつの間にか熱い涙で濡れていた。
「・・・ヒック・・・。お兄ちゃん・・・寂しいよ・・・。そばにいてよ・・・ねえ・・・。お兄ちゃん・・・。う・・・うう・・・。」
思えば美雪はいつも笑っていた。
笑っていなければならないと、彼女はいつも自分に言い聞かせていた。そうしないと自分自身の心からわき出る感情を抑えることができないから。
御剣が鈴音とつきあうことを知って、まるで自分の兄が鈴音にとられてしまったような喪失感を味わったこともあった。
しかし、鈴音は美雪の大切な友達でもあった。だから、彼女は笑顔で彼らを祝福したのだ。
『鈴音お姉ちゃんだったらお兄ちゃんを任せられる。』
ただそう信じて。
そうして、笑顔で鈴音と接していくにつれ、やがて心の中にあった喪失感はその姿を消していた。
だから、笑っていなければならない。笑顔になっていれば、心にわだかまりがたまることもない。
自分が悪夢として許されないことをしている現実からも目をそらすこともできる。
彼女の笑顔は見る者を救ってきた。彼女の笑顔を見れば自分ももう少しがんばってみようと思える、いつか譲葉がそんなことをいっていた。だが、そんな彼女の笑顔は彼女自身を救うことはなかった。
彼女の嗚咽は静かに部屋を満たしていった。
彼女は一瞬だけ思った。
『鈴音お姉ちゃんがいなくなっちゃえば、美雪はこんなに苦しまなくてすむかもしれない・・・。』
と、しかし、そんなことを考える自分自身が許せなかった。
彼女は自分自身を消してしまいたかった。最初から自分さえいなければ、誰も苦しむことはない。
美雪は深い深い螺旋に落ち込んでいった・・・・。
※
美雪は玄関の前に立ちつくしていた。
「いつも通り、笑顔じゃないとだめ。そうじゃないと、きっとお兄ちゃんを心配させる。大丈夫、覚悟は決めたから・・・。」
彼女は深く息を吸い込み、そしてはき出した。
「よし・・・。」
彼女は無理矢理頬をゆるませ、家のドアを開けた。
「ただいまー。おなか空いちゃった。」
リビングからは誰も出てこない。
「ただいまー。誰もいないの?」
靴を下駄箱に入れると美雪はリビングのドアを開けた。
「お帰り。」
そこにいたのは、母親の美沙と兄の御剣だった。
「どうしたの?変な顔して。何かあったの?」
美雪はその原因はたぶん自分にあることを自覚しながらも何もなかったかのように言葉を続けた。
「保健室に担ぎ込まれたって聞いたけど。大丈夫なの?」
美沙は心配そうな面持ちで彼女に歩み寄った。
・・・・あ、そうか家に連絡するって逝ってたもんね。
美雪は自分の考えの浅さに少しばかり後悔すると、
「うん。大丈夫。ちょっと気分が悪くなっただけ。すぐによくなったよ。元気だけが私の取り柄だしね。」
彼女は空元気を振りまいた。その表情はどこか痛々しい。
「なあ。美雪・・・。」
それまで黙っていた御剣が唐突に話し出した。
「うん?なに?」
御剣は椅子から腰を上げ、美雪のそばに、美沙の隣に立ち、彼女をまっすぐ見下ろした。
「俺は決めたよ。鈴音を守ろうって。」
「・・・!」
美雪は心臓を鷲掴みにされた思いだった。
「そう・・・なんだ・・・。そうだよね・・・よかった・・・。別にいいよ。お兄ちゃんだったら。それに、美雪なんかより鈴音お姉ちゃんのほうが・・・・。お兄ちゃんにとって大切な人なんだもんね。」
美雪は息苦しかった。いっそのこと自分の心臓もろともすべてを押しつぶしてくれた方が楽になれるかもしれない。そんな考えが浮かぶほど。
「もちろん、美雪もだ。」
「え?」
美雪は惚けたように彼を見上げた。彼の目はまっすぐと彼女の瞳を捕らえている。彼の黒い瞳は確かに彼女を映し出していた。
「鈴音かお前かなんて・・・・。どっちかを選べっていわれて・・・。そんなことできるわけないだろう!俺にとっては、お前も鈴音も大切な人なんだ。だから、俺は鈴音を助ける、そしてお前も助けてみせる。必ずだ・・・。だから、美雪・・・。協力しろ。きっと方法があるはずだ。」
美雪の目にみるみる涙があふれてくる、それは悲しみの涙ではない。
人は悲しいとき以外にも涙を流すこともあったのだと美雪は初めて知った。。
「お兄ちゃん・・・。ありがとう・・・!ありがとう・・・お兄ちゃん。美雪、怖かったの。もしも、お兄ちゃんが鈴音お姉ちゃんを選んで、美雪を消しちゃうことがあったらどうしよって。だったら鈴音お姉ちゃんが消えちゃえばいいんだって。そんなこと思って。でもそんなこと思う自分が許せなくて・・・。怖くて・・・。私・・・。」
彼女は顔をくしゃくしゃにしてうつむいた。涙を見せたくない。それ以前に彼の顔を凝視できない。
御剣は美雪の肩をつかんだ。
「バカ・・・。俺がそんなことするわけないだろう?それにさ・・・。そういう自分を怖いとか許せないって思えるって事は、お前は悪夢じゃない、人間だって事じゃないのか?」
美雪は驚いて彼を見上げる、
「私・・・人間なの?」
「当たり前だろう?それ以外に何があるんだよ。それに、俺の妹だ。」
美沙は二人を優しく包み込み、抱きしめた。
「あなたもね・・・。あなたは死神であるかもしれないけど。あなたも一人の人間です・・・。わたしの自慢の息子です。あなたもよ、美雪。死神だか悪夢だかなんだか知らないけど。そんな者たちにあなた達の未来を渡したりするものですか。」
二人は母親の胸の鼓動を聞いていた。暖かい。人の体温はとても暖かいものだと二人は思った。
そして、二人は思った。
これが本当の家族というものなのだ・・・。
美雪の身体から力が抜けた。
「美雪?」
御剣があわてて彼女の身体を支えようとするが、彼女はトスンという音をたてて床に崩れおちる。
「美雪!おい、しっかりしろ・・・。」
美雪はまるで死んだように眠っていた。
「御剣。美雪は部屋に運んで!早く!」
美沙の素早い指示に従い、御剣は彼女を抱きかかえるとそのまま二階の彼女の部屋に向かっていった。
終わりの時はやってきた・・・・。
※
『御剣・・・すまなかった。俺は気づいてやれなかったのだな。お前が過酷な運命を背負わされていることに・・・。だがな、それでお前が罪悪感を感じることはないんだ。大丈夫だ。みんな許してくれるよ。俺もお前を責めたりはしない。確かに俺だって死にたくはないさ。だが、最後にお前に会えただけ俺は幸せだったかもしれないな・・・。俺は、お前という息子を持って、美雪という娘を持って、美沙という妻を持って、本当に幸せだった。だから、お前が思い悩むことない。俺は、お前に感謝するよ・・・ありがとう・・・。二人によろしくな・・・。俺は、穏やかに死ぬことができたって伝えておいてくれよ。それじゃあな・・・。』
※
御剣は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしく、美雪の部屋は闇に沈み込んでいた。
草木も眠る深夜の静寂を肌に感じながら彼は周りを見回した。
いつのまにやら美雪の布団はもぬけの殻だった。玄関のドアが開いた形跡はなく、彼女の靴もそのままだった。
「行くのか?」
暗がりからミカエルが声をかける。
「ああ。時間みたいだ。だけど・・・どうすれば二人とも助けることができるんだ?」
決意できた。そして、それを伝えることもできた。
だが、問題は一つだけ残されていた。二人が助かるための方法。それが分かればすべてうまくいく。
「お前自身に覚悟はあるのか?」
ミカエルは神妙な声で彼に問いを投げた。
「俺に?覚悟だって?」
月の光の差し込まない廊下でミカエルは静かにうなずいた。
「そう。お前は自分自身がこの世界から消えることとなっても二人を助けようとする意志を持っているか?ということだ。」
御剣は一瞬だけ考えた。そして、答えはすぐに出てきた。最初から答えは自分の中で用意されていた。
「それで、本当に二人が助かるのだったら。俺はいくらでも覚悟してやる。」
「そうか・・・。」
ミカエルは沈黙し、床に視線を落とす。
「何か・・方法があるのか?美雪の中から悪夢を追い出す方法があるのか?」
御剣はミカエルを抱き上げた。
「ないことはない。少し強引な方法だ。美雪の中の悪夢を一度滅ぼし、肉体が消えてしまうまでに新たな人間の魂をそのうちに注ぎ込めばいい。」
「そんなことができるのか?」
「私なら可能だ。そもそも、私は人の魂から作られた存在なのだからな。」
「・・・・どういうことだ?」
「そう・・・。」
ミカエルは語り出した。それは、彼が今まで隠し通してきたことのすべて。この世界にミカエルという一つの存在が生まれたときのことだった。
「私の魂は何を隠そう、そなたの魂なのだ。」
「俺の魂?」
御剣は耳を疑った。どういうことだ。
「そなたが死神に魅入られた理由の一つは、力尽きかけた死神がその時、たまたま自分を受け入れられる肉体を見つけたから。そして、もう一つは死ぬべきではない者が死の運命にさらされていたことにある。死神はそんな人間を助けなければならない。それは分かるな?」
御剣はうなずいた。それこそが死神の存在理由なのだ。
「だが、ひとたび肉体から別離した魂を再び肉体に戻すことはあの状態では無理だった。死神の力が足りなかったのだ。だから、死神は自分自身をそなたの魂の変わりとしてお前の中に宿った。だったら、抜け出た魂はどうなったか。」
「・・・・・。」
御剣はただ聞いていた。
「そなたの中に入る前に死神は最後の力を振り絞りその魂に形を与えた。それは一つの黒いネコへと変貌したのだ。」
「それが・・・お前・・・。」
ミカエルはうなずく。
「私はお前の魂。お前の中から抜け落ちた魂なのだ。そして、お前が今のお前でい続けられる最後の砦なのだ。」
「どういうことだ?」
「そなたは、なぜ人間として生活できる?」
「え?それは・・・俺が完全な死神ではないから・・・お前がいったことだぜ。」
「そう。それもある・・だが、真実は私が存在したからだ。私がいたからそなたはまだ不完全な死神でいることができた。まだ、人としての心を失うことはなかったのだ。」
「そうだったのか・・・。それで、美雪を救う方法というのは?」
「一度美雪の中にいる悪夢を滅ぼし、空となった肉体の中で私が本来の姿・・すなわち人間の魂に戻ること。この魂は元々人間のもだったため、長い時間を要するが肉体になじむことができるだろう、ただ、下手をすれば十数年の眠りにつくことにもなるが。」
「できるんだな?十数年の眠りについたとしても、人間として目覚めることができるんだな?」
「ああ。だが、その代わり、そなたは完全な死神になってしまう。人としての心は消え去り、永遠に闇に生きる存在となるのだ。それは、実質上死ぬことと同じ。それでも・・・いいのか?」
「美雪が・・・人間として生活できた理由は・・・?」
「それは分からん。もしかすると悪夢が人間として苦しむ美雪を見るためかもしれん。その憤りを自らの力にするために・・・。」
「・・・最悪だな・・・・。それで・・・美雪は助かるんだな?鈴音も助かるんだな?」
「ああ。私が保証する。」
ミカエルと御剣はしばらくのあいだ見つめ合った。
「お前が美雪の魂になった瞬間に俺は完全な死神になってしまうのか?」
「すぐとはいわない。だが、長くて五年後には、そなたは完全な死神になってしまうだろう・・・。」
「五年か・・・。美雪とはもうあえなくなってしまうと言うことか・・・。だけど・・・。まあ、十分だな・・・。」
ミカエルはいぶかしげに御剣を見た。
「五年でできることもたくさんあるだろうよ。それに、今それしかないってんなら。そうするしかねえだろう。」
御剣はミカエルを抱き上げた。その瞳には彼の姿がしっかりと映っている。
「分かった。とにかく俺は美雪の中にいる悪夢を滅ぼすだけでいいんだな?後はお前がやってくれるんだな?」
ミカエルは強くうなずいた。
「ああ。その後は任せておくがいい!」
「よし!決まった。だったら行こう。美雪が待ちくたびれてるだろうよ。あいつは、結構短気だからな。」
その笑みはとても今の状況にはふさわしくないものだったのだろう。しかし、それは御剣の決意の表れだった。
「ああ。そうだな。これで終わりにしよう。」
「終わりじゃねえぜ、ミカエル。俺たちはこれから始まるんだ。お前も美雪に姿を変えてな。」
「そうだったな。そなたのいうとおりだ。」
御剣は自分の感覚を闇に這わせた。死神になる瞬間、世界中の闇が自分を包み込む感覚がするが、このときはその闇でさえ自分の行く末を祝福してくれているような気がしてならなかった。
彼の頬からは自然と笑みが浮かび上がる。
「行くぞ。ミカエル!」
御剣は自分の肩にミカエルを乗せた。そして、彼らは再び夜の街に身を躍らせる。
永遠にくることのない夜明け、そんな夜を壊すために・・・・。
光のあふれる世界を取り戻すために・・・・!
階段の下には二人の話を始終耳にしていた影があった。
それは、憂いのため息をはくと階段を下り、庭に出た。
月の光はその硬い表情を鮮明に映し出した。それは、美沙だった。
「御剣・・・美雪・・・。あなた達は幸せだったのかしら・・・。・・・ねえ、あなた?あの子達は本当にいい子よね。私、間違ってないよね。あの子達を産んで本当によかったわよね。でも・・・なぜ、あの子達だけがこんなに過酷な運命を背負わなければならないの・・・!死神が・・・悪夢がなんだっていうの!!私は、私は・・・。なぜ、私は何もできないのよ!あの子達は、あの子達はあんなに苦しんできたじゃない・・・。どうして!?どうしてなのよう・・・?」
美沙は崩れるように泣き出した。月は何も答えない。夜の闇は彼女を優しく包み込む、やがてくる夜明けを夢見ながら、街は闇に沈んでゆく。
もう・・・後戻りはできない・・・・。
(4)
「待ってたよ・・お兄ちゃん。」
病院の中庭。闇に包まれた世界に美雪はたたずんでいた。
「俺を兄と呼ぶな。」
御剣はうなるように言葉を漏らす。彼はわかっていた、彼の前に立っているのは彼の妹の美雪ではない、彼の前の立っているのは薄汚れた運命を彼女に強制している存在、悪夢だということを。
「何で?お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょう?私を殺しにきたんだよね?」
悪夢は薄い笑みを浮かべた。
「俺はおまえを殺しにきたんだ。美雪を殺しにきたんじゃない!」
「無理だよ・・・。あなたには分かっているんでしょう?美雪はすでにこの世にはいてはならない存在だって。美雪はすでに死んでいるんだって。私を殺すということは、そんな美雪を殺すことと同じ意味なんだよ?」
「ふん。そんなことは分かっているさ。だがな、こちらに勝算がないわけではないんだよ。なあ?美雪?そうだろう?おまえはきっと元に戻れる。だから協力するって言ったよな。」
悪夢はいぶかしげな表情を浮かべた。
「何を言っているの?もう美雪はこの世界にはいないんだよ?私が取り込んじゃった。」
「いや、俺には分かる。美雪はそこにいる・・・。美雪・・・。おまえはこのままでいいのか?このまま悪夢の言いなりになっておまえは満足か?すべてを諦められるっていうのか?どうなんだ?答えろよ!そんなはずないよな!?」
悪夢は眉をひそめた。そのこめかみには薄い筋が立っていた。
「何を言ったって無駄・・・。あなたも分かっているでしょう?遅すぎたんだよ。美雪は消えてしまったのだから・・・・・。え?」
突然、悪夢は口を抑えた。何かがこみ上げてくる。
「なに?これ?いったい・・・。気持ち悪い・・・。」
悪夢は膝を折った。
「どうしたっていうの?私の体が・・・言うことを聞かない・・・。誰?私の体を押さえ込もうとするのは・・・。」
「それはおまえの体ではない・・・。だったら一人しかいないだろう。なあ・・美雪。」
御剣は悪夢のそばに歩み寄った。悪夢は膝を折りつつも何とか後ずさりしようと足を動かすがうまくいくことはなかった。
『お・・にい・・ちゃん・・・。美雪は・・・まだ・・・消えてないよ・・・。』
押さえられた口からそんな声が漏れ出した。
「馬鹿な。おまえは私が消した。この体は私のものだ。」
悪夢は振りほどくように頭を振るった。美雪の髪が暗い夜の帳に踊る。
『ちがうよ・・・この体は美雪のもの。誰のものでもない。美雪のものなんだから!』
美雪は抗っていた。
「美雪・・・。行くぞ・・・。これが最後だ。」
御剣はマントの裏側から自分の背丈ほどもある巨大な鎌を取り出した。月の光に照らされ、鈍い銀の色を放つそれはいつものそれとは違っていた。
それは、希望の光に包まれていたのだ。
「ぐ・・・させるものか・・・。」
悪夢はそれでも立ち上がり、御剣と向き合う。
二人は相対した。
「御剣。」
肩に乗っていたミカエルがそっと耳打ちする、
「何だ?」
視線も表情も変えず、御剣は耳を澄ませた。
「奴の心臓をその鎌で貫くのだ。後は私に任せるがいい。」
悪夢は動かない、その中でうごめく美雪の強い意志がその行動を疎外しているのだ。悪夢は歯を食いしばった。
御剣は鎌をまっすぐと構えている。ただねらうは一点。悪夢、そして美雪の胸。
ふと、悪夢の力が抜けた。面を上げた悪夢はの顔には邪悪な笑みが張り付いていた。
「ふふふ・・・。自由が戻ったぞ!さあ。決着をつけようじゃないか!!」
御剣は眉をひそめた。悪夢の様子がなにやらおかしい。
「ミカエル・・・あいつは・・・。」
「分からぬ。だが、美雪のおかげで少し奴の力がそげ落とされたようだ。これはチャンスなのかもしれぬ。」
「その分こちらが少し有利か・・・。ミカエル・・少しの間離れていてくれ。」
御剣がそういうとミカエルは彼の肩から地面に降り立った。
「決着をつけよう・・。」
御剣は足を踏みしめた。
「のぞむところだ・・・。」
悪夢は腕をかざす。その腕には何も握られてはいない。悪夢には死神のような鎌はない。
「お前を滅ぼして鈴音を・・そして美雪を助ける。そのために俺はどうなってもいい。」
御剣は悪夢をきっとにらみつけた。
「???」
しかし、御剣はその一瞬見てしまった。悪夢が浮かべたその表情を。それは・・・。
「いくぞ!!」
しかし、彼の思考は悪夢が地面を蹴る音で中断させられる。
「くっ!」
しかし、彼は後ずさりすることなく、鎌を振りかざしまっすぐと悪夢につっこんでいく。
・・・・音とも言えないような不気味な音が世界を震撼させる。
「ふっ・・・。」
悪夢は口で笑っていた。
「お前・・・。」
御剣はうなった。
「これで私の思惑通りになった。」
悪夢は表情をゆるめると、満足げな笑みを浮かべていた。それは悪夢にはとても似つかわしくないような穏やかな笑みだった。
「なぜだ?なぜ・・・。」
御剣は今にも砕けそうになる膝を奮い立たせる。心がふるえる。彼はその震えを打ち払うように歯を食いしばった。
「なぜ・・・・なぜ避けなかった?」
御剣の持つ死神の鎌は一直線に伸び、悪夢の心臓に突き刺さっていた。
「いっただろう?私の思惑通りになったと。」
二人がぶつかり合う一瞬、御剣の一瞬見せた躊躇が悪夢の絶好の攻撃の機会になったはずだった。
御剣はあわてて鎌を前にふるった。それは、明らかに前だけを目指してふるわれたもので、悪夢であれば避けることは造作でもないことのはずだった。
しかし、悪夢はそのまま自らの勢いを殺すことなく自らその鎌に向かってつっこんだ。
「お前は・・いったい何がしたかったんだ。」
「悪夢というのは、この世界に生じたイレギュラー・・・。本来は存在してはいけないもの・・・・。私も日頃から自らの存在意義に疑問を持っていたのだ。」
「だが・・・お前は・・・。」
悪夢は深いため息をついた。死神の鎌が心臓に突き立てられている今、その先にあるものはひとえに滅びのみ。
「だから私は考えた。私は滅びようと思ったのだ。私は自分の意志で魂の流れに混乱を与えていたのではない。私が存在することだけで、魂に混乱は訪れる。私はいやになった。だから・・・。」
御剣の手は震えていた、しかし、鎌を放そうとはしない。
「だから・・・。お前を滅ぼせる俺の手で滅びようと思ったってことか?」
「そうだ・・・。私を滅ぼせるのはお前だけだからな。」
思えば最近の悪夢はあたかも御剣をねらっているかのそぶりを見せていた。
まるで、自分の存在を彼に知らせるように。しかし、いつも二人はすれ違いばかりしていたのだろうか。いっこうに事態は進展することはなかった。
「このままでは私は美雪の心を壊してしまうことになる。だから私は賭に出たのだ。」
それは、美雪に向かって”次は鈴音に死を与える”とほのめかしたこと。
どちらにせよ、悪夢の近くにいた鈴音はその運命にあったのだ。そして、美雪は自分の中にいる悪夢が彼女に死を与えつつあることを自覚する。
そして、彼女はすべてを御剣に話した。
「そして・・・俺はお前を滅ぼそうと心に決めた。それすらもお前の思惑だったってことか・・・。」
「そういう・・・こと・・・だ・・・。ふふ・・・お前は結局・・・私の手のひらで踊らされていたのだ・・・・。・・・・これで・・・ようやく楽になれる・・・・。」
悪夢は目を閉じた。
「さあ・・・ミカエルよ・・・そろそろお前も消える時間が来たようだ・・・。私・・・いや、美雪の中で・・・安らかに眠るがいい・・・・。私は・・・ようやくこの悪夢から目を覚ますことができる・・・・ふふふ・・・すばらしい・・・心地いい・・・。」
まるで子供が眠りにつくような穏やかな表情を浮かべ悪夢は滅びようとした。いや、悪夢は今こそ解き放たれるのだ。彼自身見続けてきた悪夢から・・・・。
「私の役目の時だ・・。」
ミカエルはそういうと御剣の肩に飛び乗った。
「御剣よ・・・そなたと過ごした毎日は実に充実しておった。」
「ああ、俺も楽しかったよ。」
ミカエルはその肩を通じて彼の持つ鎌へと伝っていった。
「ただ、唯一の心残りはそなた自身が幸せをつかむことの手助けができなかったということだ。」
御剣は唇の端を持ち上げるといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「いや。俺は幸せだったぜ・・・いや、俺が幸せをつかむのはこれからだ・・・。鈴音が生きている、そして美雪も生きている。悪夢はこの世界にいない。人として生きていけるのは後5年間だけだが・・・。俺は、幸せになってみせるさ・・・。だから、心配するな。俺は・・・大丈夫だから・・・。」
ミカエルは御剣から目をそらせた、
「そうか・・・では安心だ。そなたはもう私がいなくとも生きてゆけるであろう。再びまみえることはなかろうが・・・もし、再びまみえることがあれば。その時だ・・・。」
ミカエルは鎌の突き立てられた美雪の胸にまっすぐと飛び込んでゆく。
「じゃあな。ミカエル。美雪の中でゆっくりと休みな。」
「さらばだ・・・そなたも健やかにあれ。」
一瞬燃えるような光の瞬きが中庭全体に広がった。その光はやがて一点へと集約されてゆく。美雪の胸の一点へと・・・。
御剣は鎌を引き抜いた。
美雪の身体がどさりと地面に崩れ落ちる。
「終わったのか?」
御剣は鎌をマントにしまい込んだ。
「・・・・・。」
美雪は何も答えない、しかし、その表情は穏やかな生気をたたえていた。
御剣はマントを脱ぎ捨てた。彼は人間に戻る。そして、美雪をゆっくりと抱きかかえた。
『魂が肉体になじむまで時が必要なのだ。当分は目を覚ますことはないだろう・・・。』
ふと、御剣はミカエルの声を聞いたような気がした。
「生きているんならそれでもいいさ・・・。」
御剣は夜空を見上げた。
「星がきれいだな。なあ、美雪・・・。」
「・・・・・。」
聞こえるのは穏やかな寝息だけ。だが、御剣はそれだけでも十分だった。
「美雪・・・お前はようやく普通の人間になったんだ。早く目覚めちまえよ。それから、いろんなことをするんだぞ。鈴音と一緒にさ。俺はもう人としてはお前とは会えないかもしれないが・・・幸せになるんだぞ・・・。今度こそな・・・。」
星の瞬きは月の光と相まって街を優しく包み込む。街の見る夢、それは穏やかな静寂に包まれていた。
エピローグ
どれだけの時が経ったのだろうか?
私はひとえに広がる闇の中に漂っていた。
暗い闇。だけど、どこか暖かな雰囲気に包まれたとても居心地のいい場所だった。おそらく人は生まれる前までずっとこの闇に包まれて育ってきたのだろう。
そして、産み落とされたとき初めて光を知る。
最初から光があるんじゃない。
闇が最初にあったんだ。
『目覚めの時だよ・・・。』
誰かの声がする。私はじっと耳を澄ませていた。
『さあ、目を開けて周りを見てみて・・・。そこには、きっとすばらしい世界が広がっているから・・・。あなたは・・・美雪という一人の人間として目覚めるの・・・。』
気がつくと私を包み込む闇に一条の光が差し込んでいた。居心地の良さそうな光。柔らかい暖かさ、そして優しさを含む光が私を照らしていた。
私はその光に向かって泳ぎ出す。やり方は分からないけど、私はただ一心にそれに向かって泳いでいった。
私は光に包まれる。私という一つの意識がしだいに輪郭を帯びてゆく。
それは、私という存在が生まれる瞬間だった。
私は深い喜びに身を震えさせた。
世界はこんなにも暖かだったんだ・・・。
※
「・・・・・。」
美雪は目を開いた。長い長い夢を見ていたような気がする。
「・・・・・。」
次第に戻ってくる身体の感覚から、彼女は自分が寝かされていることに気がついた。そして、自分をじっと見つめている幼い少年の目。
それは、彼女の知っている顔だった。
「お兄・・・ちゃん・・?」
彼女は記憶の中の御剣を思い起こす。
しかし、その少年は何も答えない。にっこりと彼女を見つめていた。そして、その笑みが最高潮に達したとき、始めて彼は口を開いた。
そこから紡ぎ出された言葉はまるで詩を朗読しているかのようなゆったりとした流れがあった。
「おはようございます。僕は、裕樹・・・。初めまして・・・美雪おばさん・・・。」
美雪の新たな世界が幕を開いた・・・。
End